雪の陰
紫水菜緒
ただ白い雪の舞う日、赤い血が雪の上に流れた。
何の変哲のない日赤い血が流れた。
どうしようもなく流れた。
赤い染みの端の方は黒く見えた。血が乾いてきたので
あろう。
白い雪の上に広がる赤と黒の染み。
どうしてだろう生まれてくる子がこの雪のように白く
血のように赤く、黒いことを願ったのは。
ただはらはらと白く降る雪がそれを覆い隠して行く。
それは一枚の絵のように見えた。
醜悪でかつ美しかった……。
ヴィディア大陸の北方に位置するカリア王国。一年の
半分を雪で覆われるこの国には短い夏が訪れていた。こ
の時を待っていたかのように花は咲き乱れ豪華絢爛を競
い、鳥は歌う。木々には若々しい新芽が芽吹き生命の息
づきを感じる。人々は活気付き短い夏を謳歌する。
「至上の夏」そう称されるほどカリアの夏は美しい。
その至上の夏の風景をガタガタと馬車に揺られながら
窓から見つめる少女がいる。年の頃は十六、七であろう
か質素なドレスを身に纏っている。名を垂という。
ガタッ
馬車が止まった。
「着きましたよ、ここが王宮です」
御者が後ろを振り返って言う。
やっと着いた。
この馬車ははっきり言わなくてもボロである。なので、
非常に良く揺れる。椅子も硬い。お尻はズキズキと痛い。
この馬車から解放されるだけでかなり嬉しい。
外を見ると王宮が堂々と建っていた。
垂はここに働きにやって来たのだ。
カリア王国には名から分かるように王がいる。王には
妃が一人と、王女が一人いる。ただし、王女は王と妃の
間にできた子ではなく王と先王妃の子だ。先王妃は産後
の肥立ちが悪く一ヶ月と経たずに逝去した。高齢であっ
たことも原因だったかもしれない。王はその後誰も王妃
つまり正妃にはしなかった。今なお王妃の位は空位であ
る。
垂は妃の下で働くことになっている。今、妃にあいさ
つをしに向かっているところだ。
垂は貴族の出である。貴族と言ってもほとんど家名は
絶えかけている貧乏貴族だが……。
貴族の娘が王宮で働くのは何も珍しいことではない。
王家の者と近づきになれることは貴族にとっていろいろ
と良いことだし、また名誉なことでもある。
しかし、それは王や王妃、王女の側にいれてこそ意味
がある。もちろん垂のような貧乏貴族にはそんな役は回
ってはこない。貴族でなくてもできる仕事をすることに
なっている。台所の灰集めなどだ。貧乏とは言え貴族は
貴族だ。こんな仕事をする貴族は皆無に等しい。しかし、
灰まみれになってでも働きたいと思う……それだけ垂の
家は貧窮しているのだ。
案内して役の人が立派なドアの前で止まった。
「着きましたよ。この先です。くれぐれも粗相のないよ
うに」
そう言ってからドアを開ける。
あいさつなんてしても、どうせほとんど会う機会なん
てないのに……。垂はそう思いながらドアの中へ進んで
行った。
部屋の中には金糸銀糸を縫い込んだドレスを纏い精巧
な金銀細工の装飾品を身に付けた女がいる。金銀宝石を
身に付けながら、決して派手な感じはせずむしろ品の良
い女性それが妃である。まだ若く美しかった。
「この子が新しく来た子ですね」
「ええ、そうです」
案内役の人と会話をしている。
「名はなんと言うのです?」
妃がこっちを向いて話し掛ける。
「垂と申します。王妃様」
とたんに妃の顔が険しくなる。
「現在、王妃の位は空位ですが……」
しまった。なんとか取り繕わないと!
「で、でも今お妃様はあなた以外にいらっしゃられませ
んし、お妃様のお力は並ぶものがいないと……」
言ってから気付いた。完全に墓穴を掘った。
先王妃が逝去したとき王には数人の妃がいた。しかし、
今は一人だ。他の妃はみんななんらかの事故で死んでい
る。この妃が殺したと言う噂が飛び交っている。そんな
噂が流れていたから王はこの妃を王妃にしなかったとい
う噂まである。先王妃の若い頃に良く似ていて、王の寵
愛厚く、王宮で絶対の権力を持つ妃を……。
つまり、垂は他の妃を殺したのはあなただと言ったこ
とになる。ここで首を刎ねられてもおかしくないこと言
ったのだ。
「気に入りました。これからあなたには私の侍女をや
ってもらいます」
「は?」
「だから、気に入ったと言っているのです。私に面と向
かってそのようなことを言ったのはあなたが初めてです
からね」
陰でこそこそと言う輩は掃いて捨てるほどいましたけ
れどね、と妃が意味ありげに視線を泳がすとびくりと案
内役が身を震わせる。
この人もその輩の一人なのだろう。
「しかし、私のような不出来なものがお妃様のお側にお
仕え申し上げるなんて……」
それにさっきのこともそんなつもりで言ったことでは
ないし。こんなところで妃に近づいたりして他の貴族か
ら恨まれるなんてまっぴらだ。特に垂のような貧乏貴族
では他の貴族に圧力をかけられて家を取り潰されるかも
しれない。ここは引くのが得策といえよう。
「口答えするのですか?」
しかし、妃はよくあるようにプライドの高い人だった。
「家の事は心配する必要がないようにしましょう……
垂」
「はい」
「あなたの家は貧窮していると聞きます」
知っているのだこの人は垂の家のことを……当然と言
えば当然だが。
「もしあなたが私の侍女になると言うならあなたの家に
援助をしましょう」
援助、その言葉に垂はぴくりと反応する。貧窮してい
る垂には喉から手が出るほど欲しい物だ。そしてまた、
この妃は拒否すれば垂の家を取り潰すと言っているのだ。
分かっていて言うのだこの人は。垂に断れるわけがない。
「喜んでお受けします……」
「そう言うと思いました。聡い子は好きです」
妃は目を細めて笑う。
妃はただプライドが高いだけではない。有無を言わさ
ずに人を従える力……それをこの妃は持っている。
例えるなら短剣。普段は見せびらかされることなく、
しまわれいざという時に使われる剣……そんな鋭い美し
さを垂は感じていた。
「では、ここがこれからあなたの部屋になります」
垂は予想以外にいい部屋を貰った。ふかふかのベッド、
品の良い家具。もっとボロいよく言えば質素な屋根裏部
屋か何かを想像していたのだが。垂の自宅の部屋よりも
良い。
妃付きの侍女なのだから当然なんだ……。
でも、もしこの部屋が新入りの垂に相応しく一番質素
な部屋だとしたら……。
少し淋しい気持ちになる垂だった。
この国の王女様の私室はもっとすごい部屋なんだろう。
どんな部屋だろう? きっとベッドには天蓋なんか付い
ていたりするんだ、そして王女にはそれが当たり前で…
…。
止めよう虚しくなってきた。別に豪華な部屋が欲しい
わけでもないのだが。
そういえばと垂は思い出す。今日仕事を覚えるために
妃に付いて城の中を付いて回っている時王女にあった。
くるくると変わる表情、愛らしい笑顔、誰もが愛さず
にはいられないそんな愛らしい王女だった。
王女は母である王妃に似ているらしい。妃は王妃に似
ていたので、王女と妃は似ている。
王女についてこんな話がある。王女がお腹の中にいる
ときのある雪の降る日王妃は黒い黒檀の窓辺で縫い物を
していた。王妃が雪を見上げた時針で指を刺してしまい、
血が三滴雪の上に落ちた。それを見て「雪のように白く
血のように赤く黒檀のように黒い子が欲しい」と王妃は
言った。
生まれてきた子は白い肌を持ち頬は血のように赤く髪
は黒檀のように黒い、美しい子だった。
なので王女は白雪姫と呼ばれている。
王女は生まれてすぐ母である王妃を亡くしたため妃
の下で育てられた。二人の仲はあまり良くないと言う。
その通りだった。
王女は妃をお母様と呼んではいるものの、二人の間に
は冷たいものがあった。それは憎しみではなく違う何か、
憎しみよりも冷たいものがあった。
夜になると垂は城の中を歩き回ってみたくなった。思
いついたら速実行型の垂は部屋をすぐに出て歩き始めた。
城の廊下は人気がなく静まりかえっていた。
どこへ行くともなくぶらぶら歩いていると窓から庭が
見えた。庭はこうこうとした月の光に照らされていた。
庭の池は月と星を映しもう一つの宇宙を作り出していた。
「今日は満月なんだ……」
しばらくぼんやりと垂はその風景を眺めていた。
「何をしているのです?」
後ろから声が聞こえた。
「え?」
垂が振り向くと妃が立っていた。
「お、お妃様」
まさか妃が立っているとは思わなかったので垂は焦る。
「垂でしたか……。何をしているのです?」
「少し散歩していて、この庭が美しいので眺めておりま
した」
「そうですか」
妃も庭を見つめる。
「垂」
「はい、お妃様」
「これから私のことはそう呼ばずに雪華と呼びなさい」
雪華それは妃の名である。
「はい……でもそれは」
王や妃の名はよほど親しい人しか呼ぶのを許されはし
ない。
「いいのです。私は妃と呼ばれるのが嫌いです。妃と呼
ばれる度に王妃ではないこと、決して正妃になれないこ
とを突きつけられている気になりますから……」
そう言って月に照らされて微笑む雪華はそのまま月の
光に溶けてしまいそうだった。
「冬になり雪がこの庭に積もるとそれは美しく見えるの
でしょうね雪華様」
しばらくの沈黙の後垂が口を開く。
雪が積もり、それが月に照らされて銀色に光るそんな
風景を考えるのはそれだけで楽しかった。
「いいえ、この庭よりもっと広いところ……そう森など
に雪が降り積もったほうがもっと美しい」
雪華はそう言って目を閉じる。一面の銀世界が見える
ようであった。
「雪華様はどこかの森に冬行ったことがおありなのでし
ょうか?」
「え、ええまあ」
そう言って雪華は曖昧に笑う。
昼に見た短剣のような雪華と今の雪華どちらが本当な
のだろうか? 馬鹿らしい。垂は思う。きっとどちらも
本物なのだ。
もし、垂は思う、どちらも偽者だとしたら……?
空には月。
ただ、月だけが見ていた。
《続く》