源平の写真
             源(木曽) 義仲 ゆかりの地 武州比企郡


鎌形八幡神社 本殿 鎌形八幡神社 本殿

 埼玉県比企郡嵐山町の
  「鎌形八幡神社(かまがたはちまんじんじゃ)」 です。
 源(木曽)義仲 の出生地であり、 ゙義仲産湯の清水"
 があります。


 ここは、平安時代初期の延暦年間に、坂上田村麻呂が
 九州の宇佐八幡宮の御霊を迎えて祀ったのが始まり
 だと云われ、前九年の役には、 源 頼義、義家 父子が
 戦勝を祈願したとも伝えられています。

 また、源義賢(よしかた:義仲の父)、義仲、義高(よし
 たか:義仲の子) 三代に関する伝説が、この地には
 多く、源氏の氏神として仰がれていたと云うことです。

 本殿には、゙懸仏(かけぼとけ)" が 2面奉納されて
 います。
 ゙懸仏" とは、仏像や名号、神像を円盤上に立体的に
 あらわし、神社・仏寺の内側(内陣)に懸けたものです。


 未舗装駐車場あり

  地図はこちらから → 地図(Map)
懸仏 義仲産湯の清水
懸仏 義仲産湯の清水
 本殿に奉納されている 懸仏 です。
 中央に 阿弥陀坐像 が鋳出されており、嵐山町の
 指定文化財にもなっています。

 義仲産湯の清水です。
 現在も、湧き出た清水が竹を伝って、手水舎に流れて
 来ています。


班渓寺
威徳山 班渓寺

 鎌形八幡神社より西に少し行ったところにある 「班渓寺(はんけいじ)」 です。
 境内に、義仲の室 ゙山吹姫の墓" が祀られています。

 寿永 2年(1183年) 7月末、平氏に代わって都入りした 義仲 でしたが、時の権力者 後白河法皇 と不和となり、
 やがて 後白河法皇 の勅を受けた 頼朝 の代官 義経 の電光石火の襲撃により、近江国粟津ヶ原で戦死します。

 その頃、山吹姫 は京都北野のあたりにいましたが、夫 義仲 の死により、身の危険を感じ、天神様を旅の守り神
 と祈り、尼の姿に変えて都を脱出し、義仲 の霊を弔うため、また鎌倉に人質として捕らわれている子の 義高 に
 会う折もあろうと、縁ある者を頼って、義仲 誕生の地 鎌形 に辿り着きました。
 そして、この地に 草庵 を立てて、義仲 の霊を弔うとともに天神様を鎮守として祀り、義高 に会える日を心待ちに
 して いました。
 しかし、義高 は鎌倉を抜け出し、この地へ忍び来る途中の入間川原で 頼朝 の討手に殺されてしまい、山吹姫も
 子と会うこともできぬまま、建久元年(1190年) 11月 22日にこの世を去ります。
 法名を ゙威徳院殿班渓妙虎大姉" とおくられてここに葬り、姫を開基として 班渓寺 が建てられました。

 源義仲 の室として有名なのは、やはり 巴御前 だと思いますが、一説には 義高 の母を、巴御前 だとするものも
 あるそうです。

 
山吹姫の墓 木曽殿館跡
山吹姫の墓 木曽殿館跡
 一般のお墓に混じって、ひっそりと佇んでいます。
 夫を殺され、子にも会えずにこの地に生涯を終えた
 山吹姫 の悲しさが伝わります。
 
 班渓寺の裏にある 「木曽殿館跡」 です。
 この地は、義仲 の父 義賢 の下屋敷があったところで
 小枝御前 との間に久寿元年(1154年)に産まれた
 のが幼名 駒王丸 後の 義仲 でした。


大蔵館跡の大蔵神社
大蔵館跡に建つ大蔵神社

 鎌形八幡神社より北東の場所にある 「大蔵館跡(おおくらやかたあと)」 です。
 
 義仲の父 義賢(よしかた) が、仁平 3年(1153年)から久寿 2年(1155年)に住まった居館跡で、都幾川を望む台地
 上にあり、現存する遺構から推定すると、館の規模は東西約 170m、南北約 200m あまりあったと思われます。
 館のあった場所は現在、大蔵神社 として整備されていますが、周囲の土塁、またこの近辺の地名が ゙御所ヶ谷戸"
 及び ゙堀之内" と呼ばれているところから、その名残を感じることができます。
 
 義賢 は、源氏の棟梁 源為義(みなもとのためよし) の次男であり、帯脇先生(たてわきせんじょう)と称され、都から
 東国へ下り、東国の地にその武名を轟かせます。
 為義 の嫡男 義朝(よしとも:頼朝、義経の父)に代わって鎌倉にいる 義朝 の長子 義平(よしひら:頼朝、義経の兄)
 は、声望を高めつつある 義賢 に脅威を感じ、久寿 2年 8月 16日、突然、ここ 大蔵館 を襲撃します。

 襲撃の真相は、源氏の根拠地たる坂東の地での 義朝 の覇権の確立にあるものと思われますが、ここに 義賢 は
 討ち死にし、僅か 2歳になったばかりの 駒王丸(後の義仲)はかろうじて難を逃れます。
 しかし、義平 は、後々の禍根を絶つべく 駒王丸の捜索と殺害を、家臣 畠山重能(はたけやましげよし)に命じます。

 駒王丸 を見つけた 重能 でしたが、いたいけな幼子に哀れを感じ、友人である 斎藤別当実盛 と協議して、義朝、
 義平の家人の多い南関東の地での保護に危険を感じ、遠く信濃国の豪族 仲原兼遠(なかはらかねとお) に養育
 を頼みます。
 やがて、木曽の山中で逞しく育った源氏の御曹司は、 義仲 を名乗り、平氏を追い落とす活躍をする時代の風雲児
 となります。

  地図はこちらから → 地図(Map)
大蔵館跡の看板 義賢の墓
大蔵館跡の看板 義賢の墓
 大蔵館跡の看板です。
 看板の後ろには、土塁 が見えます。
 神社周囲を囲んでいる 土塁 はなかなか良い雰囲気
 でした。
 義賢の墓と伝えられている五輪塔です。
 都幾川沿いの民家の庭内に祀られています。
 五輪塔は欠損・損傷が著しく、県内でも最古の例に
 当るものだそうです。
 埼玉県指定史跡

〜 ken-you史跡巡り記 〜

    源(木曽)義仲 のゆかりの史跡は、車での移動時間 30分足らずの場所に集まっているので、散策も容易だと
    思います。
    こうやって見ますと、義仲 と武州の深いつながりを感じることが出来ますね。
    それにしても同族相食む源氏の怨念... 恐ろしいものがあります。



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