城跡の写真
          武蔵国 伝源経基館(でんみなもとのつねもとやかた)


六孫王経基城址の碑
 城 名   : 伝源経基館

 所在地   : 埼玉県鴻巣市

 伝築城   : 平安時代中期      源経基 説

 伝廃城   : 不明

 形 式   : 平城



 埼玉県指定史跡

 駐車場なし

  地図はこちらから → 地図(Map)
六孫王経基城址の碑
 館を取り囲んでいる 土塁 の北西隅に立つ 碑 です。

 木漏れ日が荘厳な雰囲気を感じさせます。

土塁 堀
土塁
 館を取り囲んでいる 土塁 です。

 低地に面する西方以外の北・東・南の三方向に築かれ
 ており、堀底から土塁頂部までの比高差は 3mあるそう
 です。

 土塁 の外側を囲んでいる 堀 です。

 関東ローム層の下の砂層まで掘り抜かれており、元々
 空堀 だったと推定されています。

【 伝源経基館の構造 】
 埼玉県鴻巣市にある 伝源経基館(でんみなもとのつねもとやかた) は、俗に ゙城山(しろやま)" とも ゙浅間山
 (せんげんやま)" とも呼ばれ、東西 95m、南北 85mの広さを持つ方形館で、荒川の沖積低地が広がる西方以外
 の北・東・南の三方を 土塁 と 堀 に取り囲まれた天然の要害です。
 堀 は、関東ローム層の下の砂層まで掘り抜かれており、東辺では幅 10m、堀底から土塁頂部までの比高差 3m
 を誇り、全てが 水堀 ではなく 空堀 だったと推定されています。
 この館址を 源経基 の居館とする説は、「将門記」 の記録からの推定ですが、これまでの調査から中世の陶磁器
 片しか出土しておらず、館の正確な築造時期は判然としないそうです。

【 清和源氏の祖 源経基 】
 経基王 は、清和天皇 の皇子 貞純親王 の第六子に当るので、゙六" と ゙孫" を組み合わせて 「六孫王」 と呼ばれ
 ています。( 清和天皇 の六男 貞純親王 の子との説もあります。 なんかややこしいですね・・・ )
 やがて、経基王 は ゙源"姓を賜って ゙臣籍降下" し、後に 「清和源氏」 の祖となる 源経基 を名乗ります。
 平安時代の中期、天慶元年(938年)に 経基 が 武蔵国(埼玉県)の ゙介(すけ:国司の次官)" となって下向して
 以来、子の 満仲(みつなか) 、孫の 頼信(よりのぶ)、そして 頼義(よりよし)・義家(よしいえ) と代を重ねて、
 坂東の地に強固な 「清和源氏」 の地盤を築きます。

【 平将門、藤原純友との戦い 】
 天慶元年(938年)に 武蔵介 として下向して来た 経基 と、武蔵権守 興世王(おきよおう) は、古くから土着して
 いた足立郡の郡司 武蔵武芝(むさしのたけしば) との間に争いを起こし、この紛争の調停に当時、坂東の豪族
 たちに絶大な信頼を得ていた 平将門 が介入します。
 調停の最中に身の危険を感じた 経基 は都へ帰り、「平将門の反乱」 を報告し、翌天慶 2年(939年)に報告は
 現実のものとなって、将門 による坂東諸国の国府への攻撃が始まります。
 坂東の地を席捲したこの大乱は、平清盛 の祖となる 平貞盛(たいらのさだもり)と、奥州藤原氏の祖と云われる
 藤原秀郷(ふじわらのひでさと) によって、都よりの将門討伐軍が到着する前に平定されます。
 経基 は、都よりの将門討伐軍に 「征東副将軍」 として従軍、またほぼ同時期に西海で起こった 藤原純友(ふじ
 わらのすみとも) の乱では 「追捕使次官」 として活躍をします。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   JR鴻巣駅の南、埼玉県立鴻巣高校のグラウンドに隣接する 源経基館 は、南を流れる荒川、周囲の田園
   風景に、適度に整備された遺構が融和し、伝説の真実性を信じたくなる良好な史跡です。
   小規模な印象を受けるこの史跡ですが、源経基 の時代の坂東の地は 桓武平氏 の力が強かったと思わ
   れるので、仕方はないのかも知れません。



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