114. 輸出許可申請
 12月24日 岩石試料を日本に発送するため、フライングコーチでラーワルピンディに移動(70ルピー)し、タクシーに乗り換えて(70ルピー)イスラマバードの Lodging Guest House にチェックインしました(一泊450ルピー)。当時のイスラマバードには手頃な値段のホテルが少なくて、特に官庁街に近いところは高級ホテルばかりでした。ラーワルピンディなら安宿がたくさんありますが、そこからイスラマの役所に通うのは不便です。私より先にパンジャーブ大学に来ていた日本人留学生のYさんのお薦めに従って、官庁街にアクセスしやすい宿に入れました。この日に、Yさんの紹介で東京外語大教授のA先生と、A先生が指導している院生のMさんとお会いし、会食することになりました。文系の学者とお話しする機会はそれほど多くなかったのですが、A先生はこれぞ「文化人」というような雰囲気を纏った方でした。

 12月25日 在イスラマバード日本大使館に出向きます。大使館員のTさんを通して文化担当のお二人と面会できることになっていました。そのNさん、Iさんとお会いし、「岩石試料を輸出できなければ、パキスタンに来て行なった調査が無駄になってしまう。」と説明したところ、日本大使館から「輸出許可を出すよう関係機関に要請する」旨の文書を発行してもらえることになりました。これで一歩前進です。

 12月26日 ラーワルピンディのトランクバザールに出かけました。日本に帰国する時の荷物を入れるスーツケースを手に入れるのが目的です。バザールの店を覗いて回り、以前にアタッシェケースを買ったのと同じ店で、そのアタッシェケースと同色(グレー)のものを購入しました。対角線が30インチで、小柄な人なら入れそうな大きさです。車輪も付いていて1375ルピー(1万円弱)でした。ブランドはSamsoniteで、ケースの中には黒地に赤い文字が一字ずつ書かれた四角いシールが9枚一つなぎで入っています。シールをケースの側面に貼り付けると"Samsonite"になります。そのシールの"o"にあたる文字は、花びら4枚が丸く繋がったようなデザインになっていてサムソナイトのロゴマークと同じです。このスーツケースは、現在は研究室の片隅にあって「とりあえず使わない物を入れておく箱」になっています。

 12月27日 午前11時に日本大使館に出向いて、輸出許可の要請文書を受け取りました。その足で Export Promotion Bureau に移動して「岩石試料の輸出を申請したい。」と申し出ると、窓口の担当者は、しばらく書類を眺めた後で、「この種の申請はここではなくて、Chief Controller of Import and Export(輸出入管理局)で受け付ける。」と言います。どうやら、Export Promotion Bureau は主に「製品」の輸出申請を扱っているらしくて、学術目的の申請は管轄外ということのようです。担当者は申請先への行き方と担当者の名前を教えてくれました。そこに移動して輸出許可申請書と日本大使館発行の協力要請文書を提出しました。窓口の担当者によると、「許可書は2日後に発行される」とのことでした。この日の夜にA先生の紹介で、Yさんといっしょに当時の在パキスタン日本大使と面会することになりました。大使は日本政府を代表している要人です。実際にお目にかかる際にはかなり緊張しましたが、私のような若輩者の調査活動にも理解があることを確認できました。

 12月28日 「許可待ち」のためやることがなくて、ブラブラと無為に過ごしました。


115. 岩石試料を発送
 12月29日 午前11時30分に輸出入管理局に出向いて岩石試料の「輸出許可証」を取得しました(下の画像)。そのまま Express Movers に移動し、その日の午後2時に荷物を引き渡すことにが決まりました。岩石試料はTさん宅に預けていたので、そちらに移動して待機します。そこに Express Movers の小型トラックが来て、私は荷物といっしょに運ばれます。 Express Movers の倉庫のような場所で降ろされると、そこに数人の作業員が待ち構えていて、すぐに荷造りが行われます。作業員は、荷物の量と重さを見定めると、厚さが 2.5 cm くらいの木材を組み合せて釘と鎹(かすがい)を打ち付けて箱を作りました。箱は縦、横、高さがそれぞれ 1 m くらいの大きさです。その箱に岩石試料を詰め込むと、板で蓋をして釘で固定しました。その状態で総重量を計って事務担当者に報告します。私はマネージャーの部屋に招き入れられて、そこで契約書にサインし、料金 22220 ルピー(16万円弱)を現金で支払いました。再び車に乗せられて荷物と共に空港に移動し、税関の事務所らしき建物に入りました。そこで税関職員に荷物とその輸出許可証を提示します。税関職員は作業員に箱の蓋を開けさせて中身が岩石であることを確認すると、再び蓋を閉じさせて封印しました。これで通関手続きは完了です。高い料金を払っただけあって、すべての処理が速やかに行われます。箱は東京行きの便に積まれる予定ですが、どの便になるかは未定だそうです。




 12月30日 予定の作業を終えたので、フライングコーチでラーホールに戻りました。

 12月31日 文部省学術国際局に帰国旅費支給を申請する手紙を書いて発送しました。地質調査を終えて岩石試料を発送してしまったら、私の留学目的は達成されています。当時の大学の規則では、連続して一年を超えて海外に出かけていると、たとえ「留学」であっても休学の手続きが必要でした。休学してしまうと在学期間に算入されないので、最短年限の3年間では大学院の博士課程を修了できません。要するに留年です。私は修士課程で留年しているので、さらに一年の留年確定は避けたいところでした。博士課程での留年を回避するには3月27日までに帰国しなければなりません。それで、日本に戻る準備を始めました。この日の午後3時過ぎに、Tさんとその友人が学生寮の私の部屋まで訪ねてきてくれました。私が大変お世話になっている大使館員のTさんは、ラーホールにしばらく滞在してウルドゥ語の個人レッスンを受けるのだそうです。


116. 印パ国境
 1991年1月1日 インドとパキスタン国境の門前で行われる衛兵の儀式を見に行きます。ちなみに、パキスタンには西暦の元日を祝う習慣はありません。ラーホールの市街地から東に約 25 km のワガ(Wahga)という所をパキスタンとインドの国境が通過しています。この国境はイギリスが植民地として支配していたインドを放棄して撤収するときに、イスラム教徒が多数派の地域とヒンドゥ教徒が多数派の地域がそれぞれ別の国家となるために人為的に設定されたものです。北部のカシミール地方には広大な係争地があって、国境線が確定していません。パキスタンとインドは建国直後からカシミール地方の帰属や東パキスタンの独立(バングラデシュ建国)に関わって戦争が継続していて、一時的に停戦している状態です。

 夜明け前の4時半ごろ、Oさん(民間企業のラーホール駐在員)が手配したワゴン車に便乗ししてラーホールからグランドトランクロードを東に進みます。1時間くらい走って上空が明るくなり始めたころに、国境近くの丘の麓で下車します。徒歩で丘の上に登ると境界を示す杭が並び、杭の間には有刺鉄線が張られています。杭と有刺鉄線は粗末なもので、簡単にくぐり抜けられそうでした(下の画像)が、試してみる勇気はありませんでした。これより先は盆地状の草原になっていて、まだ薄暗くて確認できませんでしたが、草原の向こうのインド側にも同じような境界杭があるはずです。草原はどちら側からも進入を認めない緩衝地帯のようでした。現在のワガ近辺にはこのような緩衝地帯は無いようです。



 車に戻って数分走ると国境の検問所に着きます。検問所では日の出と共に国旗を掲揚する儀式が行われます。ます、ラッパの合図が鳴ると検問所の建物から数人の大柄な衛兵が出てきて整列します。衛兵は正装の軍服を着て、飾り付きの帽子を被っています。中央の人は両手に国旗を捧げ持っています。国旗が支柱につながるロープに固定されると、ロープの反対側がゆっくりと引かれます。国旗は支柱の頂点に向かって、直角三角形の斜辺に添うように斜めに揚がっていきます。国旗が高く翻るようになると、二人の衛兵が進み出てインド側に向かって行進します。足を前に高く振り上げる独特の歩き方です。




 同じような儀式がインド側でも同時進行しています。国境線を挟んでパキスタン側、インド側それぞれに大きな門があり、どちらも閉まっています。衛兵は門の直前まで進み、同じように行進してきたインド側の衛兵と向き合って、数秒間睨み合うような形になります。彼らが向きを変えて戻ってくると、儀式を見物していた人々が門の近くに駆け寄ります。同様にインド側の門にも人が集まってきます。集まった人達は、二つの門を挟んで対面しますが、会話はありません。話をしてはいけないようです。下の画像でインド側の赤い門扉とパキスタン側の緑の門扉の間にいる人物は検問所の職員です。一般の人はそこには入れません。




 数分間の無言の対面の後、この人達は門から離れていきます。当時はインドとパキスタンの国境は完全に閉鎖されていて、ここワガの検問所でも一般市民が国境を往来することはできませんでした。パスポートとビザがあってもダメです。元々同じ村に住んでいた親族に会うためには飛行機で移動するしかありません。現地の人々にはほぼ不可能です。それで、国旗掲揚の儀式直後に「開かずの門」に集まって姿を見せ合うのだそうです。ここでは、昨日までせっせと耕して種をまいていた自分の畑が今日から「外国」というようなこともあったでしょう。日本に生まれて育てば、外国は全て「海外」です。私はそれまで陸上の国境を意識することはありませんでしたが、鉄の門を挟んだ「無言の対面」の様子はいまだに明瞭に記憶しています。私が見たのは国旗掲揚の儀式でしたが、日没時には国旗を降納する儀式が行われるそうです。国旗降納の儀式は演技の要素が大きくなり、「フラッグセレモニー」として有名になって、大勢の見物客が詰めかけているようです。



...つづく

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