城跡の写真
          上野国 箕輪城(みのわじょう)


箕輪城跡の碑
 城 名   : 箕輪城

 所在地   : 群馬県群馬郡箕郷町

 伝築城   : 明応・永正年間(1492-1521年)
                       長野 業尚 説

 伝廃城   : 慶長 3年(1598年)  井伊 直政 説

 形 式   : 平山城


 小説への登場場面

     新田次郎著 「武田信玄」 三巻 〜 榛名山おろし 〜
           
 国指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
箕輪城跡の碑
 本丸に立つ 箕輪城跡の碑 と 説明石碑 です。

 独特の佇まいで、散策に来た人の気持ちを盛り上げます。

搦手口 本丸の土塁
搦手口 本丸の土塁
 城の東側にある 搦手口 です。

 長野氏・武田氏・織田氏・後北条氏の時代は、大手口 だったと
 考えられており、徳川家康 の将 井伊直政 が城主となったとき
 に 搦手口 になったと云われています。

 本丸の東側にある 土塁 です。

 本丸は、南北 約100m、東西 約 70m ほどの広さで、土塁 は
 その東側を本丸の奥にある 御前曲輪 まで続いています。
御前曲輪 箕輪城将士慰霊碑
御前曲輪 箕輪城将士慰霊碑
 本丸の奥に位置する 御前曲輪 です。

 本丸との間には 空堀 がありますが、実質的には本丸の一部
 と考えられており、箕輪城の精神的中心地と云えます。
 御前曲輪にある 箕輪城将士慰霊碑 です。

 永禄 9年(1566年)の 武田信玄 の箕輪城攻撃は熾烈を極め、
 城主 長野業盛(ながのなりもり) は御前曲輪の 持佛堂 にて
 自刃して果て、一族郎党みな後を追ったと伝えられています。

ニの丸 三の丸 門跡
ニの丸 三の丸 門跡
 梅が香る ニの丸 です。

 箕輪城 のある 箕郷町 は、梅の栽培が盛んなところでここ
 ニの丸 には梅林が季節を彩ってくれます。

 三の丸の門跡 です。

 三の丸 は ニの丸 の西側に位置する曲輪です。往時は石垣の
 上に櫓が立ち、その下に通路があったと考えられています。

三の丸 石垣 鍛冶曲輪
三の丸 石垣 鍛冶曲輪
 三の丸の石垣 です。

 良好な保存状態で残っています。
 苔むした感じで、雰囲気があって良いです。
 西側の外郭部にある 鍛冶曲輪 です。

 文字どおり 鍛冶場 のあった曲輪で、武具などを作成、修理
 したと云うことです。

空堀 その一 土橋
空堀 その一 土橋
 木俣曲輪の 空堀 です。

 木俣曲輪は複数の 空堀 によって分割されています。
 これは、その 空堀 の内の一つです。

 木俣曲輪の 土橋 です。

 木俣曲輪は、通路が 二俣(ふたまた)、三俣(みまた)というよう
 に、五つに分かれているところから名付けられたそうです。
空堀 そのニ 大堀切
空堀 そのニ 大堀切
 空堀 から御前曲輪を見上げている風景です。

 写真では分かりづらいですが、高低差は相当あります。
 空堀が道となっているため、高低差を感じることができます。
 箕輪城を南北に分断している 大堀切 です。

 深さは 10m以上、幅も数mあるという巨大な 空堀 で、城郭
 全体を南北に分断しています。

虎韜門 大手口
虎韜門 大手口
 城の西側にある 虎韜門(ことうもん) です。

 虎韜(ことう)とは、中国の兵書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」
 の 虎の巻 のことだそうです。

 城の南側にある 大手口 です。

 井伊氏時代の 大手口 であり、櫓門が構えられていたそうで、
 高崎に拠を移した際にその 櫓門 も一緒に移したそうです。


箕輪城の構造
 箕輪城は、明応・永正年間(1492-1521年)に上野国の豪族 長野業尚(ながのなりひさ) が、榛名山からのびる低い尾根の末端
 の丘陵部を利用し築いた 平山城 で、標高 270mの高さにあり、南北約1100m、東西約 500m、面積は 47haにも及ぶ広大な規模
 を誇ります。
 西は 榛名白川 の20mもの断崖に望み、南を 椿名沼 、東と北に 水堀 を廻らし、深さ 10m以上にも及ぶ 大堀切 で城郭全体を
 南北に分断し、さらに数多くの 空堀 によって多数の曲輪を擁するという縄張りで、西上州屈指の堅城としてその名を馳せます。

長野氏の出自
 長野氏は、平安時代の六歌仙に名を連ねる 在原業平(ありわらのなりひら) を祖先に持つと云われている名族であり、関東管領
 (かんとうかんれい)上杉氏 の重鎮として西上野の地に強大な勢力を誇っていました。
 しかし、主家の 上杉氏 は、一族間での争いを絶え間なく続け、次第にその勢力を衰え、天文15年(1546年)の 「河越の夜戦」 で
 の敗北を契機としてその権威を失墜させ、関東の多くの諸将は 上杉氏 から離れ、武田氏、北条氏といった新領主の下へ走って
 しまいます。
 そのような状況下において、ときの城主 長野業政(ながのなりまさ) は最後まで 上杉氏 に心を寄せ、天文20年(1551年)にとき
 の管領 上杉憲政 が 平井城 から脱出し、上野一帯が激震に見舞われた後も、西上野の地に頑強に抵抗を続けます。

武田信玄との戦い
 弘治 3年(1557年)、北条氏康 と協議し、西上野に進出して来た 武田信玄 は同年 4月より幾度となく攻めて来ますが、城主の
 業政 は智勇兼ね備えた名将で、少ない手勢を良くまとめて武田勢を撃退し、さすがの 信玄 も全く攻めあぐねてしまいます。

長野業政の遺言
 度重なる武田勢の侵攻を受ける最中、名将 長野業政 は息を引き取ります。
 「関東古戦録」 には死に臨み、息子の 業盛(なりもり) を傍に呼び、こう遺言したと云われています。
     「 吾はこの年まで四方に敵を受けて、屈することはなく、土地も奪われることはなかった。
       これはひとえに旧主上杉憲政公を再び関東にお迎えせんがためで、吾が望もこのこと以外にはない。
       しかし、命には限りがあり、今黄泉へ向かおうとしている。 この鬱憤は永久に散らすわけにはいかない。
       吾が死骸は累代の菩提寺である室田の 長年寺 へ送り、土中に埋めてほしい。
       陀羅尼経の読経作善も無益である。
       只一人でも敵の首を霊前に備えてくれれば、それが親への孝養である。
       甲・南両家へ降って先祖の名を汚してくれるな。
       運が尽きたら、城を枕に腹を切って死ね。 」


長野氏の滅亡
 名将と謳われた父 業政 の壮絶な遺言に若き 業盛 は息を呑み、武田勢 との徹底抗戦を固く心に誓ったことでしょう。
 永禄 9年(1566年)、業政 の死の臭いを感じ取った 信玄 は 10年間にも及ぶ長い戦いに終止符を打つべく、 2万以上の大軍
 を率いて、甲斐国を出陣。 箕輪城 へ攻め寄せます。
 若き城主 業盛 は家臣を束ねよく防戦しますが、武田勢の攻撃は熾烈を極め、今はこれまでと 御前曲輪 の持佛堂に入り、
     
「 春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里 」
 という辞世の歌をよんで一族郎党とともに自刃し、城を枕に壮絶な最期を遂げました。
 父 業政 の遺命を守り、最後まで武田方に降伏することを拒んだのです。

武田勝頼の初陣
 箕輪城 を落とした 信玄 は、上野における軍事的価値を重要視し、後に武田四名臣の一人とされる重臣の 内藤昌豊 を配置し
 西上野の郡代に任じます。
 「関東古戦録」 に、このときの戦いでの逸話として、武田勝頼 の初陣の話があります。
 初陣の功にはやる 勝頼 は、単騎、搦手方向へ馬を進めていたところ、長野家の宿老 藤井正安 を見つけます。
 「 よき敵。にがさん 」 と馬を駆け寄せ、組み打ちとなり馬から落ちますが、正安 は音に聞こえた太刀遣いで次第に 勝頼 を圧
 倒し、手の下に引き伏せて首を掻こうとしたところ、武田家の将 原胤元 が馳せ来て、正安 を乱暴に引き倒し、勝頼 に首を討た
 せます。 胤元は、
     
「 一方の武将が自分一人の働きだけをもっぱらにし、匹夫の勇を行ったら、それは言語道断のことでございます。
        大将たる者は軍勢に下知し、その進退を臨機応変にして、時を失わせないのが誉の極致でありましょう。 」

 と苦言を呈しました。これは 勝頼 が生来血気盛んな武将だったため、胤元 が諌めたものでした。

その後の箕輪城
 天正 3年(1575年)の、長篠・設楽ヶ原の戦い で 内藤昌豊 は討ち死にし、その子 昌月 が 箕輪城主 となります。
 その後の 箕輪城 は天正10年(1582年) 3月の 武田家滅亡後 は織田家の将 滝川一益、そして同年 6月の 本能寺の変後
 は、北条一族の 北条氏邦 と城主が目まぐるしく変わります。
 天正18年(1590年)の 豊臣秀吉 による 小田原征伐後 は、徳川家の将 井伊直政 が城主となります。
 慶長 3年(1598年)に 直政 が 高崎城 に移り、箕輪城 は約一世紀にも渡る長い戦いの歴史の幕を閉じることになります。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   群馬県屈指の城跡といえる内容で、「高低差のある空堀」、「保存状態の良い石垣」、「整備された曲輪と説明板」 などなど、
   城跡巡りの醍醐味が十分に味わえます。 特に城郭全体を大きく分断している 「大堀切」 は圧巻の一言。
   発掘調査も順調に進んでいるようで、今後の整備の充実も期待できるものです。
   写真では計り知れないほどの圧倒的な迫力は、是非、現地で体で体験して欲しい内容です。



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