新田一族の写真
             新田義貞の血縁


脇屋義助館跡
脇屋義助館跡
 群馬県太田市にある 「脇屋義助館跡(わきやよしすけやかたあと)」 です。

 脇屋義助 は、新田義貞 の弟として生まれ、元弘 3年(1333年) 5月 8日に 義貞 が、生品神社 で鎌倉幕府
 打倒の旗挙げをして以来、影の如く行動を共にし、義貞 の絶命後も各地を転戦し、ついに故郷に還ることなく
 異郷の地で病没してしまった悲劇の武将です。
 義助 は、ここ脇屋の地(群馬県太田市脇屋町)を領し、館を構えたことから 脇屋次郎義助 と称しました。
 写真は、「夕焼けに佇む碑」といった風情で美しいのですが、実際は、ゴミの収集場所が隣にあったため、撮影
 アングルを気にしていたら夕暮れになってしまったというのが真実です。 (^^;

   駐車場なし     地図はこちらから → 地図(Map)

正法寺
正法寺 本堂
正法寺 本堂
正法寺 仁王門 脇屋義助公遺髪塚
正法寺 仁王門 脇屋義助公遺髪塚
 群馬県太田市にある 「正法寺(しょうほうじ)」 です。

 古くは 萬明山聖徳院聖宝寺 と呼ばれ、山城国(京都府)の醍醐寺 の開山 ゙聖宝(しょうほう)" が、新田氏の遠祖
 源経基(みなもとのつねもと)の請願により、延喜年間(901〜922年)に創建したと伝えられています。
 元暦年間(1184〜5年)に 新田義重 が堂宇を修理し、元弘年間(1331〜4年)には 脇屋義助 が所領の由良郷
 脇屋村と大般若経 600巻を寄進するなど新田氏との所縁が深く、後に 義助 の法名 ゙正法寺殿傑山宗栄大居士"
 にちなんで 聖宝寺 から ゙正法寺" へと改称されたと云うことです。
 また、当初は現在地より南東 1kmにある、上の写真の 脇屋義助館跡 の隣接地にあったと伝えられており、本堂
 裏にある 義助公遺髪塚 とともに、静かな雰囲気の中、義助 の菩提を弔っています。
 本堂 入口にある 仁王門 は、貞享 2年(1685年)に建立され、享和 3年(1803年)に改築されたと伝えられるもの
 で、高さ 2.6mの 2体の金剛力士像は 運慶 の流れを汲む仏師 康祐(こうゆう)によって造られたと云われており、
 また、本尊の 聖観音像 は鎌倉時代初期の作と伝えられるなど、歴史的価値のある場所だと言えます。
 重厚な 仁王門と金剛力士像、義助公遺髪塚 など歴史を感じることができます。
 駐車場があるので、車を停める場所を気にせずに散策できるのも良いです。

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匂当内侍の墓
匂当内侍の墓
 群馬県太田市(旧新田郡尾島町)にある 「匂当内侍の墓(こうとうのないしのはか)」 です。

 花見塚公園 の奥にひっそりと佇む、「匂当内侍の墓」 と呼ばれている五輪塔です。
 匂当内侍 は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう) のお側に仕えた女官の一人で、匂当内侍 という名は、宮廷での
 役職名で、出自は公卿の 一条行房 の娘とも妹とも伝えられ、その美貌から 後醍醐天皇 の御寵愛を受けます
 が、後醍醐天皇 は建武の中興に功績のあった 義貞 へ、匂当内侍 を恩賞として与えます。
 「東男に京女(あずまおとこにきょうおんな)」、仲睦まじい二人に安息のときは長く続かず、義貞 は 足利尊氏
 との戦いに敗れ、北陸へ再挙の望みをかけますが、夢かなわず帰らぬ人となります。
 獄門にかけられた 義貞 の首を密かに持ち帰った 匂当内侍 は、義貞 が自分のためにこの地に建ててくれた館
 で、尼となってその菩提を弔ったと伝えられています。
 このため、この場所には 匂当内侍の墓 の隣に 義貞の首塚 が、寄り添うように立っています。
 なお、義貞 が 匂当内侍 のために館を建てたときに、庭一面に各地から集められた ゙つつじの名木" を植えた
 と伝えられており、江戸時代初期まで ゙つつじの名木" が咲き乱れていたと云われています。
 坂東の荒武者に似合わぬ、細やかな愛情がなんとも微笑ましいかぎりですね。
 ちなみに、義貞 没後の 匂当内侍 の晩年については、京都の嵯峨の 往生院 の辺りに庵を結び 義貞 の菩提
 を弔ったという説や、近江の堅田で入水自殺したという説など諸説があります。
 匂当内侍 と 義貞 との間の逸話には、評価が芳しくないものもありますが、真実はどうだったのでしょうか。
 なお、この地に咲く つつじ を、寛永 4年(1627年)に当時の領主 榊原忠次 は城下の館林に移したと伝えられて
 おり、その美しい姿は群馬県館林市の 「つつじが岡公園」 に見ることができます。


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威光寺
威光寺 本堂 新田義興の墓
威光寺 本堂 新田義興の墓
 群馬県太田市にある 「威光寺(いこうじ)」 です。

 義貞 の次男である 新田義興(にったよしおき) が元徳 2年(1330年)に開基し、吽海法印(うんかいほういん)
 によって開山された寺で、応永年間(1394〜1427年)に 新田義宗(義興の弟)の子と伝えられている 横瀬貞氏
 が、叔父に当る 義興 を追善するために殿堂房舎を修築し、義興 の法名 ゙威光寺殿傑伝正英大居士" に
 ちなんで、正英山威光寺 に改め、新田家累代の祈願寺として祀ったと伝えられており、本堂 の北側の岡の
 上には、義興の墓 と伝えられている 宝篋印塔 が安置されています。
 義興 は、父 義貞 と同じく 後醍醐天皇 に味方する ゙宮方" の武将として各地を転戦し、゙武家方" の足利軍
 を悩ましますが、武蔵国(埼玉県)の多摩川矢口の渡しで謀殺されてしまいます。
 また、威光寺 を再興した 横瀬貞氏 は、後の戦国時代に 金山城 を領した 由良氏の祖と伝えられています。
 私が訪れたときの 威光寺 は、改築されて日が浅かったようで、綺麗な本堂と庭園が、良い雰囲気でした。
 なお、由良氏 が新田氏 の後裔と断定するのは少々困難なようです。

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〜 ken-you史跡巡り記 〜

    ゙新田荘散策記録" の第四弾は、新田義貞 の身辺を彩った人物の史跡をまとめました。
    実は今回、写真をまとめたのはおよそ 2年振りだったのですが、この間にいわゆる 「平成の大合併」
    があり、太田市、新田郡新田町、新田郡尾島町に分かれていた ゙新田荘" が、合併するという奇跡(?)
    が起こり、正に 「歴史は繰り返す」 を、この目で見た思いでした。(笑)
    さて、゙新田荘" 散策も、ようやく中間点に来たようです。
    やっと折り返し点に着いたな〜というのが本音で、少しホッとしています。



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