新田一族の写真
             新田義貞の雄姿


JR分倍河原駅前の新田義貞像
JR分倍河原駅前の新田義貞像

 新田義貞は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した管理人の郷土の英雄で、足利尊氏、後醍醐天皇、楠木正成らと
 ともに 「太平記」 の主要人物の一人として有名です。
 その生涯を簡単にまとめました。

【 新田姓の始まり 】
 新田氏は、武士の棟梁と云われている ゙源義家(みなもとのよしいえ)" を祖とし、義家 の孫の 義重(よししげ) が現在の
 群馬県の太田市、新田郡新田町、新田郡尾島町を中心とする 新田荘(にったのしょう) に土着したのが始まりです。

【 時代に翻弄された新田氏 】
 源平の争乱に巻き込まれた 新田(源)義重 は、源頼朝 の挙兵時に同調せず独自の動きを見せますが、頼朝 の勢威
 の前に帰順を余儀なくされ、御家人として鎌倉幕府に奉公します。
 しかし、義重 より四代後の 政義 のときに過ちを犯してしまったために、幕府内から失脚し、新田氏は歴史の表舞台から
 姿を消し、領土の上野国で無官で逼塞していました。
 同じ 源義家 を祖とする足利氏が、幕府内で要職に就いていたのと比べて、その差は歴然としています。

【 新田義貞の誕生と鎌倉幕府打倒の挙兵 】
 正安 3年(1301年)に上野国新田荘に生を受けた新田義貞が 33歳を数えた元弘 3年(1333年)、後醍醐天皇の挙兵に応じ、
 生品神社で挙兵し、上野国府の攻略、小手指原、分倍河原の両合戦を制し、激闘の末、鎌倉幕府を攻略し、北条一門を
 滅ぼすことに成功します。
 同じ頃、足利高氏 は京都において、六波羅探題を陥落させています。

【 建武の新政の挫折 】
 建武元年(1334年)、後醍醐天皇 は新政を開始しますが、武家を軽視する内容の論功行賞を巡って、各地で武家の不満が
 高まり、また、相次ぐ重税により庶民の支持も失いつつありました。
 そのさ中、尊氏 は、新たな武家政権を樹立すべく、後醍醐天皇と袂を別ちます。

【 後醍醐天皇の厚い信任を得る 】
 義貞 は 楠木正成 とともに 後醍醐天皇 に変わらぬ忠節を尽くし、尊氏 と一進一退の戦いを繰り返しますが、北畠顕家の
 援護もあり、尊氏 の撃退に成功し、尊氏 は九州へ敗走します。
 この勝利が宮中での評価をより一層高め、後醍醐天皇の厚い信任を得た 義貞 は、匂当内侍(こうとうのないし) という美女
 を賜わります。

【 尊氏との宿命の対決 】
 しかし、勝利に浮かれる宮中へ、意外な報せが入ります。
 九州へ逃れた 尊氏 が勢力を回復し、筑前国多々良浜(福岡県福岡市)での戦勝を機に東上して来るというものでした。
 後醍醐天皇 は、義貞 に数万の兵を預け、尊氏 を迎撃するよう命じます。
 風邪をこじらせ出陣が滞る 義貞 に、匂当内侍 との不名誉な噂が流れたのはこのときで、憤慨した 義貞 は病身を押して
 出陣します。
 尊氏 を攻めるべく西進を開始した 義貞 の前に、赤松円心 がその拠城 白旗城 とともに立ちはだかります。
 攻防 50余日、難攻不落の 白旗城 はついに落ちず、義貞 は 尊氏 を迎え撃つ地を摂津国湊川と定め、退却をします。

【 湊川の戦い 】
 建武 3年(1336年) 5月、摂津国湊川(兵庫県神戸市)において、義貞、正成 らの陸上軍に対し、尊氏 の率いる水軍と
 尊氏の弟 直義 の率いる陸上軍が水陸両方から攻めます。 世に云う 湊川の戦い です。
 義貞、正成 軍は奮闘しますが、尊氏 の水軍が後背を衝く動きを示したため、それに合わせて新田軍も後退し、義貞 と
 正成 の連携は断たれます。 やがて、数に勝る 足利軍 は 義貞、正成 軍を除々に圧倒して行きます。
 孤立した 正成 は、足利軍 に包囲され、やがて自刃し、義貞 も京へ敗走します。

【 北陸の地へ 】
 入京した 尊氏 に都を追われた 後醍醐天皇 は、比叡山、大和国吉野(奈良県吉野郡)へと逃れ、行宮(南朝)を開き
 ますが、光厳天皇(北朝)を奉じ、征夷大将軍に任命された 尊氏 の勢いは止まらず、形勢は悪化の一途をたどります。
 湊川での敗戦から僅か 5ヶ月しか経っていない建武3年(1336年) 10月、義貞 は後醍醐天皇の再起の希望を担い、
 二人の皇太子 恒良親王、尊良親王 を奉じて、 越前国敦賀(福井県敦賀市) へ下向します。
 激しい運命の変転です。

【 北陸の熱き戦い 】
 金ヶ崎城 に入城し、足利方の 斯波高経( しば たかつね)や 高師泰( こうの もろやす )らと激闘を繰り返しますが、
 平泉寺の衆徒の援護もあって、やがて形勢を盛り返し、斯波高経 の軍を壊滅寸前まで追い込みます。
 このとき、後醍醐天皇 より上洛を催促する ゙文" が届きます。

【 上洛かなわず 】
 斯波高経 軍の攻略と上洛の準備に多忙な 義貞 の下へ、平泉寺の衆徒が離反したという報せが入ります。
 延元 3年(1338年)、平泉寺衆徒の籠る 藤島城 を攻撃している部隊の督戦に、僅か 50余騎で物見に出陣しますが、深田
 のあぜ道を行く途中、敵部隊 300騎と遭遇してしまい、そのまま戦闘に突入します。
 戦闘は小半刻(約30分間)続きましたが、乗馬もろとも転倒し、泥田に足をとられた 義貞 の兜のまびさしの下に一筋の矢が
 突き立ちます。
 義貞 は最後の気力を振り絞り、みずからの首を泥田の中に掻き落としたと云うことです。 享年 38歳。


新田義貞と弟の脇屋義助 剣を捧げる新田義貞
東部鉄道太田駅前の 新田 義貞 と弟の 脇屋 義助  剣を捧げる新田義貞
 太田駅前の 義貞 と弟の 脇屋義助 の像です。
 立っているのが 義貞 で、座って兜を持っているのが弟の
 義助 です。

 群馬県新田郡尾島町の 東毛歴史資料館 前の像です。
 鎌倉攻めにおいて、稲村ヶ崎の竜神に剣を献じている姿を
 現しています。

新田町役場前の新田義貞?  義貞 の像はここにあります。


   東武鉄道 太田駅 → 地図(Map)


   東毛歴史資料館 → 地図(Map)


   新田町役場    → 地図(Map)


   JR分倍河原駅  → 地図(Map)
新田町役場前の新田義貞?
 新田町役場前の 剣を振っている姿の像です・・・
 一度、テレビで取り上げられたことがあるので、知っている方も
 いるのでは?
 太刀や甲冑の形状、そして形相がどこか異国風(大陸風)です。



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