城跡の写真
          上野国 厩橋城(うまやばしじょう)


本丸の土塁
 城 名   : 厩橋城

 所在地   : 群馬県前橋市大手町

 伝築城   : 文明〜明応年間(15世紀末)
                       長野 方業 説

 伝廃城   : 明治 4年(1871年)  廃藩置県  説

 形 式   : 平城(崖城)


 小説への登場場面

     吉川英治著 「上杉謙信」 〜 生ける験あり 〜

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
本丸の土塁
 本丸跡 に今も残る 土塁 です。

 車と比較するとその大きさが良く分かると思います。
 なお、土塁 の後方に映っている建物は、群馬県庁舎で新旧の
 対比が面白いですね。

前橋城址之碑 車橋門の石垣
前橋城址之碑 車橋門の石垣
 三の丸跡 の土塁上に建っている 前橋城址之碑 です。

 前橋 は古くは 厩橋 といい、東山道の駅(うまや)が近くに
 あったことから地名が付いたと云われています。

 本丸跡 の東側の市街地にある 車橋門の石垣 です。

 車橋門 はその名のとおり、城門であり、当時は 石垣
 の上に櫓が渡してあったと云われています。
虎姫観音堂 利根川の流れ
虎姫観音堂 利根川の流れ
 城の東側にある 虎姫観音堂 です。

 厩橋城 は利根川を天然の堀として、要害の構えを見せていま
 したが、その流れは急で城域は次第に流失し、城下はすたれ
 てしまいます。
 人々はこれを厩橋城主にまつわる ゙お虎の怨霊" と考え、この
 場所に 虎姫 を観世音として祀る堂を建てたそうです。

 城の西側を流れる 利根川 を映した一枚です。

 利根川 は ゙坂東太郎" の異名を取る暴れ川で、当時の
 本丸 は現在の河心に当り、現在 本丸 と呼ばれている
 県庁舎が建っている辺りが、三の丸 だったと云われて
 います。
 

関東経略の拠点
 厩橋城 が築かれたのは、文明年間から明応年間にかけての 15世紀末頃で、初代城主は 箕輪城 の城主 長野氏の一族
 である 長野左衛門尉方業(ながのさえもんのじょうみちなり) と云われています。
 その後は、長尾氏らの厩橋衆が拠っていましたが、天文21年(1552年)に小田原北条氏の勢力が上州に及ぶようになると、
 永禄 3年(1560年)に越後国の 長尾景虎(後の上杉謙信) が 厩橋城 に進出し、平井城 に代わる関東経略の拠点と定め
 て、翌永禄 4年(1561年)には小田原を攻撃し、関東奪還を図ります。
 景虎 は家臣の 北条高広(きたじょうたかひろ) に 厩橋城 の守備を命じますが、その戦略的な要害が群雄争覇の標的と
 され、上杉、北条、武田氏の間に攻防が繰り広げられることになります。

城主の変転
 天正 6年(1578年)、謙信 の死によって勃発した 上杉景勝 と 上杉景虎 との跡目相続の争い ゙御館の乱" に介入した
 武田勝頼 は、景勝 より 厩橋城 を譲り受けますが、天正10年(1582年) 3月に 勝頼 が 織田信長 によって滅ぼされると
 織田の重臣 滝川一益 が 厩橋城 に入城し、関東管領を称するようになります。
 しかし、その僅か 3ヶ月後に京都の本能寺において、信長 が横死すると、一益 は上野国回復を目論む 北条氏直 と
 神流川 で戦いますが敗れてしまい、厩橋城 は北条氏の手中に帰ります。
 その後は北条氏の支配による時代が続きますが、天正18年(1590年)に 豊臣秀吉 による関東攻めにおいて、浅野長政
 らによって攻め落とされ、同年に 徳川家康 が関東へ移封されると、徳川家の重臣 平岩親吉 が城主となります。

酒井氏による安定の時代
 親吉 の治世は 11年間続き、関ヶ原の戦い の翌年の慶長 6年(1601年)に 親吉 が甲斐府中へ移ると、代わって武州
 河越から 酒井重忠 が入封し、以降 9代 150年間に渡り、酒井氏の藩政が続くことになります。
 酒井氏時代の城域は 15万坪余に及び、西に利根川の断崖を背とし、東南に伸びる丘上に郭と堀を巡らし、三層の天守
 閣を誇っていたそうですが、その晩年は財政に苦しみ、寛延 2年(1749年)の 忠恭(ただずみ) のときに姫路へ転封とな
 り、代わって姫路より 松平朝矩(まつだいらとものり) が入城します。

廃城と再築と再廃城
 朝矩 は、利根川の激流により城域が破壊されるといった難題に直面し、その修復に苦しんでいることを幕府に願い出て
 明和 4年(1767年)に武州河越へ移ることを許可されると、前橋城 を廃してしまいます。(酒井氏の 5代 忠挙(ただたか)
 のときに 厩橋 から 前橋 に改名。)
 河越藩の分領として支配されるようになった城下町は衰えますが、領民の再三に渡る請願により、文久 3年(1863年)に
 幕府から 前橋城 再築の許可を得ると、慶応 3年(1867年) 3月に竣工します。
 しかし、その僅か半年後に大政奉還を見ることとなり、明治 4年(1871年)の廃藩置県を以って、県庁舎として利用される
 御殿 を除いた城郭は廃されてしまいます。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   古くから上州経営の拠点とされてきた 厩橋 の地に立つ城ですが、群馬県庁舎の周囲に残っている 土塁 の他の遺構
   が少ないのは残念です。
   しかし、この 土塁 だけでも一見の価値はあると思いますので、近くを通ったときは足を止めてみては?



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