南北朝の写真
             多々良浜の戦い


多々良浜の碑(兜塚)
 名 称      : 多々良浜古戦場

 所在地      : 福岡県福岡市東区

 時 期      : 建武 3年・延元 1年(1336年) 3月 2日

 対  戦 :    勝利            敗北
        足利尊氏(武家方) vs 菊池武敏(宮方)
           1,000           10,000

 小説への登場場面

   吉川英治著 「私本太平記」 七巻 〜 多々羅合戦 〜


 駐車場なし

     「兜塚」 はこちらから → 地図(Map)

     「赤坂」 はこちらから → 地図(Map)

     「菊池軍陣地」 はこちらから → 地図(Map)
多々良浜の碑(兜塚)

 多々良浜の戦い において、激戦が繰り広げられた地
 に立つ碑で、「兜塚」 とも呼ばれています。

 「お城と温泉と文学の旅」管理人の がろっとさんと、
 九州の歴史愛好家の 岩屋城さん の話によりますと、
 「埋立てが進み、往時の合戦を偲べなくなるのを
 悲しんだ地元の有志の方によって建てられた碑」 との
 ことで、゙兜" を模した独特の形状がカッコ良いです。

赤坂(尊氏布陣地)よりの眺望 菊池軍の陣地より赤坂を望む
赤坂(尊氏布陣地)よりの眺望 菊池軍の陣地より赤坂を望む

 当時 ゙赤坂" と呼ばれた、足利尊氏 が布陣した丘陵
 地帯よりの眺望です。

 現在は、閑静な住宅街となっており、写真からは分かり
 づらいですが、比高差はかなりあります。

 菊池軍の陣地より、尊氏 が布陣した ゙赤坂" を望む
 一枚で、下に流れる川が 多々良川 、正面の丘陵が
 ゙赤坂" です。

 当時はこの付近まで海岸線が迫っていたと考えられ
 ています。


合戦の沿革
 後醍醐天皇 へ反旗を翻した 足利尊氏 は、京都の戦いで大敗を喫すると、態勢を挽回する地を九州と定め、
 瀬戸内海を西下します。
 尊氏 は西下の途次、後醍醐天皇 と対立する持明院統(後の北朝)の 光厳上皇 の院宣を入手することで、
 官軍となることに成功し、九州の豪族に対して、自分へ加勢するよう御教書を発します。
 この報に九州の豪族は、尊氏 に味方する ゙武家方" と 後醍醐天皇 に味方する ゙宮方" とに分かれ、激しい
 戦いを繰り広げ始め、尊氏 はその最中に 筑前国葦屋津(福岡県遠賀郡芦屋町) に上陸をします。

彼我の兵力差 10分の1
 尊氏 は上陸後に、宗像大社、香椎宮 で戦勝祈願を行いますが、その兵力は 弟の 直義、家臣の 高、上杉、
 細川 たち譜代衆と、九州で味方に加わった 少弐、大友、島津 たちの軍を加えても 1,000人を数えるほどで、
 対する ゙宮方" の 菊池、阿蘇 たちの兵力は、10,000人を超えており、赤坂の陣地からその威容を望見した 尊氏
 は戦意を喪失し、自刃しようとしたところを弟の 直義 に止められたと云われています。
 この数字には諸説ありますが、尊氏 たち ゙武家方" の兵力が圧倒的に少なかったことだけは確かなようです。

多々良浜の戦い
 建武 3年・延元 1年(1336年) 3月 2日の昼前後、戦いの火蓋は切られ、数で勝る ゙宮方" は中核をなす 菊池軍
 の総大将 菊池武敏、阿蘇軍の 阿蘇惟直 らの猛攻で、尊氏 たち ゙武家方" を圧倒します。
 尊氏 たち ゙武家方" は、赤坂の丘陵よりの 「高所から低地への攻撃」 という優位さはあるものの、兵力における
 劣勢の感は否めず、乱戦の中、直義 は死を覚悟するなど敗北は間近と見られていたその時、突如として北方
 から突風が吹き始めました。
 突風は、尊氏軍 の背後から吹き荒れる形となり、対する 菊池、阿蘇 たち ゙宮方" に砂塵となって襲いかかり、
 目を開けているのも困難な状況です。
 この天佑を機に、反攻に転じた 尊氏 たち ゙武家方" の攻勢に戦線は膠着状態に陥ると、それまで ゙宮方" にいて
 戦いの趨勢を見ていた 松浦党 らの軍勢が、尊氏軍に寝返ります。
 さしも圧倒的な兵力を誇っていた ゙宮方" も、菊池、阿蘇 らの主力以外は寄せ集めに過ぎず、味方の裏切りに
 遭うや、大混乱に陥り、阿蘇惟直 は戦死し、菊池武敏 は敗走の他なく、ここに多々良浜における戦いは 尊氏
 たち ゙武家方" の大勝利に終わりました。

そして東上へ
 その後、博多、大宰府 の地へ入った 尊氏 は残敵掃討を行い、九州上陸から僅か一ヶ月余りの 4月 3日に
 数万に膨れ上がった軍勢を夥しい数の軍船に乗り入れるや、軸路を東へ向けます。
 その頃、摂津国湊川(兵庫県神戸市) の地には、゙宮方" の 楠木正成、新田義貞 らが待ち構えていました。


〜 ken-you史跡巡り記 〜

    足利尊氏の 多々良浜 における勝利は、後の 湊川の戦い での勝利、入京、室町幕府の開闢という奇跡の
   始まりではなかったかと、私には思えてなりません。
    そもそも東国人たる 尊氏 が、京都の戦いに敗れた身を本領の東国ではなく、全く縁故のない西国の地
   九州に求めたというところが、とてもカッコ良いです。
   ( 「東国には 北畠顕家 たち公家方が居たため」とも、「東国は既に磐石であり、西国に勢力を伸張させる
   ためだった」 とも色々言われていますが、、、)
    現在の 多々良浜 は、開発に伴う埋立てによって、往時を偲ぶものがほとんど無いため、今回の史跡巡り
   にマイカーで道案内をしていただいた「お城と温泉と文学の旅」管理人の がろっとさんと、九州在住の歴史
   愛好家の 岩屋城さんのお二人の協力が無ければ、無理だったと思っています。
    この場を借りて、がろっとさんと岩屋城さん のお二人に、改めてお礼を申し上げたいと思います。m(_ _)m



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