城跡の写真
          常陸国 関城(せきじょう)


関宗祐の墓
 城 名   : 関城

 所在地   : 茨城県築西市

 伝築城   : 不明

 伝廃城   : 不明

 形 式   : 平城


 国指定史跡

 駐車場完備


  地図はこちらから → 地図(Map)
関宗祐の墓
 城主である 関宗祐の墓 です。

 宝篋印塔の形をしています。

坑道跡 土塁
坑道跡 土塁
 城の北東に現存する 坑道跡 です。

 関城 を攻めるに当り、北朝の指揮官 高師冬 は穴を
 掘って城内に侵入しようとします。
 この坑道跡は、大正 9年(1920年)に偶然発見された
 もので、日本三坑道の一つとのことです。

 城の中央部にある 土塁 です。

 関城 にはこのような 土塁 や 空堀 が残っており、
 散策するとすぐ見つけることが出来ます。

関東の南北朝
 南北朝の動乱が関東において本格化するのは、南朝における精神的支柱と云える 北畠親房 が下向した
 ときから始まると云えます。
 暦応元年・延元 3年(1338年) 9月、劣勢の南朝勢力を東国に拡大すべく 北畠親房 は、南朝の有力武将
 と 後醍醐天皇 の皇子とともに、伊勢国(三重県)大湊よりその軍勢を出航させます。
 50余隻の大船団は暴風雨に遭い、ある船は尾張国(愛知県)、ある船は遠江国(静岡県)に漂着するなど
 散り散りになってしまいます。
 親房 の乗る船は、目的地である常陸国(茨城県)に上陸することに成功しますが、北朝に心寄せる武将の
 攻勢は激しく、神宮寺城、阿波崎城、小田城 を転々とした 親房 は、暦応 4年・興国 2年(1341年)11月に
 関城 に入城します。

神皇正統記
 関城 の城主 関宗祐(せき むねすけ)は、藤原秀郷 を祖とする名族でしたが、建武 2年(1335年)に足利方
 に接近した 結城朝祐 が同じ常陸国関郡を与えられたことに対抗し、南朝に接近することで領土支配の正統
 性を裏付けようと考えます。
 しかし、北畠親房 の思想は時代錯誤ともいえる 「武士は公家に仕えるもの」 というもので、鎌倉幕府の成立
 後 100年以上に渡り、武力によって自立していた武士にとっては理解不能なものでした。
 親房 にとっても、利害に敏感で恩賞を求める武士の行動は耐え難く、南朝勢力の糾合と拡大という初期の
 目的から離れ、自らの思想の源泉を追求した 「神皇正統記」 を執筆して、武将たちに配布します。
 親房 は 「神皇正統記」 において、「武士は勤皇の大儀を知り、ただ名誉を重んじ、古に戻り、公家に仕えよ」
 と説きますが、現実と乖離したその思想が受け入れられるはずもなく、互いの思想の溝が埋まらないまま、
 時だけが無常に過ぎて行きます。

関城を巡る攻防
 関城 は、東・西・南の三方向を大宝沼に囲まれた要害の地にあり、さらに大宝沼の南端に 大宝城 を配し、
 両城連携し、敵を討つというものでした。
 北朝の指揮官 高師冬(こうのもろふゆ)率いる軍勢が 関城・大宝城 を攻めたのは、親房 の入城後すぐで
 あり、康永元年・興国 3年(1342年)には両城間は完全に分断されてしまいます。
 師冬 は坑道を掘って城内に侵入することを画策し、城の東北部から坑道を掘り始めますが、地盤が軟弱
 だったために落盤してしまい、この作戦を中止します。
 しかし、現実を無視した 親房 の思想に不信感を募らせた武将の師冬軍への寝返りや、周囲の諸城の陥落
 も相まって、孤立無援となった 関城 は康永 2年・興国 4年(1343年)11月に 大宝城 とともに落城します。
 城主の 関宗祐 は戦死しますが、親房 は大和国(奈良県)吉野まで敗走します。
 これによって、東国の南北朝対立は終わりを告げることになります。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   平成22年 7月、エネルギー管理士試験の勉強の息抜きに訪れました。
   国指定史跡のはずですが、整備が進んでいないこと、下調べをしなかったこと等が重なり、辿り着く
   のに少々迷ってしまいました。 (^^;
   広い駐車場はありますので、土塁や堀の整備、説明板の充実、トイレのある休憩所の設置をして
   いただければ嬉しいと思いました。 (部外者のため、好きなことを書いてしまったりして、、、)



城跡と鎌倉の写真