城跡の写真
          武蔵国 忍城(おしじょう)


復興御三階櫓
 城 名   : 忍城

 所在地   : 埼玉県行田市本丸

 伝築城   : 文明10年(1478年)  成田 顕泰 説
          延徳 3年(1491年)  成田 親泰 説

 伝廃城   : 明治 6年(1873年)  松平氏 説

 形 式   : 平城(水城)


 駐車場完備

  忍城跡 の地図はこちらから → 地図(Map)

  石田堤 の地図はこちらから → 地図(Map)
復興御三階櫓
 忍城本丸跡 に再建された 復興御三階櫓 です。

 隣にある 行田市郷土博物館 と連結されており、内部は展示室
 と展望台となっています。

本丸跡の碑 門
本丸跡の碑
 駐車場にある 本丸跡の碑 です。

 さて、私の車はどこでしょうか? (^^)
 復興御三階櫓 の隣に位置する 門(復興?) です。

 本丸の東側に位置し、なかなか威厳があります。

鐘楼 土塁
鐘楼 土塁
 本丸跡 にある 鐘楼 です。

 かつて二の丸にあり、時を告げていた姿を再建しています。

 本丸跡 にある 土塁 です。

 草が刈り取られていて、分かり易くて良いです。
東照宮 水城公園
東照宮 水城公園
 本丸跡 の北側に建つ 東照宮 です。

 徳川家康の長女 亀姫 が、父 家康 の肖像画を、子の 松平
 忠明 に伝え、忠明 が社殿を造営したのが始まりと云われて
 います。 静寂さが伝わる一枚です。
 本丸跡 の南東に位置する 水城公園 です。

 現在は市民の憩いの場として整備されていますが、
 往時の沼水の名残をとどめています。
 水面に映える木々が美しいです。

石田堤 櫓風モニュメント
石田堤 櫓風モニュメント
 忍城跡 から離れた場所にある 石田堤 です。

 現在は、石田堤史跡公園 として整備されており、充実した説明
 板と、堤の断面を見られるのは嬉しい限りです。
 しかし、道路標識が少ないことと駐車場が無いことは痛いです。
 石田堤史跡公園 にある 櫓風のモニュメントです。

 上越新幹線の高架下にあり、櫓の下に立つと戦国時代
 にタイムトリップできるアナウンスが流れます。
 なかなか面白い趣向です。 (^^)


【 忍城の構造 】
 「関東七名城」 の一つに数えられている 忍城 は、荒川と利根川の水利を巧みに利用した湿地に立つ堅牢な平城で、
 本丸、二の丸、三の丸など大小約20の郭が、沼沢地、泥田によって区画され、極めて複雑に構築されていました。
 永正 6年(1509年)に、忍城 を訪ねた連歌師の宗長(そうちょう)の書いた日記によると、城の周囲は四方が沼水で、
 霜で枯れた葦が幾重にも重なり、水鳥が多く見えたとあるそうです。
 これらから、天然の沼地の中に、島状に残る微高地や自然堤防を利用して造ったということが想像できると思います。

【 忍城の歴史 】
 忍城 は延徳元年(1489年)、成田館(埼玉県熊谷市)に住んでいた 成田親泰(なりたちかやす) が忍を支配していた
 忍大丞(おしだいじょう) を攻め滅ぼしてこの地に移住し、翌延徳 2年(1490年)に築城に着手し、延徳 3年(1491年)
 に完成したものと云われています。
 また、親泰 が攻め滅ぼしたのを 児玉重行 とする説や、古河公方 足利成氏(あしかがしげうじ) が文明11年(1479年)
 に書いた書状に、 「忍城 成田」 と出ていることから文明10年(1478年)頃には、ときの当主 顕泰(あきやす)により築
 かれていたとも云われており、いまひとつ判然としません。
 しかし、これより以降、天正18年(1590年)に 徳川家康 が関東へ移封するまでの約100年の長きに渡り、成田氏 の
 支配する時代になったのは確かな事実です。

【 成田氏の悲哀 】
 群雄割拠の戦国時代に入り、北条氏康 と 上杉謙信 が対立を深めた 長泰(ながやす) の代には、北条方 に属した
 ため、数度に渡り、謙信 に攻められています。
 また、永禄 4年(1561年)の 謙信 の小田原攻めにおいて、長泰 は 上杉方 として参陣しており、他の関東の諸豪族
 同様に 北条、上杉 という二大勢力の狭間にあって、その進退に苦悩していたことを窺い知ることができます。
 余談ながら、この小田原攻めの最中、謙信 の関東管領就任式が鶴岡八幡宮社前で執り行われますが、このときの
 長泰 の振る舞いに怒った 謙信 が、長泰 を打擲(ちょうちゃく)するという事件が起きたことが、諸書に記されており、
 これにより 謙信 は神験を得ることができず、厩橋城 へ帰城したとあります。

【 浮き城の異名を取る 】
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉 は関東攻めにおいて 小田原城 を攻囲しますが、この時、豊臣方の武将 石田三成 は
 別働隊として関東の北条方の城の攻略を命ぜられ、総勢 2万を超える大軍を率いて、上州 館林城 を開城させ、意気
 揚揚と武州 忍城 に向かいます。
 忍城 から南東の方角に位置する 丸墓山 に布陣した 三成 は、周囲 7里(約30km)にも及ぶ長大な堤を築き、忍城 を
 水攻めにしますが落城せず、北条氏の本拠地 小田原城 が開城した後に、小田原で 秀吉 に帰順した忍城主 氏長 の
 勧告により、忍城 はようやく開城しました。
 このときの城の様子が、水の中に浮いているように見えたため、「忍の浮き城」 と呼ばれるようになりました。
 この事実をもって、三成 を 「戦下手」 とする向きがありますが、忍城 は低湿地に囲まれてはいるものの、地形の高低
 を考えて縄張りされているため、荒川、利根川の水を引き入れても水没させるのは困難な造りとなっていました。
 また、忍城 の水攻めを指示したのは 秀吉 とする説もあり、三成 の軍才に疑問符を付けるのは早計かと思われます。

【 その後の忍城 】
 徳川家康 の関東移封に伴い、北武蔵の重要地点にあった 忍城 は、松平家忠 を始めとし、家康四男の 松平忠吉、
 後の徳川幕府大老の 酒井忠勝、゙知恵伊豆" と呼ばれていた 松平信綱 など、譜代大名が代々居城し、江戸幕府の
 老中、大老などの要職に就くものが多かったと云うことです。
 その後、明治維新の戦火を逃れた 忍城 でしたが、明治 6年(1873年)に主な建物は、破壊されたり競売に付されたり
 してしまい、現在に至ります。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   忍城跡 は、私の現住所に近い場所にあり、何回か足を運んでいますが、写真にある代表的な遺構の他に市街
   地にも様々な史跡(碑)があるとのことなので、今後も時間を見つけて廻ろうと思っています。
   また、石田三成ファンの方は、石田堤史跡公園 を訪れることをオススメします。
   現在に残る当時の 堤 と各種の説明板を見ながら、忍城跡 の方角を眺めたとき、堤 の規模の大きさに驚愕し、
   ただ呆れてしまうことでしょう・・・ (^^;



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