新田一族の写真
             新田の嫡流


円福寺
円福寺 本堂 新田氏累代の墓
円福寺 本堂 新田氏累代の墓
 群馬県太田市にある 「円福寺(えんぷくじ)」 です。

 円福寺 は、正式名を ゙御室山金剛院円福寺(おむろさんこんごういんえんぷくじ)" と称し、新田本宗家の
 第四代 新田政義(にったまさよし) が、京都御室の仁和寺から招いた 静毫(じょうごう) を初代住職として
 開基した寺と伝えられています。
 境内は、 5世紀前半に築造された前方後円墳があり、その南東部に層塔や五輪塔など 20基余りからなる
 「新田氏累代の墓」 があります。
 この 政義 の代に、鎌倉幕府より預かった囚人を逃がしてしまったり、京都大番役のときに幕府の許可なく
 出家をしたりと次々と過ちを犯したため、幕府に所領を没収され、上野国由良郷別所の地(群馬県太田市
 別所町)に蟄居謹慎を申し渡されます。
 なお、 円福寺 は、この謹慎の頃に開かれたと考えられています。
 義貞 の代に至るまでの新田氏の苦難は、この 政義 の幕府内での失脚より始まります。
 「新田氏累代の墓」 は、20基余りの層塔と五輪塔が群立して独特な雰囲気が漂っており、特に 政義 の孫
 に当り、義貞 の祖父に当る 基氏 の五輪塔をこの目で見たときは嬉しかったです。

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台源氏館跡
台源氏館跡
 群馬県太田市にある 「台源氏館跡(だいげんじやかたあと)」 です。

 台源氏館跡 は 円福寺 の東方 400m程のところにあり、新田義貞、脇屋義助 の兄弟が誕生した館が
 あった跡だと伝えられています。
 大きな石碑で迫力がありますが、義貞 がこの地で誕生したかは定かではないそうです。

   駐車場なし ( 円福寺 の駐車場から歩いて 10分ほどの場所にあります )


総持寺
総持寺 本堂
 群馬県新田郡尾島町にある 「総持寺(そうじじ)」 です。

 総持寺 は、西に早川の流れを擁し、南と北に堀の痕跡を残し、昭和初頭まで土塁の残存を見られたところ
 から、新田本宗家の館址と伝えられており、別名 「館の坊」 とも呼ばれています。
 また、新田一族の世良田氏の居館址とも云われています。
 新田本宗家の館址とのことですが、義貞 が居住したかは定かではないそうです。

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反町館跡(照明寺)
照明寺 本堂
照明寺 本堂
土塁 水堀
土塁 水堀
 群馬県新田郡新田町にある 「反町館跡(そりまちやかたあと)」 です。

 反町館跡 は、義貞 が成人後に移り住んだ居館跡と伝えられていますが、義貞 が北国を転戦している際は、
 新田一族の 大館氏明(おおだちうじあき) が預かり住み、また、義貞 の次男の 義興(よしおき) が一時隠棲
 をしたとも云い伝えられています。
 境内に現在も残る 堀 や 土塁 は、戦国時代の 平城 としての名残のようですが、天正15年(1590年)の
 豊臣秀吉 の北条攻めで廃城したと云われています。
 この 平城 の主郭部に、現在の 照明寺(しょうみょうじ) が建てられ、その他の郭は田畑や宅地へと姿を
 変えており、本堂の裏には池もあります。
 この池は、義貞 が鎌倉攻めの思案をしていた折、池の蛙があまりにうるさいので、一喝したところ、たちまち
 鳴き止んだところから ゙鳴かずの池" と呼ばれています。
 新田次郎さんの 「新田義貞」 では上の由来どおりに、義貞 が成人した後の本拠地として描かれています。
 また、吉川英治さんの 「私本太平記」 では、 義貞 は世良田の館(総持寺 と思われる)に居を構えており、
 ここ 反町館 は別館(下屋敷)として描かれています。


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明王院
明王院 不動堂
明王院 不動堂
千体不動尊供養塔 源義助の板碑
千体不動尊供養塔 源義助の板碑
 群馬県新田郡尾島町にある 「明王院(みょうおういん)」 です。

 明王院 は、正式名を ゙呑嶺山明王院安養寺(どんれいさんみょうおういんあんようじ)" と云い、康平 4年
 (1061年)に 源頼義(みなもとのよりよし) が、奈良の興福寺から 頼空上人 を招いて開基した寺と伝え
 られており、また、新田義貞 が居館を構えていた場所とも云われています。
 不動堂 には、二体の不動明王像が納められ、一体は元弘 3年(1333年)の 義貞 の鎌倉攻めの際に
 山伏に化身し、越後(新潟県)方面の新田一族に、義貞 の挙兵を一夜にして触れてまわったと伝えられ
 「新田触不動尊(にったふれふどうそん)」 と呼ばれています。
 もう一体は、新田義重 が楯の上に座して軍勢の指揮をとる姿を刻ませたはずが、一夜のうちに不動
 明王像に変じたとされ、像の光背に火炎がないのが特徴の 「御影不動明王(みかげふどうみょうおう)
 と呼ばれています。
 境内の東側にある 「千体不動尊供養塔(せんたいふどうそんくようとう)」 は、底辺が 7.2m四方、高さが
 6mにおよぶ巨大なもので、東面に 270体、西面に 254体、南面に 238体、北面に 238体で合計 1,000体
 の不動尊像が刻まれており、頂上には金剛界四仏の梵字を刻んだ石塔が据えられています。
 ここに刻まれている不動尊像は、不動堂 内に納められている 御影不動明王 の像にちなんで、光背に
 火炎がありません。
 境内の西側にある 「源義助の板碑(みなもとのよしすけのいたひ)」 は、高さ 119cm、幅 35cmの緑泥
 片岩(秩父青石)の板碑で、刻まれている銘文の内容から、義貞 の弟の 源(脇屋)義助(わきやよしすけ)
 の菩提を弔うために新田氏ゆかりのこの 明王院 に建てられたことが分かっています。
 ここも 義貞 の居館址とのことですが果たして。。。
 この 明王院 の見所は何と言っても高さ 6mにおよぶ巨大な 千体不動尊供養塔 で、全面に刻まれている
 不動尊像と、その大きさには圧倒されてしまいます。
 また、源(脇屋)義助の板碑 も歴史を感じさせる雰囲気があり、なかなか良いです。

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〜 ken-you史跡巡り記 〜

    ゙新田荘散策記録" の第三弾は、新田義貞 の生誕に関わる史跡をまとめました。
    しかし、義貞 の生誕地や居館についての詳細は未だ判明しておらず、上で紹介したとおり、どれも
    曖昧な内容なのが残念でなりません。
    今後の研究に期待するところですね。 ← 他人任せだな〜 (^^;
    さて、この中でスゴイと思ったのは、円福寺 にある 「新田氏累代の墓」 です。
    20基余りからなる層塔、五輪塔群の中に、義貞 の祖父に当る 新田基氏 の五輪塔があり、鎌倉時代
    から現在に至るまでの歴史の流れを感じることが出来ると思います。
    また、明王院 の 「千体不動尊供養塔」 も迫力があって良いです。



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