源平の写真
             平 忠度 と 岡部 六弥太


清心寺 入口
 清心寺 入口
 埼玉県深谷市の 「清心寺(せいしんじ)」 です。
 境内に ゙一の谷の戦い" で命を落とした 平忠度(たいらのただのり)の供養塔があります。 


 忠度 は、清盛の異母弟で官位は 薩摩守 を叙任し、藤原俊成(ふじわらのとしなり、しゅんぜい)に師事し、歌道
 に優れていました。 
 また、紀州熊野で生まれ育ったと云われており、武勇にも優れていて、頼朝討伐の ゙富士川の戦い" 、義仲討伐の
 ゙北陸遠征軍" など数々の戦いに出陣しますが、勢いに乗る源氏軍に敗れてしまいます。
 やがて、義仲入京の噂が囁かれるようになると、 ゙攻めるに易く守るに難い都" を捨てるという結論に達し、平家一門
 は慌ただしく都落ちをします。

 そんな中、 忠度 は歌の師である 俊成 の屋敷を訪ね、自らの秀歌百余首を書いた巻物を置いて行きます。
 その後姿は、 俊成 の目には、さぞ美しくも哀しいものに映ったことでしょう...
 俊成 はその頃、後白河法皇の命により、 「千載和歌集(せんざいわかしゅう)」 の勅撰を行っており、優れた門下生
 だった 忠度の歌を一首載せます。
   
「 さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな             〜 読み人知らず 〜 」

 平家は後白河法皇に敵対し、都落ちしたため、 俊成 がわざと作者の名を ゙読み人知らず" としたのでした。

 話を 平家都落ち まで戻します。 (^^;;
 都で 義仲 と 義経 が同族で争っている間に、平家は本拠地 ゙屋島" から、前進基地 ゙一の谷" を築き上げ、都奪還
 の機を窺っていました。
 やがて、 義仲 が敗れ、 義経 が都を制圧すると間もなくして、゙一の谷" を舞台に戦闘が開始されます。
 忠度 は搦手方面(須磨方面)を守備しますが、激闘僅かに四時間... 敗色が濃厚となった平家軍は、゙屋島" へ
 撤退を開始し、 忠度 も、゙屋島" へ撤退する船へ向かって駒を走らせますが、武蔵国の住人 岡部六弥太忠澄
 (おかべろくやたただずみ) に見つかってしまい、追いつかれてしまいます。
 二人は組み打ちますが、剛力な 忠度 にかえって 六弥太 が組み敷かれてしまい、主の危険を感じた郎党が背後
 から、 忠度 の右腕を斬り落とします。
 今はこれまで... と 忠度 は思い、砂上に静かに座り直し、その首を 六弥太 に斬らせたと云うことです。
 六弥太の問いに最後まで名を名乗らなかった 忠度 でしたが、箙(えびら:矢を入れる箱)の中に次の一首が入って
 いたことから、その名が分かったと云うことです。 
   
「 ゆき暮れて 木の下陰(したかげ)を 宿とせば 花やこよひの あるじならまし 」

 血生臭い戦場においても、歌の心を忘れない風雅な平家・・・。このような逸話の数々が ゙源平期" の魅力です。


 駐車場完備。

  地図はこちらから → 地図(Map)
平忠度 供養塔の遠景 供養塔
平忠度 供養塔の遠景 供養塔
 供養塔の遠景です。境内に入って、すぐ左手にあります。

 岡部六弥太 は 平忠度 の菩提を弔うため、領地の中で
 もっとも景色の良いこの地に供養塔を建てたと云うこと
 です。
 それから刻を経ること 330余年の天文18年(1549年)に
 深谷 上杉氏の宿老の 岡谷清英 の命で、この清心寺
 が開かれた そうです。

 供養塔です。

 右の挿話でも分かるように、岡部六弥太 は慈悲
 深い人だったと思われます。もしくは 忠度 の人
 柄に感じ入るところがあったのでしょうか?
 なお、境内には、紅白 2色の花弁が相重なり咲
 く桜があり、 ゙夫婦咲きの桜" 、また ゙忠度桜" と
 して有名だそうです。

岡部 六弥太 忠澄の墓
岡部 六弥太 忠澄の墓
 埼玉県大里郡岡部町の 「岡部六弥太忠澄(おかべろくやたただずみ)の墓」です。

 岡部氏は、武蔵七党のひとつ 猪俣党 の出身で、六弥太忠澄 の祖父 六太夫忠綱(ろくたゆうただつな)が岡部の地に
 住したことから、岡部氏 を称するようになりました。
 余談ですが、この武蔵七党は、猪俣党、横山党、児玉党、西党、丹党、野与党、村山党、綴党、私市党の 9党が存在
 するようで、諸書において一致しないとのことです。 (^^)

 岡部六弥太 は、源義朝(みなもとのよしとも:源頼朝の父)の家臣として保元・平治の各乱に活躍をしましたが、「平治
 の乱」 において 義朝が 平清盛 に敗れ、源氏が没落すると故郷 岡部の地にて逼塞していました。
 その後、平氏の栄華は約 20年間続きますが、頼朝 が伊豆で挙兵するや 岡部六弥太 も参陣し、はじめ 源(木曽)
 義仲 を追討し、続いて先に述べた 「一の谷の戦い」 において、平忠度 を討ち取り、一躍名を挙げます。
 恩賞として、荘園 五ヶ所と伊勢国の地頭職が与えられ、 忠度 の供養塔は、この領地の中でもっとも景色の良い地を
 選んで建てられました。
 
 また、奥州の藤原征討軍や 頼朝上洛の際の譜代の家人 313人の中にも 岡部六弥太 の名が見受けられるそうです。
 
 
 ここには、鎌倉時代の典型的な五輪塔が 6基並んで建っており、北側(写真では右側)の 3基のうち中央のもっとも
 大きいのが 六弥太 、その右側が父 行忠(ゆきただ)、左側が 六弥太の妻 ゙玉の井" のそれぞれ墓だと云われて
 おります。
 六弥太 の墓石の粉を煎じて飲むと、子のない女子には子ができ、乳の出ない女子には乳が出る という迷信が
 伝わっており、五輪塔は削られ変形をしているそうです。 (残念ながらはっきりと確認はできませんでした)


 県指定史跡


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