城跡の写真
          上野国 平井城(ひらいじょう)


復元土塁
 城 名   : 平井城

 所在地   : 群馬県藤岡市

 伝築城   : 永享10年(1438年)  長尾 忠房 説
        : 応仁元年(1467年)  上杉 顕定 説

 伝廃城   : 永禄 3年(1560年)  上杉 謙信 説

 形 式   : 平城


 小説への登場場面

     海音寺潮五郎著 「天と地と」 四巻 〜 流水 〜
           
 群馬県指定史跡

 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)
復元土塁
 復元土塁です。

 県道173号線沿いに構築され、往来者へ睨みを利かす。(笑)

復元木橋 鮎川よりの眺望
復元木橋 鮎川よりの眺望
 復元木橋です。

 この木橋を渡った先にいるのは・・・ 賑やかなブーとモーです。(^^)

 平井城の周囲を縫うように流れている 鮎川 よりの眺望です。

 断崖絶壁となっています。

復元竪堀 平井城址の碑
復元竪堀 平井城址の碑
 復元竪掘です。

 木橋と同じ郭内に復元されています。

 平井城址の碑です。

 県道173号線よりの入口に建っています。

関東管領平井城の旗 上杉氏一族之碑
関東管領平井城の旗 上杉氏一族之碑
 平井城の周囲のいたるところにあります。(笑)

 下に写っているのは友人の手で、○○写真ではありません。(^-^

 上杉氏一族の碑です。

 平井城累代の城主 関東管領上杉氏 の碑です。

関東管領上杉氏
 平井城は、関東管領(かんとうかんれい)上杉氏の居城で、鮎川が周囲を縫う崖上に築かれた 平城 です。
 上杉氏は、平井城を拠点とし、長年にわたり関東越後を統治し、その城下町は、鎌倉 を凌ぐほどの繁栄振りで、政治経済の中心地
 として大いに栄えました。
 上杉氏は、藤原氏を祖とする名門であり、室町幕府を創設した 足利尊氏 の姻戚にも当ります。
 尊氏 は、関東における武家の本拠地として 鎌倉 を重要視し、次男(嫡男は室町幕府の将軍)を 鎌倉公方(かまくらくぼう) として
 下向させ、その政務補佐たる 「関東管領」 に 上杉氏 を任命し、上杉氏 はその権勢を大いに振るいました。

上杉氏と北条氏の戦い
 しかし、上杉氏は一族間での争いを絶え間なく続け、次第にその勢力を衰え、代わって 北条氏 が関東を席捲するようになります。
 破竹の勢いの 北条氏 は二代目 氏綱 のときに 上杉氏 の手から、武州河越城 を奪取します。
 天文15年(1546年) 4月、ときの関東管領 上杉憲政 は 北条氏 の手から 武州河越城 を奪い返すべく決戦を挑みますが敗れ、
 命からがら居城 平井城 に逃げ帰ります。 世に云う 「河越の夜戦」 です。

上杉憲政 越後へ落ちる
 そして、天文20年(1551年)、日に日に増す 北条氏 の圧迫に耐えかねて、憲政 は一子 龍若丸 を置き去りにして、越後の 長尾景虎
 (後の上杉謙信)を頼って 平井城 から脱出してしまいます。
 景虎 は 憲政 を暖かく迎え、居城 春日山城 の二の丸郭 に新たに館を造って、手厚く遇します。

平井城の破却
 翌天文21年(1552年) 景虎 は 憲政 の要請により関東に出陣し、北条長綱 が城主となった 平井城 を昼夜をいとわず攻めたてます。
 その頃、平井城内では疫病がはやって困っていた時でもあり、長綱 は形ばかりの戦いをした後、武州松山城 へ落ちて行きました。
 景虎 は何の苦もなく 平井城 を奪還することができ、以降の関東経略の拠点と定めます。
 平井城 は、永禄 3年(1560年) 景虎 が 厩橋城 を手に入れ、新たに関東経略の拠点と定めた際に破却したと伝えられています。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   往時の繁栄振りが思い浮かべられないほどの田園風景の中、「関東管領平井城」 の旗とともに 「平井城址公園」 はあります。
   城の遺構は残念ながらほとんどありませんが、各種の碑や復元土塁、復元木橋、それと豊富な説明看板が嬉しくなります。
   周囲を民家や豚舎等に囲まれているため、これ以上の整備は難しいかも知れませんが、ここまで整備に尽力してくれた関係者
   の方々に敬意を表したいと思います。(笑)



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