城跡の写真
          武蔵国 松山城(まつやまじょう)


松山城跡の碑
 城 名   : (武州)松山城

 所在地   : 埼玉県比企郡吉見町

 伝築城   : 鎌倉時代初期      新田 義貞 説
        : 応永年間初期     上田左衛門尉 説
        : 応永23年(1416年)  上田上野介 説

 伝廃城   : 慶長 6年(1601年)   松平 忠頼

 形 式   : 平山城

 小説への登場場面
  新田次郎著 「武田信玄」 三巻 〜 松山城土竜戦法 〜

 埼玉県指定史跡

 駐車場なし ( 吉見百穴 の駐車場から歩いて 5分ほど )


  地図はこちらから → 地図(Map)
松山城跡の碑
 山頂の 物見櫓跡 に建つ 松山城跡の碑 です。

 かなり大きな碑で見る者を圧倒します。

本丸跡 二の丸跡
本丸跡 二の丸跡
 本丸跡 です。

 竪堀 を登った頂上部にあります。
 
 二の丸跡 です。

 本丸 の東側に位置します。

春日丸跡 三の丸跡
春日丸跡 三の丸跡
 春日丸跡 です。

 二の丸 の東側に位置します。
 三の丸跡 です。

 城のもっとも東側に位置します。

兵糧倉跡 空堀その一
兵糧倉跡 空堀その一
 兵糧倉跡 です。

 本丸 の北側に位置します。

 空堀その一 です。

 土塁と組み合せて高低差を出しています。
 
空堀その二 岩室観音
空堀その二 岩室観音
 空堀その二 です。

 このような 堀 が各郭を区切っています。

 岩室観音 です。

 独特な雰囲気で、夜に来るのはちょっと恐いです。

松山城の構造
 松山城 は、江戸や鎌倉から 上野国(群馬県) へ通ずる要路上にある 吉見丘陵 の先端に築かれた平山城
 で、東南西の三方向を 市野川 に囲まれ、さらに川の氾濫によって生じた沼や湿地も各所に配された天然
 の要害で、全面に川が流れていることから ゙流川(ながれかわ)の城" とも呼ばれていました。
 市野川 に突き出た部分から、「本丸」 「二の丸」 「春日丸」 「三の丸」 と南西から北東に向かって一直線に
 並び、その両側に多くの郭、平場を持っている造りで、この主郭群の東方にも第二次的な施設がありました
 が、太平洋戦争後の土地開発で原形を失ってしまったとのことです。

様々な築城説
 城の歴史は古く、古代にさかのぼるとさえ云われ、鎌倉時代の新田義貞陣営説、応永年間の上田左衛門尉、
 上田上野介の築城説(この上田氏の先祖は、源頼朝の異母弟の 源範頼 と云われています)など諸説ありま
 すが、 15世紀中頃に 扇谷上杉氏 と 古河公方 対立の状勢のうちに築城されたと見るのが正解のようです。
 
松山城を巡る攻防
 有名なのは、天文年間から永禄年間にかけての 上杉氏、武田氏、北条氏 の 松山城 を巡っての攻防です。
 中でも永禄 5年(1562年)、上杉憲勝 が城主だったときに 北条・武田 の連合軍が攻め寄せ、一向に落ちる
 気配のない 松山城 を見た 武田信玄 が、甲斐国(山梨県)より 金堀衆 を呼び、地下に穴を掘って戦意を
 喪失させて、降伏に持ち込んだと云われています。
 その後は、北条氏 の手に帰していましたが、天正18年(1590年)の 豊臣秀吉 による小田原征伐の際に、
 前田利家、上杉景勝 らの大軍勢に攻撃され落城しました。
 同年に 徳川家康 が関東へ移封されると、一門の 松平家広 が城主となりますが、関ヶ原の戦い の翌
 慶長 6年(1601年)に城主 松平忠頼 が、遠江国の浜松へ転封されたのを最後に廃城されました。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   吉見百穴 の駐車場に車を止めて、城跡へ向かって歩くと最初にあるのが 「岩室観音(いわむろかんのん)」
   で、弘仁年中(810〜824年)に岩をうがって観音像を祀ったと云われているところで、松山城城主により代々
   保護をされて来たそうで、観音像は、四国八十八ヶ所弘法大師巡錫の霊地に建てられた寺々の本尊を模し
   たもので、八十八体あるそうです。

   ... さて、いよいよ登城です。
   「登り口」 より急激な道( 竪掘 と推測される)を登って、「本丸跡」 へ行くことになりますが、石段や手すりが
   無い( 山頂部に少しだけありますが )ため、ちょっと危険だと思われます。
   「本丸跡」 から各郭跡へは 「空堀」 まで降りて散策することになりますが、登り同様に降りるときにも十分に
   注意が必要です。
   全体的に遺構の保存状態は極めて良く、変な整備もされていないため、山城の楽しさと往時の雰囲気を感じ
   ることができると思います。



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