南北朝の写真
             篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)


大鳥居と表参道
 名 称      : 篠村八幡宮(しのむらはちまんぐう)

 所在地      : 京都府亀岡市

 由 緒      :
   延久 3年(1071年)に 後三条天皇 の勅宣により、
   河内国(大阪府羽曳野市)に鎮座していた 誉田
   八幡宮 から勧請され創建されたと云われている
   が、延久 4年(1072年)に河内守であった 源頼義
   の寄進状の内容から、頼義 の所領であったこの
   篠村庄に当初からあった祠に、自分が国守を務め
   る河内国の 誉田八幡宮 の御分霊を勧請したとも
   伝えられています。
   元弘 3年(1333年)、後醍醐天皇 の挙兵に応じて
   この地で鎌倉幕府打倒の旗挙げをした 足利高氏
   が室町幕府開闢のきっかけを掴んだことから往時
   は 30の宮殿を備えるほど栄えたと伝えられてい
   ますが、現在の境内域は、約9,900m
2(3,000坪)
   となっております。

   市指定史跡

   駐車場完備

     地図はこちらから → 地図(Map)
大鳥居と表参道
 篠村八幡宮の 大鳥居と表参道 です。

 承応元年(1652年) 12月、亀山城主の 松平忠晴 に
 より、建立された大鳥居です。
 大鳥居に掲げられた額は、正徳元年(1711年)に修飾
 された木製の額で、「八幡宮」と書かれています。



拝殿 本殿
拝殿 本殿
 境内の中心部に鎮座する 拝殿 です。

 大正 12年(1923年)に建造された拝殿は、間口 2間、
 奥行 2間半の大きさで、昭和初期までは奉納謡曲や
 能舞い等が行われていたそうです。
 拝殿の後ろに控えている 本殿 です。

 室町時代に隆盛を誇った篠村八幡宮でしたが、応仁
 の乱や明智光秀 の丹波国平定戦において損壊した
 ため、徳川政権下の歴代亀山城主によって、改修が
 施されて、現在に至っています。
 間口 2間半、奥行 4間の「一間社流れ造り」と呼ばれ
 る造りだそうです。

旗立て楊 矢塚
旗立て楊 矢塚
 境内の北端にある 旗立て楊(やなぎ) です。

 鎌倉幕府打倒の兵を挙げた 高氏 は、全国の武将に
 参陣を促すと、駆け付けて来る武将たちに本営の所在
 を明らかにするべく、この楊の木に、足利家の家紋の
 「二引両」の大白旗を掲げたと伝えられています。
 現在の楊の木は、高氏 の時代より 6・7代を経て引き
 継がれて来たものだそうです。

 本殿の西側にある 矢塚 です。

 高氏 が、篠村八幡宮 に戦勝祈願の願文を捧げる際
 に、一本の鏑矢を奉納したところ、弟の 直義 をはじめ、
 高、上杉、細川、吉良、今川 ら家臣たちも上矢を一本
 ずつ奉献して必勝を祈願したため、社壇には、矢が塚
 のように高く積み上げられたと伝えられています。
 これらの矢を奉納した場所が、この 矢塚 です。
 

挙兵の経緯
 元弘 3年(1333年)、後醍醐天皇 の挙兵に応じて畿内で起こった反乱を鎮圧するために、鎌倉幕府は数十万の
 大軍を送り込みますが、後醍醐天皇 の綸旨に力を得た反幕府軍に対し、鎌倉幕府は御家人中の実力者である
 足利高氏 と、北条一門の 名越高家 の二将を援軍として差し向けます。
 しかし、鎌倉幕府の腐敗を目の当たりにしていた 高氏 の心には北条打倒の思いが秘められており、東海道を
 西進する途次、後醍醐天皇 からの綸旨を受け取り、そのまま京都に入洛します。
 同じく京都に入った 名越高家 と六波羅探題が、赤松円心 ら反幕府軍と干戈を交えているのを尻目に、高氏
 は都から西に位置する足利家の所領の丹波国の篠村に陣を移しました。

足利高氏の挙兵
 丹波国の篠村は、都から山一つ隔てた地に山陰街道が走る要衝の地であり、足利氏の所領の一つであった。
 篠村に陣を張った 高氏 は、鎌倉幕府打倒の旗幟を鮮明にし、元弘 3年(1333年) 4月 29日に戦勝祈願の願文
 と一本の鏑矢を 篠村八幡宮 に奉納すると、全国の武将に軍勢催促状を送り、倒幕の参陣を促します。
 高氏 の名声を慕い、楊の木に掲げられた足利家の家紋である「二引両」の大白旗を目印に集まった軍勢は、
 瞬く間に 2万3千余騎に膨れ上がり、 5月 7日に軍勢を率いて篠村を出陣した 高氏 は、赤松円心ら反幕府軍と
 ともに戦い、都から六波羅探題を追い落とすことに成功します。
 都から引いて再起を図ろうとした六波羅探題でしたが、討手の追及厳しく、112年の歴史に幕を閉じ、滅亡します。
 同じ頃、上野国新田荘生品神社においては、新田義貞 が、鎌倉幕府打倒の兵を挙げています。

二度目の祈願
 建武の新政に失望し、後醍醐天皇 に反旗を翻した 尊氏(先の戦功により、後醍醐天皇 より ゙尊"の字を拝領して
 改名)は、建武 3年(1336年) 1月 30日に京都の戦いで大敗を喫すると、篠村八幡宮 で敗残兵を集めるとともに、
 社領を寄進し、再起を祈願して九州を目指して、瀬戸内海を西下します。
 その後の、九州での多々良浜の戦い、続く兵庫での湊川の戦いに勝利を収めた 尊氏 は、室町幕府開闢の
 きっかけを篠村八幡宮に祈願して成就していることから、貞和 5年・正平 4年(1349年) 8月 10日にも自ら参拝
 をしています。
 このように 尊氏 をはじめ、歴代の足利将軍家から多くの荘園の寄進を受けた篠村八幡宮は、室町時代を通じて
 大いに栄え、往時は 30の宮殿を備え、境内域は東西両村に及んでいたと伝えられています。

宝物
 延久 4年(1072年) 5月 13日付の 源頼義 の「寄進状」、
 元弘 3年(1333年) 4月 29日に 高氏 が奉納した「戦勝祈願の願文」、
 建武 2年(1335年) 3月 22日付の 尊氏 の「御判御教書(寄進状)」 他多数が奉納されているそうです。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

   平成16年の 9月、あいにくの曇り空の中、念願の 「足利高氏の挙兵地」 を訪れました。
   京都駅から山陰本線に乗り、保津峡を眼下に見つつ、馬堀駅で下車し、地図を片手に散策し、ついに到着。
   境内はそれほど広い印象は受けませんでしたが、周囲を鬱蒼と茂る樹木に囲まれているため、鎮守の杜と
   いった雰囲気の中、「大河ドラマでの高氏(真田広之)の挙兵シーン、カッコ良かったな〜」と思いつつ、歴史
   の転換点たる篠村八幡宮の息吹を大いに感じて来ました。
   現在は少し寂れている感じですが、写真に紹介した史跡は、南北朝ファンは一見の価値はあると思います。



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