城跡の写真
          信濃国 上田城(うえだじょう)


東虎口櫓門と南北の櫓
 城 名   : 上田城

 所在地   : 長野県上田市

 伝築城   : 天正13年(1585年)  真田昌幸 説

 伝廃城   : 明治 7年(1874年)  廃城令

 形 式   : 平城


 国指定史跡

 駐車場完備


  地図はこちらから → 地図(Map)
東虎口櫓門と南北の櫓
 城の大手口に当たる 東虎口櫓門 と 南北の櫓 です。

 冬に撮影したので、木の枝が少し淋しいです。

東虎口櫓門 真田石
東虎口櫓門 真田石
 城の大手口に当たる 東虎口櫓門 です。

 上田城を巡る数々の戦いの舞台となった大手口で、
 左に 南櫓、右に 北櫓 を配しています。
 現在のものは、平成 6年(1994年)に復元されました。

 東虎口櫓門 横の石垣にある 真田石 です。

 上田城の北方にある 太郎山 から掘り出した 3mもの
 巨石で、真田信之 が松代移封の際に持って行こうと
 したところ、微動だにしなかったと云われています。

西櫓 西櫓の石垣
西櫓 西櫓の石垣
 尼ヶ淵の段丘上に立つ 西櫓 です。

 本丸の南西に立つ 西櫓 は、仙石氏が城主のときに
 造られた、西虎口を守るための重要な櫓です。

 西櫓の石垣 です。

 西櫓 の直下は、13mもの懸崖の 尼ヶ淵 であり、その
 裾を洗うように千曲川が流れていたということです。

本丸跡 真田井戸
本丸跡 真田井戸
 上田城の中心に位置する 本丸跡 です。

 かつては城主の居館があったと考えられていますが
 現在は市民の憩いの場となっています。

 上田城内の唯一の大井戸である 真田井戸 です。

 井戸には抜け穴があり、北方の太郎山麓の砦に通じ、
 兵糧の運び入れが自由に出来たと云われています。

北東隅櫓の礎石 本丸土塁の隅おとし
北東隅櫓の礎石 本丸土塁の隅おとし
 本丸跡にある 北東隅櫓の礎石 です。

 北東隅櫓 は現存する西櫓と同規模だったと考えられ
 ており、写真はその中心の芯柱の 礎石 です。
 ただし、明治時代以降に動かされ、位置が若干ずれ
 ているそうです。

 本丸北東部の 本丸土塁の隅おとし です。

 本丸の北東(鬼門)に位置するため、土塁の隅を
 切り込んで 「鬼門除け」 としたそうです。
 二の丸の土塁も、同様に施されていたそうです。
水堀 北虎口の石垣
水堀 北虎口の石垣
 本丸を取り囲んでいる 水堀 です。

 往時の姿を今に残している 水堀 は、城の東方
 を流れる神川から引き入れられていたと云われ
 ています。

 二の丸の 北虎口の石垣 です。

 二の丸 の北側に残る 北虎口の石垣 は、松平氏が
 城主のときに造られましたが、財政難により途中で
 断念されたと伝えられています。
二の丸跡 大手門
二の丸跡 大手門
 本丸の水堀を挟んで位置する 二の丸跡 です。

 現在は、上田市立博物館や山本鼎記念館などが
 建ち、公園として綺麗に整備されています。
 上田市立博物館には、真田氏関連の資料が展示
 されていますので足を運んでみては?

 大手口より東側にある 大手門 です。

 現在は市街地となっているこの付近は 三の丸 で
 あり、ここに上田城の 大手門 がありました。
 写真では分かりづらいですが、鉤の手状となって
 おり、枡形 を構成する石垣も残っています。

戦国大名 真田昌幸
 天正10年(1582年)、織田信長 により、主家である武田家を滅ぼされた 真田昌幸 は、独力での領土維持
 が困難と見るや、信濃国(長野県)の小県郡真田郷を拠点に四囲の情勢を独自の諜報網で情報収集し、
 織田、北条、徳川、上杉と目まぐるしく主家を替え、かつ息子の 信繁(幸村)を人質に差し出すなど智謀の
 限りを尽くして戦国の世の荒波を泳ぎ始めます。
 後に 豊臣秀吉 をして、「表裏比興の者」と云わしめた戦国大名 真田昌幸 の誕生です。

新たな拠点 上田城
 緊迫した状況下の天正11年(1583年)、昌幸 は上田盆地のほぼ中央に位置し、北国街道が走る要衝の地
 にある懸崖 尼ヶ淵 の台上に、千曲川と神川の二つの大河と千曲川の支流の矢出沢川を天然の堀とした
 城を築き、新たな領国経営の拠点と定めます。
 従来の居城であった小県郡真田郷の 真田本城(戸石城 との説もあります) は山上に築かれており、戦時
 は難攻不落を誇る要害でしたが、領国経営の面から見ると甚だ不便な場所にありました。
 上田城 と名付けられたこの城は築城開始から1年後の天正12年(1584年)に完成し、昌幸 は城郭としての
 機能の他に領国経営の観点から、技能集団である職人を移住させ城下町を整備しました。
 昌幸 の軍配により、戦史に華麗なる一頁を綴ることになる 上田城 が産声を上げた瞬間です。

神川合戦(第一次上田合戦)
 主君の 徳川家康 が、北条氏直 との講和の条件として上野国の 沼田城 の引渡しを決めたことに憤慨した
 昌幸 は、上杉景勝 へ次男の 信繁 を人質として差し出し、徳川から上杉へ主家を替えます。
 昌幸 の離反を知った 家康 は、天正13年(1585年) 8月、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 らに 7,000の
 兵を預け 上田城 を攻めさせます。
 対する真田軍は 2,000程度の兵しかいないため、昌幸 は野戦を避けて 上田城 で迎え撃つこととし、城下
 のいたるところに柵を千鳥に結い、農民たちに武器を持たせて城下に埋伏させます。
 また、上田城 の東北に位置する 戸石城 に長男の 信幸 を別働隊として入城させ、自らは 信繁 とともに
 上田城 で迎え討つという万全の態勢で待ち構えます。

 数を頼りに攻め掛かる徳川軍は、さしたる抵抗も無いまま城下へ侵入しますが、本丸まであと少しという
 ところに迫ったとき、頃や良しと見た 昌幸 が、信繁 とともに城門を開いて討って出るや、城下に埋伏して
 いた農民兵たちもそれに呼応して徳川軍に襲い掛かります。
 攻撃に対処しようとする徳川軍ですが、千鳥に設けられた柵が邪魔で思うように身動きが取れません。
 混乱の最中、戸石城 から急襲して来た 信幸 の別働隊が側背を衝いたため、全軍総崩れとなり、神川
 まで押し戻されてしまい、折からの増水で奔流となっているにも関わらず、恐怖に駆られた兵が次々と
 入水し対岸へ逃れようとしたため、その多くが濁流に呑まれてしまう結果となりました。
 一連の戦いの死傷者は、真田軍 40人前後に対し、徳川軍は 1,000人近くにもなり、戦意を喪失したのか
 兵力で勝る徳川軍ですが、この後も 上田城 を窺う動きを見せるものの攻略は出来ずに撤退します。
 この戦いに勝利した 真田昌幸 の名は四隣に響き渡ります。

関ヶ原の戦いの勃発
 慶長 5年(1600年)、上杉景勝 を討つべく東下の途にあった 家康 は下野国小山(栃木県小山市)で、
 石田三成 ら西軍の挙兵を知ると、軍を二手に分けて西へ反転し、西軍と戦うことを決めます。
 上杉討伐軍に加わっていた 真田昌幸、信幸、信繁 父子の元にも西軍挙兵の報が入り、真田父子は
 今後の進路について、下野国の犬伏の地で話し合いを行います。
 ここに 昌幸、信繁 は西軍に加担すことを決め、家康 に無断で陣を引き払い上田へ帰ってしまいますが、
 徳川家と姻戚関係にある 信幸 はそのまま陣に残り、東軍として戦うことを決めます。

第二次上田合戦
 二手に分けた東軍の内、徳川軍本体とも言うべき 38,000 の大軍を任された 家康 の三男の 秀忠 は、
 後顧の憂いを断つべく中仙道途上にある 上田城 の攻略を決意し、小諸城 に入城すると、東軍の一員
 となった 信幸 に 戸石城 を占拠させ、上田城 を包囲します。
 信幸 と 本多忠政 を使者として降伏の交渉は開始されますが、降伏する気がないにも関わらず含みを
 持たせた返答をする 昌幸 に翻弄され無為な日々を過ごした挙句、交渉は決裂します。
 徳川軍は田圃の稲穂を刈り、真田軍を挑発し、上田城 から出て来た真田軍がこれに応戦したことから、
 小競り合いが始まり、これがやがて真田軍と徳川軍の全面的な戦いに発展して行きます。
 数に劣り退却する真田軍を追いかける徳川軍が 上田城 に近付いたとき、城からの一斉射撃と伏兵に
 よる攻撃を受け、逆に押され気味となり、ついには敗走し始めてしまいます。
 神川河畔まで敗走したとき、轟音とともに濁流が押し寄せて来て、多くの兵が濁流に呑み込まれます。
 昌幸 は時間に余裕の無い徳川軍を焦らせて城の深くに誘き寄せ、伏せていた兵がそれを討ち、逃げて
 行った神川の堰を切り、奔流に襲わせるという心理面に訴える作戦を実行したのでした。
 15年前の戦の再現ともいうべき惨澹たる有様を見た 秀忠 は我に返り、上田城 攻略を諦め、中仙道を
 西上しますが、時既に遅く、関ヶ原での一大決戦は東軍勝利で終わっていました。
 一度ならず二度までも徳川軍に勝利した 昌幸 の名は天下に知れ渡りますが、西軍が敗北してしまった
 ため、紀伊国(和歌山県)の九度山へ配流されてしまいます。

その後の上田城
 上田城 は 関ヶ原の戦い 後に城主となった 信之(信幸から改名)のときに破却され、元和 8年(1622年)
 に 信之 が同じ信濃国の松代へ移封され、仙石忠政 が入封したときに再建し、現在見ることのできる 西櫓
 などを造営したと云われています。
 やがて、宝永 3年(1706年)、仙石氏の後を受けて 松平忠周 が城主となり、その後は松平氏の治世の下、
 明治 4年(1871年)の廃藩置県を迎え、城郭としての歴史に幕を閉じます。
 上田城 はその後、民間に払い下げられ、北櫓 と 南櫓 は遊郭として再利用されることになりますが、市民
 による熱心な復興運動が起こり、昭和24年(1949年)に南北二つの櫓は元の位置に戻ります。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   平成22年 3月、この頁を全面的に改版しようと思い、数年振りに 上田城 を訪れました。
   今回は写真撮影を目的に城内を散策しましたが、地元の人がジョギングしていたり、学生たちが部活の
   練習で 二の丸 を走っていた点は従来と同じ風景ですが、明らかに違うのは私と同じ「城跡巡り」で来て
   いる人の多さ、とりわけ若い女性がカメラ片手に歩いている姿が目立ちました。
   いわゆる「歴史ブーム」の影響なのかも知れませんが、一過性で終わって欲しくないのと、戦国時代を
   足掛かりに南北朝時代や明治以降の近代などにも興味を持って欲しいなと思いました。

   話がそれてしまいましたので軌道修正します。
   上述のとおり、現在の 上田城 は真田氏の時代ではなく、その後の城主である仙石氏、松平氏の時代の
   遺構が大部分ですが、私を含めてここを訪れる人は 「徳川軍を二度に渡り、撃退した真田氏の上田城」
   を求めて来ているのではないでしょうか。

   本丸跡 には、真田昌幸・幸村(本文中は信繁)父子を祭神とする 「真田神社」 があり、真田十勇士の
   グッズも売られていますので、そこからも「真田氏の上田城」を感じることが出来ると思います。
   また、上田駅前には我がHPの扉絵を飾ったこともある 真田幸村の像 が建っています。
   大阪の陣における颯爽とした姿はとてもカッコ良いので、ぜひ足を運んで見ていただきたいと思います。



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