鎌倉の写真
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宇都宮辻子幕府の跡 北条高時 腹切りやぐら
宇都宮辻子幕府の跡 北条高時 腹切りやぐら
 鎌倉幕府最後の執権 北条高時の時代の ゙宇都宮辻子幕府"
 (うつのみやずしばくふ)の跡です。

 初代 源頼朝の時代、執権政治を確立した 北条泰時 の時代
 の各幕府跡と比較して、南(港方向)に移動していることから、
 外敵の侵攻の恐れが無く、幕政が安定していることを表して
 いると云えます。

 しかし、これは北条得宗専制体制の腐敗が極みに達したこと
 も同時に表しており、やがて 後醍醐天皇 の勅に応じた武士
 達による 鎌倉幕府打倒の動きが起こって来ます。

 鎌倉東部の東勝寺跡にある ゙北条高時 腹切りやぐら" です。

 鎌倉東部の屏風山には、北条氏の菩提寺である東勝寺が
 あり、新田義貞 軍の猛攻を受けた執権 北条高時をはじめ
 とした北条氏一門、郎党 283人(一説には 800人余)は、
 そこに退き、寺に火を放ち壮絶な最期を遂げます。

 暗愚と云われる 北条高時 ですが、鎌倉幕府滅亡のときを
 迎えても身内からの離反者は出ず、皆華々しい最期を遂げ
 ています。
 本当に暗愚だったのでしょうか・・・ 真実は分かりません。

亀ヶ谷坂切通し 極楽寺坂切通し
亀ヶ谷坂切通し 極楽寺坂切通し
 鎌倉七切通しの一つ 「亀ヶ谷坂切通し」(かめがやつざかきり
 どおし)です。

 「亀ヶ谷坂」の名前の由来は、ここのそばの建長寺の池にいた
 亀が、たまにはこの世を見てみたいと思いこの坂を上るもの
 の頂上まで行くことが出来ずに引き返したところからついたと
 のことです。 微笑ましいエピソードですね。(^^)

 写真を見て分かるように山を切り拓いて造られています。
 軍事的に優れていることは一目瞭然です。

 鎌倉七切通しの一つ 「極楽寺坂切通し」 (ごくらくじざかきり
 どおし)です。

 新田義貞 の鎌倉幕府攻撃軍は、総勢60万騎(あまりに多い
 ため、実際は数万騎と云われています)を三手に分け、ここ
 極楽寺坂 は新田一族の 大館宗氏、江田行義 が攻め、幕
 府軍の 大仏(北条)貞直 が守ります。
 難攻不落の ゙鎌倉城" の城門である 「切通し」 を落とせない
 新田軍は、稲村ヶ崎の干潮を利用して、鎌倉府内へ乱入す
 ることに成功します。

日野俊基朝臣の墓 大塔宮護良親王の御土牢
日野俊基朝臣の墓 大塔宮護良親王の御土牢
 源氏山公園の隣、葛原岡にある 「日野俊基の墓」 です。
 国指定史蹟。
 近くの 「葛原岡神社」 で祀られています。

 日野俊基(ひの としもと)は、後醍醐天皇 の側近として、天皇
 親政を実現させるべく動きますが、鎌倉幕府の知るところとな
 り失敗します。
 後醍醐天皇の倒幕計画は二度失敗しており、日野俊基は最
 初の 「正中の変」(しょうちゅうのへん) では釈免されますが、
 二回目の 「元弘の変」(げんこうのへん)では許されず、京か
 ら鎌倉へ護送され、゙葛原岡(くずはらおか)" で斬首されます。

 吉川英治著の 「私本太平記」 では、 公卿でありながら武士
 の気概を持ち、後醍醐天皇 の理想を実現させるべく山伏姿
 に身をやつし、朝廷勢力の結集を図るなど、八面六臂の活躍
 をする姿が描かれます。

 鎌倉宮(かまくらぐう)にある 「大塔宮護良親王の御土牢」 です。

 大塔宮護良親王(おおとうのみや もりよししんのう)は後醍醐
 天皇の皇子として生まれ、鎌倉幕府との戦いにおいて、吉野
 に篭り自ら陣頭に立って戦ったと云われています。

 鎌倉幕府滅亡後、父である後醍醐天皇の建武の新政が始まり
 ます。その後、真相は謎ですが、鎌倉へ流されこの地にあった
 東光寺の土牢に入れられてしまいます。
 (足利尊氏の謀略によるものと云われています)

 その後、各地で蜂起した北条氏残党との戦いの混乱の中、
 この暗い土牢で暗殺されてしまいます・・・


新田義貞の挙兵
 元弘 3年(1333年) 5月 8日、かねてから鎌倉幕府の処遇に不満を抱いていた上野国の武将 新田義貞 は、後醍醐天皇 の
 挙兵に呼応して、生品神社(いくしなじんじゃ)において、幕府打倒の挙兵をします。
 足利氏と同じく 源義家 を祖に抱く源氏の貴種の挙兵の報は、関東を席捲し、馳せ参じた武士団を行く先々で加え、いつしか
 数万という大軍団になっていました。
 義貞 は、小手指河原(こてさしがわら)、分倍河原(ぶばいがわら)で幕府軍を撃破し、怒涛の勢いで鎌倉に迫ります。

鎌倉の攻防
 幕府は迫り来る新田軍に対して、鎌倉の入口に当る 「切通し」 を封鎖し、「極楽寺口」 には 大仏(北条)貞直 率いる軍勢、
 「巨福呂口」 には 赤橋(北条)守時 率いる軍勢、「化粧口」 には 金沢(北条)貞将 率いる軍勢を配置し、待ち構えます。

 新田軍も 幕府軍 に対抗して、「極楽寺口」 へ 大館宗氏・江田行義 を将とする軍勢、「巨福呂口」 へ 堀口貞満 を将とする
 軍勢、そして 「化粧口」 へは 義貞と弟の脇屋義助 が率いる本軍に分かれて、激しい攻防戦が展開されます。
 しかし、狭隘な 「切通し」 では、新田軍の数万を超える兵力の有利さは生かされません。
 天険の要害である ゙鎌倉城" の有用性が発揮されたことと、今は最後と心を決めた北条氏の必死な反抗が目に浮かびます。

稲村ヶ崎の龍神に祈る
 元弘 3年(1333年) 5月 18日の戦闘開始から両軍一歩も譲らずの激しい戦いが繰り広げられますが、 四日目の 21日夜半
 についに均衡が崩れ、激闘に終止符が打たれます。 
 新田軍が、稲村ヶ崎の夜半の干潮を利用して、鎌倉府内へ侵入することに成功したのです。
 稲村ヶ崎の龍神に黄金造りの太刀を奉じると、海が干上がり鎌倉府内への道ができたと云う伝説はこのとき生まれました。

鎌倉幕府の終焉
 燃え上がる紅蓮の炎を見ながら最後の執権 北条高時 は菩提所 東勝寺 に入り、苦楽をともに戦い抜いてきた一門ととも
 自刃して果てました・・・
 このとき、北条氏一門からの裏切り者は一人も出ていず、皆、討ち死に、自刃等をしていることは特筆すべきことでしょう。
 源頼朝 の創業以来およそ 150年間続いた ゙もののふの府" 鎌倉幕府 はこうして滅び去りました・・・



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