城跡の写真
          播磨国 白旗城(しらはたじょう)


白旗城址之碑
 城 名   : 白旗城

 所在地   : 兵庫県赤穂郡上郡町

 伝築城   : 建武 3年(1336年)  赤松円心 説

 伝廃城   : 不明

 形 式   : 山城


 小説への登場場面

     新田次郎著 「新田義貞」 下巻 
                   〜 難攻不落の白旗城 〜

     吉川英治著 「私本太平記」 7巻  〜 雨期 〜

 国指定史跡


  地図はこちらから → 地図(Map)
白旗城址之碑
 本丸に建つ 白旗城址之碑 です。

 全て石で出来ており、とても渋いです。

五輪塔 堀切
五輪塔 堀切
 登山道沿いの林の中にある 五輪塔 です。

 建武 3年(1336年)の 新田義貞 との合戦に倒れた人々
 の供養塔と伝えられています。
 18基ほどの 五輪塔 が散在していたのを、地元有志の
 手により、ここ 白旗八幡神社跡地 へ移されて、祀られ
 ています。
 倒れていたりして、なんとなく恐いです。

 登山道から 白旗城 へ入ってすぐにある 堀切 です。

 もっとも西側に位置している 堀切 で、白旗城 にはこの
 他に分かっているだけで、 2ヶ所の 堀切 があります。

 写真を撮影するとき、落ちそうで危険でした。
櫛橋丸 櫛橋丸からの眺望
櫛橋丸 櫛橋丸からの眺望
 城の西側に位置する 櫛橋丸(くしばしまる) です。

 何とも不思議な名前の 郭 です。

 櫛橋丸からの眺望です。

 赤松円心館跡、千種川方面を望んだ一枚です。
二の丸 三の丸 土塁跡
二の丸 三の丸 土塁跡
 二の丸 です。

 城の中央付近に位置し、本丸 より低い場所にあります。

 城の外郭部に位置する 三の丸 の土塁跡です。

 外側にある 堀切 と組み合せて高低差を出しています。
本丸 城跡平面図
本丸 城跡平面図
 本丸 です。

 城の頂上部に築かれています。奥に城址碑が見えます。

 本丸にある 城跡平面図 です。

 自然の尾根を利用して、縄張りしています。

【 赤松氏の居城 】
 白旗城 は、標高 440mの白旗山上に建武 3年(1336年)の南北朝動乱期に 赤松円心 によって築かれた山城で、
 嘉吉元年(1441年) 6月に 円心 より四代目の 赤松満祐 が将軍 足利義教 を弑逆(嘉吉の乱)し、逆に幕府軍に
 よって滅ぼされるまで、播磨、備前、美作 の 3ヶ国にまたがる 守護大名赤松氏 の本城として機能していました。
 ( ただし、円心 より二代目の 則祐 のときに本城は 城山城 に移っていたと云う説もある )
 その後、満祐 の弟の係類である 政則 が 置塩城 を本城として 赤松氏 を再興すると、白旗城 はその支城として
 戦国時代を迎えます。
 現存する縄張りは戦国時代に改修されたもので全長約 550mを誇り、尾根上や南谷筋に 本丸、二の丸、三の丸、
 櫛橋丸、馬場、侍屋敷、桜門 と伝えられる郭跡や 堀切、土塁、石積み などの防御施設が確認できます。

【 白旗城の攻防 】
 建武 2年(1335年)、後醍醐天皇 に反旗を翻した 足利尊氏 に対し、後醍醐天皇 は 新田義貞 を総大将に任命
 し、尊氏討伐を命じます。
 尊氏 と 義貞 の戦いは一進一退を繰り返しますが、やがて 尊氏 は九州へ敗走し、尊氏 に与する円心 は新田軍
 の来襲に備えて本拠地 播磨国赤松 の地に 白旗城 の築城を始めます。
 建武 3年(1336年) 3月、義貞 の率いる 6万に及ぶ新田軍が 白旗城 に攻め寄せて来ました。
 迎え撃つ 円心 率いる 赤松軍 は僅かに 800騎余り。
 新田軍 は周囲にある城砦を落とし、白旗城 へ迫りますが狭隘な山岳を最大限に利用した 赤松軍 の野伏り戦法
 (ゲリラ戦法)のために、戦局は膠着状態に陥ります。
 戦闘開始から 50余日が過ぎた 5月18日、足利軍 の東上の知らせが入り、新田軍 は城の包囲を解き、兵庫へ
 撤退をします。
 そして、この日から数日後に兵庫を舞台にした 湊川の戦い が展開され、この戦いで 義貞、楠木正成 に勝利し
 た 尊氏 は入京し、さらにその数ヵ月後に 征夷大将軍 に任じられ、新たな武家政権(室町幕府)を開きました。
 円心 の奮闘が 尊氏 の運を開いたとも云え、恩に感じた 尊氏 はその後、赤松氏に対して、播磨、備前、美作の
 3ヶ国の守護を任じます。

【 円心の策謀説 】
 「太平記」では、この白旗城攻防戦の際に 円心 から 義貞 へ書状を送ったことが書いてあります。
 書状は 『 ・・・ 護良親王の御恩は忘れ難く、今の身は本意ではない。播磨守護職の綸旨をいただければ、元の
 とおり後醍醐天皇へ忠節を尽くします・・・ 』 という内容のものでした。
 義貞 は、この書状を京都へ送り、円心 の播磨守護職補任の綸旨を受け取り、円心 に渡しますが、円心 は
 『 播磨守護・国司はすでに将軍(足利尊氏)より賜っている。手の裏を返すような綸旨なぞ役に立たん 』 と嘲弄
 してつき返します。
 円心 は、この使者の往復する時間を利用して、城の更なる整備と水、食料の備蓄に努めていたのです。
 円心 と 義貞 の頭脳戦は 円心 に軍配が上がる訳ですが、この逸話が果たして本当にあったかは定かではあり
 ません。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   新田次郎氏の小説 「新田義貞」 下巻の 『難攻不落の白旗城』 という章で、゙白旗城" を舞台にした 新田軍 と
   赤松軍 の攻防が描かれています。
   このタイトルにまず惹かれて、次いで内容に興味を持った私は、「ぜひ自分の目で見たい」 と思うようになり、
   2003年 7月に兵庫旅行を計画し、旅行の目玉として 白旗城跡 の散策を組み込みました。
   私にとって、好きな作家の一人である新田氏が取材で訪れたということも決め手の一つでした。

   小説 「新田義貞」 の取材ノートに 「大軍を送り込むことはできないし、送り込んだところで自ら動きが取れなく
   なるような山の中」 とあります。
   実際の城跡は、正にそのとおりで、登山道は岩肌が露出して苔も生えて滑り易く、樹木が鬱蒼として昼なお暗く
   恐ろしいほどの急勾配な道であり、本丸 へ到着するまでなんと 2時間以上もかかってしまいました。

   「太平記」 では、800騎ほどの 赤松軍 が 新田軍 6万の攻撃を、白旗城 に拠って 50日余りに渡って耐えたと
   あります。このときの逸話として、円心 の策略説を上に書きましたが、現地に足を運んでみますと、策略説に
   近いものはあったかも知れませんが、新田氏や他の諸氏が説くように天険の要害を駆使した 赤松軍 のゲリラ
   戦法が勝因であるように感じました。

   さて、登山の話です。
   大量の汗をかき、全身で息をする私は途中、何度あきらめようと思ったことか知れません。
   つくづく体力の無さを痛感しました。 (>_<)
   しかし、その苦労を乗り越えた後に見た様々な遺構... 眼下に拡がる美しい景観...
   とにかく疲れましたが、期待以上の規模の城跡に大満足! はるばる見に来た甲斐がありました。

   追伸  白旗城跡の散策にかなりの時間を費やしたため、武蔵国への帰国が深更になりました。 (笑)



城跡と鎌倉の写真