新田一族の写真
             源氏から新田氏へ


新田荘の位置
新田荘の位置
 新田荘(にったのしょう)は、上野国(群馬県)の東部に
 位置し、平安時代末期に 源義家(みなもとのよしいえ)
 の子の 義国(よしくに) が関東下向時に開発を行い、
 義国 の嫡男の 義重(よししげ) が都の後援を受けて
 開発を継承した荘園で、現在の群馬県新田郡新田町、
 新田郡尾島町、そして太田市の南西部を合わせた広
 大な土地です。
 この 源義国 の新田荘進出から、新田一族の盛衰の
 歴史を追ってみます。


  地図画像著作権 : 白い地図工房、ken-you

義国神社
義国神社 義国神社の五輪塔
義国神社 義国神社の五輪塔
 群馬県新田郡尾島町にある 「義国神社(よしくにじんじゃ)」 です。

 平安時代末期に ゙天下第一武勇之士" と賞賛された 源義家(みなもとのよしいえ) を父に持つ 源義国(みなもとの
 よしくに) は、帯刀長(たてわきのおさ:皇太子を警護する役人の長)となり、式部大夫従五位下加賀介にも叙任
 されますが、久安 6年(1150年)、都において郎党が武闘事件を起こして天皇の咎めを受けたため、以前より関係
 を深めていた関東の下野国足利(栃木県足利市)に下向し謹慎します。
 義国 は、足利 を本拠にしながらも、渡良瀬川を渡って 新田 へ進出していたようで、久寿 2年(1155年)に没した
 ときは 新田の地にいたと推測されています。
 この 義国 の子に、後に 足利氏 の祖となる次男 義康 と、本項の主役で 新田氏 の祖となる嫡男 義重 が出て
 来ます。
 畑の中に普通に存在しているのが、かえってすごい気がします・・・ (^^;

  駐車場なし ( 青蓮寺 の駐車場から歩いて 5分ほどの場所にあります )

青蓮寺
青蓮寺 仁王門 青蓮寺 本堂
青蓮寺 仁王門 青蓮寺 本堂
 群馬県新田郡尾島町にある 「青蓮寺(しょうれんじ)」 です。

 青蓮寺 は、゙岩松山義国院(がんしょうざんぎこくいん)"と称し 源義国 の開基と云われ、その境内地は 義国 の
 住居跡と伝えられており、岩松(いわまつ) という地名から 「岩松館跡」 とも呼ばれています。
 また、義国 の嫡男の 義重 もここに居住したと云われています。
 やがて、義重 の孫の代に 足利氏 の婿を迎えた一族は、ここを本拠に 岩松氏 を名乗り、南北朝動乱期には
 新田本宗家(南朝)から離れて足利方(北朝)に属し、足利尊氏 が征夷大将軍に就き、室町幕府を樹立した後
 に、新田一族の総領の地位を得ます。

 仁王門がなかなかカッコ良かったですね〜。
 境内の前に、トイレと休憩用のベンチがある公園が整備されています。


   駐車場あり     地図はこちらから → 地図(Map)

岩松八幡宮
岩松八幡宮
 群馬県新田郡尾島町にある 「岩松八幡宮(いわまつはちまんぐう)」 です。

 岩松八幡宮 は、仁安年中(1166〜9年)に 新田(源)義重 が京都大番役(平安末期から鎌倉時代にかけて
 地方の武士が交替で天皇の居所、都の警備を行った制度)の折に、山城国(京都府)男山の 岩清水八幡宮
 より小松を持ち帰り、この地に植えたところ、見事に根付いたために勧請したと伝えられています。
 その後、南北朝以降の 新田荘 の実権が新田本宗家から 岩松氏 に移ったことにより、ここ 岩松八幡宮 は
 新田の総鎮守と呼ばれるようになります。
 境内の隣には、休憩用のベンチがある公園が整備されています。

   駐車場あり     地図はこちらから → 地図(Map)

清泉寺
清泉寺 悪源太義平の墓
清泉寺 悪源太義平の墓
 群馬県新田郡尾島町にある 「清泉寺(せいせんじ)」 です。

 清泉寺 の創建は、つまびらかではないが、源義平(みなもとのよしひら) の妻となった 新田(源)義重 の娘が
 夫の菩提を弔うために、ここに庵を結んだのが起源だと云われています。

 源義平 は、源義朝(みなもとのよしとも) の長男で、後に鎌倉幕府を開いた 源頼朝 の兄に当り、15歳のときに
 叔父の 源義賢(みなもとのよしかた:木曽義仲の父) を 武蔵国大蔵館 に討ったことから 悪源太(あくげんた)
 と異称されます。
 ちなみにここで言う ゙悪" とは善悪の ゙悪" ではなく、゙勇猛" という意味で使われています。
 都における 平治の乱 では、父 義朝 と共に 平清盛 と戦い、御所の待賢門では 清盛 の嫡子 重盛 と一騎討ち
 をするなど勇敢に戦いますが、戦局は源氏に利あらず、敗走中に 義朝 は家臣に討たれます。
 一方、義平 は都に潜伏し、清盛父子の命を狙いますが捕らえられ、六条河原で斬首されてしまいます。
 夫の死を知った 義重 の娘は、都に上ってその首を密かに持ち帰りこの地に埋葬し、剃髪して 妙満尼 と称し、
 菩提を弔ったと云うことです。
 境内には、悪源太義平の墓 と伝えられる石塔や、徳川吉宗の第二子 田安宗武 の手による宝篋印塔 等が
 あります。
 この逸話が本当で、京都からはるばる群馬まで生首を持って帰ったとしたら大胆な行動ですよね〜。
 当たり前ですが、平氏に見つかったらタダでは済みませんよ・・・ さすが武家の女性は強いです。


   駐車場なし     地図はこちらから → 地図(Map)

大慶寺
大慶寺 本堂 大慶寺 不動堂
大慶寺 本堂 大慶寺 不動堂
綿打刑部郷太郎為氏の墓 ぼたんの花
綿打刑部郷太郎為氏の墓 ぼたんの花
 群馬県新田郡新田町にある 「大慶寺(たいけいじ)」 です。

 大慶寺 は、新田(源)義重 の娘が、夫の 源義平 の菩提を弔うために 清泉寺 から、この綿打郷に移って、
 一庵を結んだのを起源とします。
 その後、新田一族の 綿打氏 がこの地に館を構えますが、明徳 5年(1394年)に足利の鶏足寺より空覚上人
 を迎え、館跡を寄捨して 大慶寺 を建立したと伝えられています。
 本堂 の西側にある 不動堂 には、平安末期の作と伝えられる不動尊が祀られており、鎌倉時代には ゙新田氏
 の守不動" と呼ばれて厚い保護を受けていました。
 そのため、南北朝の動乱で 新田義貞 が戦死したことが伝わると、不動尊はその死を惜しみ泣いたと云われ
 ており、別名を ゙泣不動" とも云われています。
 また、本堂 の裏側には、新田一族の 綿打刑部郷太郎為氏の墓 や、館だった往時を思い出させる 土塁 等を
 見ることができますが、現在では、女性が創建した寺院に相応しく、四季折々に美しい花々を咲かせ、中でも
 三千株を超える ゙ぼたん" の見頃となるゴールデンウィークには訪れる人が後を絶たないと言うことです。
 
シーズン中に訪れたため、平日にも関わらず混み合っていました。
 この 大慶寺 は、別名を ゙ぼたん寺" と呼ばれているほど綺麗な庭園を有しているため、史跡としてより観光名所
 として有名なようです。 境内で 堂 や 墓 を必死に写真に収めている私は浮いていました・・・ f(^_^;

   駐車場あり     地図はこちらから → 地図(Map)

〜 ken-you史跡巡り記 〜

    少し補足をしますと・・・
    文中に 新田(源)義重 と併記しているのは、父 義国 は一般的に ゙源姓" で呼ばれているのに、子の 義重
    は ゙新田姓" で呼ばれているので、あえて()で併記をしました。
    (ちなみに 義重 は自らは ゙源姓" を名乗っており、゙新田姓" を名乗ったことはないと云われています)

    さて、国指定史跡 ゙新田荘" の散策記録の第一弾ですが、私がこの史跡群を知ったのは、『新田一族の
    盛衰 久保田順一著 あかぎ出版』 という地元出版社の本を購入したからです。
    読み進める内に、源平〜南北朝期にゆかりのある史跡が、近くにこれほどあったことに狂喜乱舞し、本と
    地図とデジカメを片手に歩き回りました。
    今回紹介した史跡には全て説明板があり、また、場所によってはトイレ付きの公園が整備されています
    ので、ゆっくりと源平・南北朝期の世界に浸ることができると思います。



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