城跡の写真
          信濃国 海津城(かいづじょう)


海津城址之碑
 城 名   : 海津城(松代城)

 所在地   : 長野県長野市

 伝築城   : 永禄 3年(1560年)  武田信玄 説

 伝廃城   : 明治 7年(1874年)  廃城令

 形 式   : 平城


 小説への登場場面

     新田次郎著 「武田信玄」 ニ巻 〜 赤い狼煙 〜
           
 国指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
海津城址之碑
 本丸に建つ 海津城址之碑 です。

 城の威厳を現すかのように立派です。
 
復元土塁 ニの丸御門 より望む
復元土塁 ニの丸御門 より望む
 復元土塁 です。

 広大な城の周囲をぐるりと囲んでいます。

 ニの丸御門 より 太鼓御門 を望む。

 土塁、石垣と綺麗に整備され、照明設備も設置されています。

太鼓門 戌亥櫓台
太鼓門 戌亥櫓台
 太鼓門 です。

 本丸の大手(正面)にあった門で、木工、左官、建具などの
 工事を可能な限り、当時の工法で復元したとのことです。

 城の北西方向に復元された 戌亥櫓台 です。

 復元に当っては、整備前の石一つ一つに番号を付け、位置を
 記録し、往時の状態に戻すよう配慮したとのことです。
縄張復原想定図 石場御門
縄張復原想定図 石場御門
 海津城の 復原想定図 です。

 図の上側(北側)に、千曲川が流れています。
 石場御門 です。

 城の東側に位置しています。


北信濃侵攻の拠点
 長野県長野市松代町にある 海津城 は、甲斐の 武田信玄 が、越後の 上杉謙信 との信濃国の覇権を賭けた戦いにおいて、
 永禄 3年(1560年)に 山本勘助 に命じて千曲河畔に築かせた城です。
 海津城 の軍事的価値を重要視した 信玄 は、後に武田四名臣の一人とされる重臣の 高坂昌信 を配置し、謙信 への押えと
 します。

第四次川中島の戦い
 永禄 4年(1561年) 8月15日、越後より兵を進めて来た 謙信 の軍勢を見て、城主 高坂昌信 は、狼煙台などの情報伝達網を
 駆使し、甲斐府中 に急報を知らせます。 このときに要した時間は僅かに 2時間半だったと云われています。
 8月18日、甲斐府中を進発した 武田軍 は、信濃の諸将の参陣を待ちつつ行軍し、24日に 茶臼山 に一旦は布陣しますが、
 妻女山 に布陣する 上杉軍 が動かないのを見てとると、29日に全軍を 海津城 に入城させます。

 動く気配を全く見せない両軍・・・
 対陣から20日余りが過ぎ、戦線が膠着状態に陥りつつある 9月 9日、信玄 は軍議を開き、諸将の意見を求めます。
 このとき、発案されたのが後世名高い 「啄木鳥(きつつき)の戦法」 です。
   軍を二手に分けて、別働隊 が 妻女山 の 上杉軍 の後背を衝き、予定戦場である 川中島 へ追い落とし、あらかじめ配して
   おいた 主力部隊 で待ち構えて、包囲殲滅すると云う戦法です。
 なお、この戦法の発案者は 海津城 を縄張りした 山本勘助 とも、武田四名臣の一人 馬場信春 とも云われています。

 その晩の 武田軍の将士 は炊煙も高らかに、明日の決戦を前に武者震いをしたことでしょう。
 上杉軍 の物見の兵が、武田軍 の異常を感じ取り、謙信 のいる本陣へ駆け込んで行ったとも知らずに・・・

松代城と名を改める
 その後の 海津城 は、武田氏滅亡後に、森長可 、田丸直昌 、森忠政 と城主を目まぐるしく変え(他にも徳川家の武将が何人
 か城主になったと云うことです)、元和 8年(1622年)に 上田城 より 真田信之 が移って来て入城します。
 やがて、正徳元年(1711年)に 海津城 から 松代城 へ名称を改め、真田氏10万石の居城として栄えますが、明治 4年(1871年)
 の廃藩置県において、築城より約 310年間、真田氏の入封より約 250年間の歴史に幕を引き、廃城となったそうです。

改修の歴史
 なお、山本勘助 の縄張り(設計)と云われていますが、現在の姿は、 田丸直昌 のときに土塁から石垣へ、森忠政 のときに
 ニの丸、三の丸 の拡張を、それぞれ改修したというのが真実のようです。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   平成15年 5月に訪れましたが、写真で見えるように土塁、櫓台、門などの整備改修を行っていました。
   城の外郭部を囲む土塁(?)も今後、整備する雰囲気があり、さらに堀に水を引き入れれば、かなり見ごたえのある城郭と
   なる気がします。
   余談ですが、ここから 謙信 の陣地である 妻女山 はとても間近に望見できます。武田軍はさぞかし心細かったでしょう・・・



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