鎌倉の写真
          武家の都 鎌倉  鎌倉幕府の樹立


源氏山公園の源 頼朝像 大倉幕府跡の碑
源氏山公園の源頼朝像 大蔵幕府跡の碑
 標高 約93m、神奈川県鎌倉市の 源氏山公園 の
 頂上から、鎌倉市内を見下ろすかのように鎮座する
 「源頼朝像」 です。

 この源氏山公園は、鎌倉における桜の名所として、
 知られており、春には約 250本もの桜の競演を見る
 ことが出来るそうです。

 源氏山との呼称は、後三年の役で 源義家 が奥州に
 向かう途中、山上に 「源氏の白旗」 を立てて戦勝を
 祈願したことから呼ばれたという説や、麓に 源義朝
 が住んでいたからという説など色々あります。

 公園内は意外と広く、他にも「銭洗弁天」や「佐助稲荷」
 等の史跡もあります。

 鶴岡八幡宮より東北の方角に歩いたところに、 頼朝 が
 初めて武家政権を開いた 「大蔵幕府址」 があります。
 現在は、清泉小学校の角に、この碑が建っています。
 碑の前には 駄菓子屋さんがあり、下校途中の小学生
 たちの遊び場となっていました。(笑)

 鎌倉幕府と一口に言っても、各時代(源氏〜北条氏)に
 おいて、その場所は若干異なります。

 頼朝 の時代の 「大蔵幕府」 は、北と東西を山に、南を
 海に囲まれた 鎌倉 の最奥部に位置する 東北方向 の
 場所にあり、外敵への防備を重要視していることが分か
 ります。( 後に断崖を切り拓いて造られる 「切り通し」 と
 呼ばれる道はまだなく、北条泰時 の時代になって登場
 するそうです)

文覚上人の屋敷址の碑 源 頼朝の墓
文覚上人屋敷址の碑 源頼朝の墓
 「文覚上人(もんがくしょうにん)屋敷址」 の碑です。
 偶然見つけることが出来ました。(^^)

 文覚上人 は、出家前は 遠藤盛遠(えんどうもりどお)
 と名乗り、代々滝口の武者(たきぐちのむしゃ:御所の
 警護をする武士)として、御所に仕える由緒正しい家柄
 の出でした。
 しかし、同僚の妻である 袈裟御前(けさごぜん) という
 女性に横恋慕し、同僚を殺害しようとしたところ、誤って
 袈裟御前 を殺してしまい、挙句にその首を持ったまま
 山野をさまよい、ついに出家したと云う、破天荒な逸話
 の持ち主です。

 出家後も荒法師振りは直らず、伊豆に流されてしまい
 ますが、その際に、「義朝のどくろ」を持って、配所で
 骨抜きになっていた 頼朝 に、父の無念と平氏の悪業
 を訴え、挙兵を促したと伝えられています。
 このような荒法師振りに見逃されがちですが、神護寺
 や東寺の再興に尽力したという逸話も残されています。

 大蔵幕府址の碑から、北に少し歩くとあります 「源頼朝
 の墓」です。

 大蔵幕府とは、頼朝 の邸周囲の政庁の集合体であり、
 この墓は、頼朝 の持仏堂(じぶつどう)があった場所
 だと云われています。
 ( 正確な場所は残念ながら不明だそうです。 )

 また、頼朝 の死後、執権政治を確立させた北条氏に
 謀略をかけられた 三浦氏 は、ここに立て篭もり、
 一族 500余人が自刃したと云うことです。
 (他にも、北条氏は謀略により、有力御家人である
  比企氏、畠山氏、和田氏などを滅ぼし、執権体制
  そして得宗専制体制の強化を図って行きます・・・)

 国指定史跡

土佐坊昌俊の邸址の碑 土佐坊昌俊の邸址の碑
 「土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)邸址」の碑です。
 民家のすぐ横にひっそりとあり、これも偶然に見つける
 ことが出来ました。(苦笑)
 車通りが激しいところにあるため、写真を撮るのに
 かなり恥ずかしい思いをしました。

 土佐坊昌俊 と言えば、源義経 暗殺の刺客として、
 鎌倉から京都へ派遣されて行ったものの、かえって
 義経 をして殺されてしまうという 損な役回りでした。
 ・・・ 実際のところは、どうだったんでしょうか?・・・


東の都 鎌倉
 神奈川県鎌倉市。 説明するまでもない 源頼朝 が日本で初めて武家政権を樹立した土地です。
 中世都市 鎌倉 は、北の大臣山を切り拓いて鎮座する 鶴岡八幡宮 と、その参道である 若宮大路(段葛) を中心に、
 若宮大路 と並行に南北に走る 小町大路、今大路 と、直交して東西に走る 横大路、大町大路 という、都の都市計画
 を参考にした造りとなっています。

軍事要塞都市 鎌倉
 また、軍事要塞的な視点から見ると、北と東西を山に、南を海に囲まれていますが、さらに周囲の山に 掘割、堀切
 (尾根を切断したもの)や 切岸(丘陵を垂直に切断した崖)などを設けて、外敵の侵入を容易ならざるものにしています。
 このことから、鎌倉全体が、自然の地形を巧みに利用した ゙城" であることが分かると思います。

七切通し
 この 掘割 を 「切通し(きりどおし)」 と云い、特に 「極楽寺坂(ごくらくじざか)」、「大仏坂(おさらぎざか)」、「名越
 (なごえ)」、「化粧坂(けわいざか)」、「亀ヶ谷坂(かめがやつざか)」、「巨福呂坂(こぶくろざか)」、「朝比奈(あさひな)」
 は、゙七切通し" と呼ばれています。
 「切通し」 は平常時は、交通の往来・物流の手段としての道として機能していますが、ひとたび ゙事" が起こると、そこ
 を遮断して防衛の要とします。
 その道幅は狭く、直角に鋭く曲がりながら切り立った崖の間をわずかに通過するといったもので、これは言うまでもなく
 敵の軍勢が大軍で一度に通るのを防ぐためであり、また、崖の上から敵を攻撃するためでもあります。
 つまり、「切通し」 とは ゙鎌倉城" の 「城門」 の役目を果たしているのです。

切通しの現在の姿
 今でも、この 「切通し」 は、ハイキングコースや観光スポットとして、また、舗装された道として観光客や地元の人に
 親しまれています。
 私が歩いた ゙七切通し" の内、「極楽寺坂」 は舗装され、とりあえず車 2台がすれ違える幅があり、「亀ヶ谷坂」 も舗装
 されていますが車は通れませんでした。(人の歩行は可能です)
 また、「巨福呂坂」 に至っては、途中で道が無くなってしまったので、引き返して来ました。
 (私は、どうしても見つからなかったので、観光駐車場の人に尋ねました)
 この ゙七切通し" の中で、一番印象深かったのが 「化粧坂」 で、急激に切り立った断崖とヘアピンカーブ(勿論、舗装は
 されておりません)の連続で、直線距離的には短いであろうものの、頂上(頂上は「源氏山公園」につながっています)
 に着く頃には肩で息をする始末でした・・・ (単に私が歳なだけか?)
 未舗装であるこの山道は、中世の雰囲気を全く壊していないものとして、感慨にふけることが出来ると思います。 
 少々疲れますが、オススメの場所です!

横穴式墳墓 やぐら
 もうひとつ、鎌倉の特徴として山腹に多く見受けられるのが 「やぐら」 です。
 これは戦国時代における 「櫓・矢倉」 とは全く異なり、鎌倉時代の武士・僧侶等の支配者層の 「墳墓」 を指します。
 先ほど、『山腹に見受けられる』 と書きましたが、山腹の崖に横穴を掘り込み、入口や天井・床などに材木をあてがい、
 扉を付けて内部は、「しっくい」等で固めていたそうです。
 この一種独特な異様な雰囲気は、ただごとではありません・・・
 私が見たのは、大江広元 と 北条高時 の二人の 「やぐら」 でしたが、疲れていたにも関わらず背筋がシャンと伸びる
 感覚を覚えました。
 これは、「中途半端な気持ちで相対してはいけない」 という気持ちがよぎったものだと思います。。。

ken-you流 鎌倉の楽しみ方
 長くなりましたので、そろそろまとめましょう。
 鎌倉の旅について、私の個人的な見解ですが 「自転車」 や 「バイク」 等の小回りの利く、機動性に富んだ乗り物を
 活用するのが良いと思います。
 車だと駐車場を探すのに苦労しますし、中には駐車場が無い場所もありますので。
 バスもいいと思いますが、あまり有名でないところはバス停が近くに無かったりします。
 また、時間的制約により、自分の思い通りに動けないのも難点ですね。
 何より、「イライラ」 や 「焦り」 といった感情は、「ゆっくり見たい」、「当時のことを思い浮かべながら感慨にふけりたい」
 といった 『史跡巡りの醍醐味』 を味わう障害となってしまいます。
 (これは、鎌倉に限らず 『旅』 全般について言えることですが)

 私は、JR横須賀線 鎌倉駅 を降りてすぐのレンタサイクル屋を利用し、「鎌倉市観光案内図」 というA3版の白黒の
 地図をもらって、駅のコインロッカーに荷物を預けて、レンタサイクルで史跡巡りをしました。
 鎌倉の移り往く季節を肌に感じながら、史跡巡りが出来るなんて最高の贅沢かも知れませんね!!



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