戦国の写真
          戦国の合戦 神流川の戦い


神流川古戦場跡の碑
 合戦名 : 神流川の戦い(かんながわのたたかい)

 時  期 : 天正10年(1582年) 6月 18日〜19日

 対  戦 :  勝利       敗北
        北条氏直 vs 滝川一益
         50,000      16,000


 全て駐車場なし

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  「胴塚稲荷」 と 「首塚八幡宮」 はこちらから → 地図(Map)
神流川古戦場跡の碑
 神流川古戦場跡の碑 です。

 国道17号線の歩道沿いに建っています。

神流川 軍配山(御幣山古墳)
神流川 軍配山(御幣山古墳)
 戦いの舞台となった 神流川 です。

 上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の境を流れています。
 国道17号線より、河原へ降りて来ての一枚です。
 滝川一益 が合戦の際に、本陣として軍配を揮ったことから
 軍配山 と云われていますが、正式には 御幣山古墳 と云い、
 その埋葬品からこの付近一帯の有力な支配者の墳墓だった
 と推定されています。

胴塚稲荷古墳 首塚八幡宮
胴塚稲荷古墳 首塚八幡宮
 戦死者の胴を埋葬した 胴塚稲荷古墳 です。

 径14m、高さ2.2mの古墳上に、鳥居と稲荷社があります。
 民家の横をすり抜けて行くため、非常に分かりづらいです。
 首塚八幡宮 は、ここから歩いて 5分位の場所にあります。
 戦死者の首を実検し、埋葬した 首塚八幡宮 です。

 無縁の霊を祭り、里人によって首塚と称し、古くから首から上
 の病いの神として参詣する人が多いそうです。
 また、毎年 4月に春の祭典を行い、霊を慰めているそうです。


【 戦いの沿革 】
  天正10年(1582年) 3月に行われた 織田信長 による武田氏征伐での軍功で、織田家の重臣 滝川一益 は上野国(群馬県)
  を与えられるや、厩橋城 へ入城し、近隣の豪族を懐柔、支配体制を磐石なものとします。
  それから僅か 3ヵ月後の 6月 2日、京都の本能寺で、主君の 織田信長 が重臣の一人である 明智光秀 によって悲運の最期
  を遂げてしまいます。
  後世に云う 「本能寺の変」 です。

  京よりの早馬の報せを受けた 一益 は、信長の弔い合戦を企図。上洛を決意します。
  これに対し、旧領である上野国の回復を目論む 北条氏直 は好機至れりと 5万にも及ぶ大軍を侵攻させます。
  義を重んじる 一益 は、軍勢 1万6千を率いて 厩橋城 を出陣し、石をも燃える盛夏の 6月 18日、両軍は死闘を展開します。

  戦いは始め、士気に勝る 滝川勢 が圧倒、北条勢を 200余も討ち取り、翌 19日も緒戦は 滝川勢 が優勢でしたが、勝ちに
  乗じて深入りしたところを 北条勢 が包囲し、形勢を逆転します。
  滝川勢 の首級 3760を挙げ、戦いに勝利した 北条氏 は、上野国の回復に成功します。
  このとき、北条方の武将であり、 斎藤実盛 の子孫である 斎藤定利 は、上武国境の 金窪城 とともに兵火に焼かれ、城は
  焼失し、斎藤一族も滅亡します。

  この戦いに敗れた 一益 は一旦、箕輪城 に入った後、信濃路を経由して本領である 伊勢長島 へ引き揚げます。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   群馬県多野郡新町、佐波郡玉村町、藤岡市、と 3つの市町村にまたがっていますが、それほど遠くない場所にあります。
   ただし、全て駐車スペースはありませんのでご注意のほどを。
   現在の河川の姿から、往時の激戦を偲ぶものは残念ながらありませんが、遠い京の地で起きた 「本能寺の変」 の余波が、
   ここ坂東の地を揺るがせたのは事実です。
   この 神流川 は、烏川(からすがわ)に合流し、やがて坂東太郎の異名を取る 利根川(とねがわ) へと変貌を遂げます。



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