源平の写真
             畠山館跡


畠山館跡
畠山館跡

 埼玉県大里郡川本町の 「畠山館跡(はたけやまやかたあと)」 です。

 坂東武士の鑑(かがみ)と称えられた 畠山 重忠(はたけやま しげただ) の生誕地と云われており、現在は 「畠山
 重忠公史跡公園」として整備されています。
 公園内には、重忠主従の墓所と伝えられ 6基の五輪塔が並んでいる 「畠山館跡」 、一の谷の戦いでの雄姿を表し
 た 「愛馬゙三日月"を背負う 重忠 の像」、嘉元 2年(1304年)に建立され川本町指定文化財に指定されている「板
 石塔婆」、「重能の墓と伝えられる自然石」 などがあります。
 ちなみに 「畠山館跡」 は、重忠 の事蹟をアナウンスしてくれる装置が設置されています。


 駐車場完備

  地図はこちらから → 地図(Map)

名前
 畠山重忠(はたけやましげただ)

【 出生 】
 生没年 : 長寛 2年(1164年) 〜 元久 2年(1205年)
 出生地 : 武蔵国畠山庄(埼玉県大里郡川本町畠山)

【 時代の趨勢 】
 畠山氏は、桓武天皇の流れを汲む 坂東八平氏 のひとつ 秩父氏 の一族です。
 秩父氏 は畠山庄からほど近い 大蔵 に館を構えていた 源義賢(みなもとの よしかた) と組んで勢力拡張を図ります
 が、久寿 2年(1155年)、源氏一族の 源義朝(みなもとの よしとも) の長子 義平(よしひら)に攻め滅ぼされると、畠
 山氏 をはじめとした武蔵国の武士団の多くは、源義朝 の配下となります。
 しかし、平治元年(1159年)に勃発した 平治の乱 で 源義朝 が 平清盛 に敗れると、武蔵国の武士団は心ならずも、
 平氏の支配下におかれることとなってしまいます。

【 重忠の誕生と平氏全盛 】
 このように平氏全盛の、長寛 2年(1164年)に 畠山重能(はたけやましげよし) を父に、相模国の豪族 三浦義明 の
 娘を母に 重忠 は生を受けました。
 また、重忠 が 3歳のとき都では 平清盛 が太政大臣に任官し、平氏一門は日本の領土の半分を有し、かつ朝廷の
 要職に就き、我が世の春を謳歌していました。

【 平氏方として源氏と敵対 】
 治承 4年(1180年) 8月、 平治の乱 で死した 源義朝 の遺児 頼朝 が 石橋山 に挙兵したときは父の 重能 が平氏
 に仕え在京していたため、重忠 は 頼朝 と敵対関係をとり、源氏方である祖父 三浦義明 を討ちます。

【 源氏へ服属そして源平争乱へ 】
 石橋山 で一敗地にまみれた 頼朝 でしたが、相模・安房・上総・下総の武士団が味方となり、勢威を伸ばすと 重忠
 にも帰属を呼びかけ、重忠 は一族の 河越重頼(かわごえ しげより)、 江戸重長(えど しげなが) らとともに招きに
 応じます。
 治承 4年(1180年) 10月、頼朝 は 源氏ゆかりの地 鎌倉 に入る際に 重忠 に先陣を申し付けます。
 これは、武蔵武士の有力な棟梁たる 畠山氏 の勇名を利用したものであり、この宣伝効果により、東国の平氏勢力
 は一掃されてしまいます。
 その後の 重忠 は、゙宇治川"、゙一の谷"、゙奥州藤原氏征討" などの数々の戦いで武功を挙げ、その清廉な人柄と
 たぐいまれなる武勇で 頼朝 の大いなる信任を得ることになります。

【 数々の怪力伝説 】
 重忠 は怪力として知られており、幾つかの逸話を残しています。
   一.源義仲 との ゙宇治川" の戦いにおいて雪解け水で激流と化す宇治川に入るも、馬を射られてしまい、波しぶ
     きが兜の吹返しまでかかるのもものとせずに歩いて行くと、烏帽子子(えぼしご)である 大串重親(おおぐし
     しげちか) が激流に流されしがみついて来たので、向こう岸へ投げ飛ばしたと云う話。
   二.平氏との ゙一の谷" の戦いで、源義経 率いる搦手隊に属した 重忠 は、鵯越の断崖絶壁の下にある平氏の
     陣地へ奇襲を仕掛けるとき、愛馬 ゙三日月" を労わり、背負って崖下を降りたと云う話。
   三.鎌倉に永福寺(ようふくじ:現 廃寺)を建立する際、大石をひとりで運んで周囲の人を驚かせたという話。
   四.関東一の力士 長居 と相撲の取り組みをしたとき、肩をひとつかみして 長居 の肩の骨をばらばらに砕いて
     しまったと云う話。
 どこまでが真実かは定かではありませんが、相当な力持ちだったのでしょう。

【 音曲の才 】
 頼朝 と仲違いし、追われる身となった 義経 の愛妾 静御前 が捕らわれ、鎌倉鶴岡八幡宮の 舞殿 で、舞を披露す
 る際に 重忠 は銅拍子(どうびょうし)という現在のシンバルに似た楽器を打ち鳴らしました。

【 清廉実直な人柄 】
 文治 3年(1187年) 6月、重忠 が地頭を務めていた伊勢の領地で、代官 が財産を横領するという事件が起き、鎌倉
 へ呼び出された 重忠 は捕らえられ、御家人のひとり 千葉胤正(ちば たねまさ)の屋敷に預かりの身となります。
 重忠 は身の潔白を晴らすため、寝食を絶ち、頼朝 はその清廉実直な人柄に感じ入り、やがて疑いを解き本領へ帰る
 ことを許します。
 しかし、本領に帰った 重忠 に謀反の意ありという噂が流れ、再度、鎌倉への出頭を命じられます。
 反逆の心など無いことを弁解する 重忠 に、その旨を認めた起請文を書けという者がいましたが、重忠 は
  「 頼朝 を主君として仰ぎ二心なく言葉も二つと持たず、その身は潔白であり起請文など書く必要はない」
 と断わります。 後でこの言葉を聞いた 頼朝 は大いに感動したということです。
 また、武蔵国の豪族 児玉党 と 丹党 の争いを調停するなど、武蔵武士の中心的人物として信望を集めていました。

【 権力闘争の果てに死す 】
 正治元年(1199年) 1月、頼朝 はその波乱の生涯を閉じます。
 その臨終の際、重忠 が枕辺に呼ばれたことからも 二人の信頼関係が揺るぎないものであったことが分かり、その存
 在が幕府の実力者 北条氏 にとって邪魔なものとなるのに、時間はかかりませんでした。
 元久 2年(1205年)、北条氏 の陰謀により僅か 130騎の手勢で本拠地の 菅谷館 から鎌倉に向かう途中、数千の軍
 勢に取り囲まれ、壮絶な最期を遂げます。
 謀反の疑いをかけられたため討たれたと云われていますが、その手勢の少なさから 北条氏 の陰謀であることは間
 違いなく、その証拠に 畠山氏 の所領は 重忠 の妻に安堵されたということです。 

畠山重忠公史跡公園の碑 愛馬を背負った畠山重忠 板石塔婆
畠山重忠公史跡公園の碑 愛馬を背負う畠山重忠の像 板石塔婆
 公園入口に建っている、どことなく
 威厳を感じる 碑 です。

 ゙一の谷の戦い" において、源義経
 率いる搦手隊の一将として、「鵯越
 の逆落とし」 を駆け下りる際に愛馬
 ゙三日月"を背負う姿の像です。

 重忠 が元久 2年(1205年)に、執権
 北条氏に謀反の疑いをかけられ戦死
 した、100年後の嘉元 2年(1304年)
 に建立された 板石塔婆 です。



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