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君に捧げる鎮魂歌
津月凍夜
男は玄関で靴を履いていた。 四月から通っている大学は順調。バイト先でも友人が 出来、彼女もいる。何一つ不満の無い、平凡だが幸せな 毎日だった。 あの葉書が来るまでは――。 「何だ…?」 小さなポストの中には一枚の黄ばんだ葉書。宛先は男 の住んでいるアパート、宛名も男の名だ。だが、差出人 の名前が無い。 裏を返して、男は思わず顔を顰めた。 そこには、殴り書きで『死ネ』の一言。 その奇妙さに、男は正直動揺し、恐怖した。 朝から嫌な物を見てしまった。早く大学に行って、こ の葉書のことを頭から追い出してしまおうと、男はアパ ートの階段を降りる足を早めた。 『死ネ』 またもや殴り書きの葉書一杯の文字。二日目ともなれ ば、恐怖より先に怒りを覚える。 昼休み、食堂で男は葉書を見直した。何処かで見覚え のあるような気もするが、毛筆など、誰が書いても似か 寄るものだ。小学校のときに、書道教室に通っていた男 自身が言うのだから、間違いは無い。 ぐしゃり、と葉書を丸めて脇に置き、男は目の前のラ ーメンに集中することにした。 「…その葉書、何?」 頭上から降って来る声に、男は顔を上げた。 「真衣子、か」 つい一ヶ月前から付き合い始めた、男の恋人。よく知 っている、明るく可愛い表情がそこにはあった。 真衣子は好奇心の強い女だ。なかなか引き下がらない こともよく分かっている。この葉書のことも話さなくて はならないと、男はため息をついた。 ――一通り話し終わる。「へえ」と一言、真衣子は口に した。その後に、「誰かに恨まれるようなことしてない? 夜道は気をつけてよ」 男は呆れ顔で首を横に振った。 全く、本当に――。 『死ネ』…そのたった二文字が踊る葉書は来る日も来 る日も続いた。一日一通、必ず。直接ポストに入れてい るのか、切手も消印も無い。 自分の知らない間に、誰かが部屋まで来て、ポストに 葉書を入れて行く。葉書の内容が内容だけに、想像する と気分が悪くなる。 警察に届けるべきだろうかと考えるが、すぐに考え直 した。 たちの悪い悪戯。それ以外の何者でもない。実害はま だ無いし、男も心の底ではそう思っている。否、そうで あって欲しい。 何、いつかは終わる。いつか終わるさ。 不安は心中の奥深くに押し込んだ。 また、朝が来た。 ポストを開けると、見慣れた黄ばんだ葉書。相も変わ らず、差出人の名前、切手が欠落している。 「また、か」 最初に葉書が届いて、もう二週間になる。休む事なく 送られて来る一単語のメッセージ。 葉書を裏返し、男は眉を寄せた。 いつもと違う。小さな封筒がセロハンテープで添付さ れていて、『死ネ』の文字も無い。 封筒を葉書から外し、開けてみる。震える指。新たな 奇妙さに、恐怖が再び湧き上がる。 中身を見て、男は驚愕し、戦慄した。 カラン、と鋭い金属音を立て、それは震える男の手か ら落ちた。続いて、一枚の紙がアパートの廊下に落ちる。 折りたたみ式のナイフ。そして、紙からはみ出るほど 大きく書かれた真っ赤な例の二文字。 男は膝から崩れ落ちた。 見えない殺意が、手紙から伝わってくるような気がし て。 あまりの動揺の為、最早警察に連絡することすら忘れ ていた。 それでも、恋人に心配を掛けまいと、大学にはきちん と顔を出したが、気が気では無い。 ある日の帰り道。闇の中には白く光る月。 気を紛らわせる為に、男は携帯でメールをしつつ、帰 路を急いだ。 『俺、もう休憩終わるから。一旦電源切るわ。またメー ルするな。』 バイト仲間とのメールの遣り取りはそこでお終い。男 はため息をついた。途端に、寂寥感が込み上げて来る。 目の前に広がるのは漆黒の闇へと続くかのような、人一 人いない道。 びくびくとしながら歩いていると、突然、携帯の着信 音が鳴った。 肩を震わせ、恐る恐るメールを見てみる。 そこで、男の足は動かなくなった。 『死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ 死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ 死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ死ネ……………』 無意識に、ポケットの中のナイフに手が伸びる。例の、 送られて来た折りたたみ式のナイフだ。いざという時の ために、いつも持ち歩いている。 ――やられる前にやらねばならない。 ナイフをポケットから取り出し、開いて構えた。先刻 から、人の気配がするのだ。すぐ近くにいる。 耳元に響く、息遣い。そして声。 「死ネ」 男は振り返り、ナイフを高く掲げ、力一杯に振り下ろ した。ぐしゃ、という肉を裂く音が耳に入るが気にしな い。何回も、何回も、何回も何回も何かに憑かれたよう に、男はナイフを振り下ろし続けた。血飛沫でその刃が 赤く染まっても、自分の頬が血に濡れても。 元が人間であったかさえ危うい真っ赤な肉塊は、ぐち ゃり、と男の足元に倒れた。赤い飛沫が男のズボンと靴 を濡らしたが、男は構わず、凄惨な光景に背を向け一目 散に自宅へと走り出した。 頭の中は真っ白。彼は生まれて初めて、人を殺した。 次の日、男は大学に行く気力が無かった。何せ、人を 殺したのだ。 無気力な腕でテレビのスイッチを入れる。 『昨日、午後八時に十分ごろ、高村真衣子さん――十九 歳、が遺体となって発見されました。警察は…』 たかむら、…まいこ? 男はテレビに喰らいついた。恋人の名前だ。 映し出された事件現場の映像に、鼓動が早まる。知っ ている。昨日、初めて人を殺した――。 冷水を被ったように、目が冴えていく。 慌ててポストを覗き込むと、一通の手紙。 部屋の中に入り、ドアに鍵を掛けた。手紙の差出人は 恋人、高村真衣子。 『この手紙を君が読んでいる時には、私はもう死んでい ると思います。だから、ここで謝罪をしたいと思います。 君に送られて来るあの葉書の差出人はわたしです。ごめ んなさい。 何故そんな事をしたかというと、君に殺して貰う為で す。わたしはどうしても死ななくちゃいけなかったから。 実は私は重い病気で、ずっと病院のお世話になってい ました。でもわたしの家はそんなにお金持ちじゃないし、 お父さんはこの前リストラに遭ってしまいました。だか ら、金食い虫の私は死ななくてはいけません。 でも自殺じゃお父さんが自分を責めてしまうから。ど うせなら、愛する人の手で死にたいなって。 でも君の人生を狂わせることになってしまって、本当 にごめんなさい。ありがとう――。』 男の手から手紙が落ちた。 ドアの向こうでは、警察官がチャイムを鳴らす――。 ―終― |