戦国の写真
          関ヶ原の戦い  笹尾山 石田三成 陣跡


西  軍
笹尾山
笹尾山

 笹尾山は、西軍の事実上の総大将 石田三成 の陣跡です。

 石田三成 は、桶狭間の合戦で 織田信長 が 今川義元 を破った永禄 3年(1560年)に、近江国の石田の里の土豪
 石田正継の子 佐吉 として生を受け、行儀見習いのため、領内の観音寺へ預けられます。
 信長 の下、頭角を現して来た 羽柴秀吉 が近江国長浜を与えられ、観音寺で茶を所望したところ、利発げな寺小姓
 が茶の熱さを変え、それに応じて量と器も変えて三度出したので、その気配りに感心して近習にしたのが幼名 佐吉
 後の 石田治部少輔三成 と云われています。
 三成 はその後、豊臣政権下でめきめきと頭角を現し、五奉行の筆頭として政権を運営します。
 しかし、慶長 3年(1598年)に 秀吉 が没すると、豊臣政権下で大老筆頭であり実力者の 徳川家康 は天下制覇に
 向けて乗り出し、三成 はこれを阻止すべく立ち上がります。
 かくして、慶長 5年(1600年) 9月 15日、美濃国関ヶ原において天下分け目の一大決戦の幕が開かれます。

 関ヶ原の北西の方角に位置する 笹尾山 は伊吹山系に連なる山の一つで、関ヶ原を一望にできる要衝の地です。
 ここに 三成 は、家臣の 島左近 を左翼に、蒲生郷舎 を右翼に配して総勢 6,000の兵をもって、東軍の 黒田長政、
 細川忠興、加藤嘉明 ら 13,000にも及ぶ大軍を相手に激戦を繰り広げます。

 午前 8時の戦闘開始から各所において、戦局は西軍優位に推移していましたが、正午頃に 小早川秀秋 が背反した
 ことを契機に戦局は一変し、西軍は総崩れとなってしまいます。
 石田隊は 島左近、蒲生郷舎 らの奮戦で最後まで死闘を演じますが、挽回する余地はすでになく、三成 は再挙を
 期して伊吹山へと逃れます。
 しかし、追捕の手は厳しくやがて捕らえられた 三成 は六条河原で 小西行長、安国寺恵瓊 らとともに斬首されます。
 石田三成  享年 41歳。

蒲生郷舎 陣跡 島左近 陣跡
蒲生郷舎 陣跡 島左近 陣跡

 笹尾山右翼に位置する 蒲生郷舎陣跡 です。

 左翼の 島左近 とともに奮戦しますが、織田有楽の
 降伏勧告に腹を立て敵中に突入し、討たれてしまい
 ます。


 笹尾山左翼に位置する 島左近陣跡 です。

 石田三成 に過ぎたるものと謳われた智勇兼備の将は、
 家康本陣に迫る勢いを示しますが、銃弾を受けて討ち
 死にしたと云われています。(逃げ延びたとも)

石田三成陣地の碑 笹尾山からの眺望
石田三成陣地の碑 笹尾山からの眺望

 笹尾山に建つ 石田三成陣地の碑 です。

 展望台の傍に建っています。
 ここには、ベンチ等もあるので休憩に最適です。

 笹尾山の展望台からの眺望です。

 戦場一帯を眼下に見下ろしていることが分かります。
 正に総大将が陣するに相応しい地であります。


〜 ken-you史跡巡り記(オフ会報告) 〜

   2003年 9月15日、関ヶ原の戦いから 403年を経てここに集う 12名の勇者たち(?)。
   『関ヶ原斥候隊』 管理人で本オフ会主催者であるDai壱殿、『美濃国の城址』 の城田ジョウ殿、『sune-ku』 の
   宿禰殿、『金森戦記』 のRYO殿、『三河戦国記』 の羽柴古白殿、『大阪の陣絵巻』 の筑後川殿、『戦国ごくう』 の
   ごくう殿、どらねこ殿、ピンガ殿と二人のお子さん、そして 私(ken-you)。
   晴れ渡った空の下、ここ 笹尾山 から関ヶ原古戦場巡りは開始されました。

   さて、関ヶ原古戦場に来たら、必ず寄って欲しいところがココ 笹尾山 です。
   展望台から古戦場全体を望んでいると、石田三成 の必勝の心理が分かると思います。
   また、馬防柵や竹矢来、三成の 「大一大万大吉」 の軍旗なども充実していて戦国の雰囲気を味わえます。



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