城跡の写真
          能登国 七尾城(ななおじょう)


七尾城址の碑
 城 名   : 七尾城

 所在地   : 石川県七尾市

 伝築城   : 大永年間(1521〜1528年) 畠山氏 説

 伝廃城   : 天正17年(1589年) 前田利家 説

 形 式   : 山城


 小説への登場場面

    津本陽著 「武神の階」 〜 霜は軍営に満ちて 〜

 国指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
七尾城址の碑
 本丸 に立つ、巨大な 七尾城址の碑 です。

 本丸 は東西 50m×南北 40mの広さを誇ります。

本丸からの眺望 遊佐屋敷跡
本丸からの眺望 遊佐屋敷跡
 本丸からの眺望 です。

 本丸 から 七尾湾 方向を望んだ一枚です。
 標高 約300mの素晴らしい眺望、吹き抜ける涼風に、
 時が経つのも忘れ、しばしの休息を味わいました。

 遊佐屋敷跡 です。

 本丸 のすぐ西側に位置することから、城主に次ぐ
 守護代の地位にあった 遊佐氏の屋敷跡 と伝え
 られています。
桜馬場 桜馬場の石垣
桜馬場 桜馬場の石垣
 桜馬場 です。

 遊佐屋敷 の西側に位置し、軍馬を検分したり、調練
 を検閲した郭と云われています。
 桜馬場の石垣 です。

 調度丸 から見た 桜馬場の石垣 で、野面積みの
 重厚な雰囲気が、写真からも伝わって来ます。

桜馬場の石垣 調度丸
桜馬場の石垣 調度丸
 桜馬場の石垣 です。

 別の角度から撮影した一枚ですが、苔むした感じ
 が伝わり、歴史の流れを感じます。

 本丸 の北側に位置する 調度丸 です。

 弓矢などの武具(調度)を整えた郭で、ここから
 多数の出土品が発見されたそうです。

温井屋敷跡 九尺石
温井屋敷跡 九尺石
 桜馬場 の西側に位置する 温井屋敷跡 です。

 遊佐氏 と同じく、七尾城主 畠山氏 を補佐する重臣
 の 温井氏の屋敷跡 と伝えられています。

 温井屋敷跡 の南側にある 九尺石 です。

 その名のとおりの大きさの石で、七尾城 の鎮護の
 かなめ石 と云われています。
二の丸 堀切
二の丸 堀切
 温井屋敷跡 の西側に位置する 二の丸 です。

 北・南・西方面の三方を絶壁に囲まれ、自然の地形
 を巧みに利用した郭です。

 二の丸 と 三の丸 の間にある 堀切 です。

 写真では伝わりにくいかも知れませんが、かなりの
 傾斜があり、とても疲れました。(苦笑)
三の丸 安寧寺跡の畠山廟
三の丸 安寧寺跡の畠山廟
 三の丸 です。

 七尾城 最大の南北 110m×東西 25mの広さを誇り、
 二の丸 との間は、深い 堀切 で仕切られています。

 安寧寺跡 にある 畠山廟 です。

 畠山氏の墓碑や七尾城攻防戦で滅んだ武士の
 慰霊碑などがあります。
七曲り 長坂
七曲り 長坂
 侵入者(登城者)を阻む 七曲り です。

 急峻な坂の急カーブが連続するため、七曲り と
 呼ばれ、山道の左右は谷につながっており、谷を
 隔てた反対側の尾根を見ることが出来ます。

 長坂 です。

 長坂 は、畠山氏の通用門、城内の家臣の出入口
 であり、赤坂口 とも呼ばれ、門がありました。
 遠来の人は、ここより通行を禁じられたそうです。

七尾城図 2台の鉄馬
七尾城図 2台の鉄馬
 山頂の駐車場にある 七尾城図 です。

 写真で紹介した全ての施設は描かれていませんが、
 山頂付近の各郭が分かりやすく描かれています。
 七尾城史資料館 の駐車場で休息する 2台の鉄馬。

 早暁に上野国を出陣し、長躯、能登国まで駆け抜け
 て来た雄姿。(本当は疲れ果てている。。。)


【 七尾城の構造と歴史 】
 石川県七尾市にある 七尾城 は、室町幕府の三管領の一家 畠山氏(他の二管領は、細川氏、斯波氏)の庶流
 で、能登国の守護である 能登畠山氏 が、大永年間(1521〜1528年)に築いた城と伝えられていますが、戦国
 期に逐次、拡張、増強されて現在の姿になったものと考えられています。
 七尾城 は、能登国と越中国の境にある石動山系の北端の、七尾湾が一望出来る標高 約300mの尾根より、
 本丸、二の丸、三の丸などの郭を配置し、木落川、大谷川を堀に見立て、急峻な尾根筋を利用した空堀や土塁、
 さらには石垣で侵入者を阻む要害堅固な山城で、その名は七つの尾根に由来すると云われています。

上杉謙信の戦い
 天正 4年(1576年)、能登国(石川県)に侵攻した 上杉謙信 は、能登国の諸城砦を攻略しますが、難攻不落を
 誇る 七尾城 は城主 畠山義隆 が居るものの実質的には 温井(ぬくい)、遊佐(ゆさ)、長(ちょう) 氏らの重臣が
 実権を握り、天険に拠り激しい抵抗を示したため、謙信 は力攻めを諦め、城を包囲したまま天正 5年(1577年)
 を迎えます。
 膠着状態は続き、天正 5年(1577年) 3月下旬、関東に不穏な動きが見えたため、謙信 は 七尾城 の周囲の城
 に守将を配置し、春日山城 に帰還しますが、その隙を衝いた七尾勢に、攻略した城を奪還されてしまいます。
 同年の閏 7月、再び 七尾城 を包囲した 謙信 に対し、七尾城内では 謙信 に内通する 遊佐氏 と、京を押さえ
 越前国(福井県)を支配していた 織田信長 を頼る 長氏 が対立していましたが、包囲から 2ヶ月後の 9月15日
 に 謙信派の 遊佐続光 は同じく重臣の 温井景隆 を誘い、信長派の 長綱連 ら長一族を殺害し開城します。
 ここに 謙信 は、七尾城 への入城を果たし、長かった攻防に終わりを告げます。
 この戦の最中、折からの月明りに感嘆した 謙信 が詠じたと伝えられている漢詩があります。
  「 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷懐遠征 」
 なお、この漢詩は 謙信 の作ではないと云う説もあり、真偽のほどは定かではありません。

その後の七尾城
 七尾城 攻略から僅か半年後の天正 6年(1578年) 3月に 謙信 は急逝しますが、後継者を決めていなかった
 ため、上杉家では 謙信 の後継者を巡って ゙御館の乱"が勃発します。
 この乱により、上杉家の勢威が届かなくなった 七尾城 は再び戦乱の場と化し、織田方の 長氏、菅屋氏 など
 城主が目まぐるしく替わりますが、天正 9年(1581年) 8月に 信長 が 前田利家 に能登国を与えたため、利家
 は 七尾城 へ入城し、領国経営の拠点とします。
 しかし、入城後ほどなくして 利家 は、七尾湾に近い場所に 小丸山城 を築いて移ってしまったので、七尾城 は
 天正17年(1589年)に廃城されてしまいますが、その後、自然災害や開発等の危険から逃れたため、各尾根上
 の郭や石垣の保存状態も良く、往時の姿を現代に残しています。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   平成16年の 6月、上杉謙信公 が攻略した北陸の名城 七尾城 を散策して来ました。
   山麓にある資料館で説明を聞いた後、ひたすら山道を歩くという強行軍でしたが、木々の間から見える
   七尾湾、侵入者を阻む深い堀切、歴史を感じさせる重厚な石垣、そして本丸に辿り着いたときの達成感
   に、今までの疲労も一挙に吹き飛んでしまいました。
   親友のす〜さんと 「この風景を眺めながら琵琶を弾じ、呑む酒はさぞ美味かっただろう」 と、謙信公 の
   気持ちを ゙勝手" に解釈しながら語り合いました。(笑
   (この後、金沢市の居酒屋で、酒を酌み交わしながら、歴史談義に興じたことは言うまでもない、、、)

   余談ですが、散策から 4年も経過すると記憶も曖昧になるものですが、ページを作りながら当時の記憶
   が鮮やかに甦って来たのは、この 七尾城 が記憶に残る山城であることに他なりません。
   謙信公ファンならずとも、オススメできる良質な山城です!



城跡と鎌倉の写真