「記憶」


白月碧空


 


 朝起きると、あたしはいつも彼の部屋に行く。

 日の当たる白い廊下をあたしはお気に入りの子供の頃

から使っている青色の毛布を抱えながらゆっくりと歩く。

まるで、あの子……。

 えっと…。確か、ピーナッツに登場するスヌーピーの

飼い主じゃなくて、飼い主の友達? 友達の弟だったか

な? 名前が思い出せない…。

 たしか、飼い主の妹の好きな人で、頭がよくてグレー

トパンプキンを信仰している。

 どうでもいいことだけ覚えている。

 とりあえず、まるでその子のようだと思った。

 その時同時に、彼ならきっとすぐにその子の名前を言

えたのだろうなぁと、思った。

 廊下をまっすぐ行くと突き当たりの部屋が彼の部屋だ。

そして、壁と同じ白色の扉を開けると、…誰もいなかっ

た。部屋の中にはきちんと整えられているベットと壁に

すき間なく貼られている沢山の写真だけがあった。

 

 

「近頃記憶がダメみたいだ」

と、彼はあたしに言った。あたしはその時床の上に座っ

て本を読んでいた。あたしは、彼の声がする方をそっと

見上げた。彼

は扉にもたれ掛かって立っていた。

「ダメみたいだ。本当に…」

と、彼はその言葉を吐き出すように言った。彼の顔を覗

くと彼は泣きそうな顔をしていた。

「昔覚えてたことも、もう思い出せないんだ。俺、もう

ダメなんだ」

 彼は、そう言うと扉にもたれ掛かったまま床に座った。

 あたしは、彼の顔をじっと見つめていた。

 彼は、昔から記憶力がよかったそうだ。異常によかっ

たそうだ。

 普通の人が絶対覚えてないような、母親のおなかの中

にいる記憶から、彼が生きている間の細かいこと、他の

人の言った言葉や物の配置、本の内容などを全て覚えて

いた。

 あたしは、初めて彼からその能力のことを聞いた時、

それがとても良い能力だと思った。だが、あたしがそう

言うと彼は淋しそうな顔をしてこう言った。

「そんなものじゃないですよ」

 その時、あたしは彼がなぜそんなことを言ったか分か

らなかった。でも、彼と一緒に過ごしている間にその理

由が分かった。

 彼は辛いのだ。いつまでも何も忘れられないことが。

 彼だって生きている間に悲しいことや辛いことがたく

さんあるはずだ。そんなことを忘れることができないの

は絶対に辛い。それは自分の人生で永遠に苦しい思いを

引きずることだから。

 誰だってそのことは堪えられない。彼だって例外では

ないはずだ。

「どういうこと? 記憶がなくなっているの?」

と、あたしは扉にもたれ掛かっている彼に言った。彼は、

ゆっくりと首を縦に振った。

「いつからなの?」

と、あたしは彼の手を握り彼の目を見て言った。まっす

ぐ見ると、彼の黒い瞳の中に映っているあたしが見えた。

「いつからかは、よく分かんない。でも、これに初めて

気付いたのは一年ぐらい前のことだった。覚えているは

ずのことがまったく思い出せない。そう気付いた。それ

から、ゆっくりと、でも確実に昔のことからどんどん記

憶がなくなっていったんだ」

「どうして、もっと早く言ってくれなかったの?」

と、あたしが言うと、彼はすまなさそうに言った。

「心配かけたくなかったから。それに、いつかはこれが

止まって記憶も取り戻せると思いたかったから」

 あたしは彼の手を少し強く握った

「でも、俺に残されてるのはもうここ数年の君と出会っ

てからの記憶だけだから。これをなくす前にどうしても

言わなくちゃいけないと、思った」

 それっきり彼は黙ってしまった。あたしは、彼の手を

握ったまま彼を見た。あたしより背が高いし、あたしよ

りも年上なのに、彼はあたしより小さな子供のように見

えた。

「大丈夫だよ」

と、あたしは呟いた。彼はその言葉が聞き取れなかった

ようでこっちを見た。

「大丈夫だよ」

 彼は不思議そうにこっちを見ている。

 何が大丈夫なんだろう? 自分で呟いているのにあた

しはなぜこんなことを言ってるのか分からなかった。た

だ、彼を安心させてあげたかった。

 大丈夫――、何も大丈夫じゃないはずなのに…。

「大丈夫だよ。失わせないから」

 あたしが守ってあげるよ。

 

 

 誰もいない空っぽのベットにあたしは座った。

 彼は、時々朝に一人で散歩に出かけるから、ここで待

っていようと思ったのだ。

 まわりの壁にある写真は、あたしが半年前、彼にあの

ことを告げられた日から貼り付けたものだ。彼の記憶を

忘れさせないようには、どうするべきかを考えた結果、

あたしはそれらを貼っていった。

 彼は、あたしと出会うまではまったく写真を撮らなか

ったそうだ。それもそうだと思う。だって彼の記憶は完

璧だったから。記憶を留めておくような物は必要ではな

かったのだ。だから、壁に貼られているのは全てあたし

と出会ってからの物である。

 壁の写真をぼーっと眺めていると、ふとあたしは違和

感を感じた。何かが違うような気がする。写真を貼る時、

あたしはこれからも沢山写真を貼れるようにとつめて貼

っていた。 そう、つめて貼っていたはずだ。だから、

さっきもすき間なく写真が貼られていると思ったのだ。

 でも、壁の写真は虫食いのように何枚かが抜けていた。

 何かが突然あたしの心に現れた。

 それは、漠然とした不安だった。

 あたしは、すぐにベットから立ち上がり、彼の部屋か

ら出て廊下を玄関に向かって走った。

 

 

「ねえ、君は記憶をなくした人は、元のその人と同一人

物であると思う?」

と、彼があたしに尋ねたのはいつのことだっただろう

か? よく覚えていない。

 あたしは、夕食の後片づけをしていた。

「え? どういうこと?」

と、あたしは彼に背を向けたまま尋ねた。

「つまり、例えば俺の記憶が完全になくなったとしたら

君は俺を俺だと思う?」

「そうね…。どうかな。よく分かんないわ」

と、あたしは正直に答えた。

「俺はな。俺は、もし記憶を完全になくしているならば

その人はその人であるとは認められないと思う。だって、

記憶はその人の足跡だろ。今まで生きてきた証だろ。い

くら姿形が一緒でも、中身はないってことになるよな。

中身がなけりゃ、その人はその人であるはずないんだよ」

と、彼は言った。あたしはお皿を洗いながら彼の言葉を

聞いていた。

「でもそう考えるなら、あたしや他の人は不完全だけど、

あなたはずっと完全にあなたであるよね。だってあなた

の記憶は常に完璧なんだから」

と、あたしは最後の一枚を洗いながら言った。

「そうだな」

と、彼は言った。あたしは彼に背を向けていたので、そ

の時の彼の表情がどんなのだったか知らなかった。でも、

彼はもしかしたら悲しくて泣きそうな顔をしていたのか

もしれないと私は思う。

 

 

 玄関に着くと、あたしは外に出るためにドアを開けよ

うとした。その時に、その扉にセロハンテープで貼って

ある二つ折りにした紙を見つけた。

 あたしはそれを外して中身を見た。

『ありがとう』

と、短い言葉が一つ、そこに彼の几帳面な字で書いてあ

った。

 目の前がぼやけてきて、あたしの目から一粒そしても

う一粒と涙が落ちた。

「ねえ、どうしてなの?」

と、あたしは呟いた。だが、返事はどこからも返ってこ

なかった。

 彼がいなくなってから、あたしはずっと泣いていた。

ずっと、ずっと。でも、いつのまにかあたしの目から流

れる涙はなくなっていた。そして、その時に一つのこと

を心に決めた。あたしは彼を捜し出そうと。

 彼がいなくなったのは、自分でなくなっている自分を

これ以上あたしに見せたくなかったからだろうか? そ

れとも、あたしがこれ以上そんな彼を見たくないのだと

彼が思ったからだろうか? あたしには、彼と一緒に過

ごしてきたけどその理由は分からなかった。

 でも、記憶のなくなっていく彼を見ていることで、あ

たしには一つだけ分かったことがあった。

 それは、記憶という物はその人の足跡であるし、その

人の生きてきた証でもあるが、それだけでその人の全て

ができているわけではないということだ。

 その人が記憶することで得た体や心にいつのまにか付

いている印。印という記憶よりももっと深くにあるその

人の本質と呼ぶべき物もその人を形作る一部なのだろう

と、あたしは思う。

 本質は残るのだから、別に記憶をなくしたって彼は彼

だ。他の何者でもない。あたしは今そう理解している。

 あたしはもう一度彼に出会えるのだろうか?

 彼は、その時にあたしと会ったことを喜ぶだろうか?

 あたしと彼はもう一度一緒にいられるだろうか?

 何も分からない。答えは全て彼と会ったときに出る。

その答えがどう出ようとあたしには関係ないし、興味も

ない。あたしは、ただ彼に会いたいのだ。

 あたしは会って最初に、彼に「ありがとう」と言って

あげたい。彼が、何もしてあげられなかったあたしに残

してくれた言葉を、今度はあたしから彼に言ってあげた

い。

 そして、いつだかに彼がした質問に対してのあたしの

出した答えを伝えるのだ。

 

「俺の記憶が完全になくなったとしたら君は俺を俺だと

思う?」

 にっこりと微笑みながらあたしは言う。

 彼の目を見つめて。

 彼の姿をとらえて。

 

「あなたは、いつだってあなたよ」 


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