天使の夢
白粋翼
夜の街の静けさは、美しい。たいていの人間が、眠り
の渦に落ちてしまっている。通り過ぎる家々の街灯がほ
んのりと輝いていた。軽やかな三人の足音。眩しいくら
いの光に横顔を照らされて、目がくらんだ。電信柱にす
り寄る野良猫。野良猫は、ふわあっと大きく欠伸をし、
すぐ側にいた敬を見つめた。敬はその視線に気づき、足
を止めて優しい目で猫を見つめた。猫は気の抜けたよう
にもう一度欠伸をし、背を向けて行ってしまった。後ろ
から見守っていた務が、呆れたように言う。
「お前、本当に気がいいな」
そんな猫にかまっていても仕方がない…そう言いたいら
しい。不思議そうに敬は首をかしげた。猫は嫌いではな
いー…むしろ結構好きな動物だ。ずる賢く、独り身の猫
…。協調性があり、仲間意識の強い犬とは正反対の生き
物だ。しかし結局、人間の手によって手なずけられるの
が、かわいいのかもしれない…。場合によっては、その
愛くるしい姿が逆に人間を手なずけているのかもしれな
いが。
その反応に肩をすくめ、務は前へ向き直り、走り出し
た。彼らは今、竜也の家に向かっている。眠気は安心感
が出てくると突然襲ってくるもので、拓人は先ほどから
欠伸ばかりしている。
肩から鞄を提げ、これから起こることを考えながら目を
こすった。
「けーさん達は…鈴のことを調べてどうするつもりなん
すか?」
敬は微かに笑って、視線を落とした。前髪に隠れて、そ
の表情は読めなくなった。務はただ黙殺していた。拓人
は言葉に表してから、気恥ずかしくなって俯いた。愚問
だと思う。興味本位でこういった行為をしている訳では
ないはずなのに…。外敵を駆除するためか、はたまた一
人の人物に対する単なる嫌がらせか。方向を見失った鳥
のように、拓人の心は揺れていた。
竜也宅の街灯は、他の家と同じように輝いていた。た
だ、竜也の部屋のみがカーテンから明かりがのぞいてい
た。務がチャイムを押すと、待ちかまえていた使用人が
扉を開けた。竜也の祖母はもう眠りについたという。そ
う言い、彼女は逃げるように台所へ消えた。
音をたてないように階段を上り、竜也の部屋へ向かっ
た。
「遅かったね」
第一声はそれだった。拓人から投げてよこされたフロッ
ピーを入れて、カチャカチャとパソコンをいじる。四人
はパソコンに釘付けとなった。
『セキュリティーにロックがかかっています。パスワー
ドを入力してください』
突然表れた文章に、動揺しなかったのは竜也だけだった。
竜也は最初から分かっていたように、パスワードを入力
し『OK』をクリックした。
『パスワード確認……OK』
数秒して画面上に人の顔らしきものが、ゆっくりと鮮明
に映し出された。それは、鈴そっくりの人間だったのだ!
「これって…鈴の死んだお父さん?」
鈴は父親似だと聞いたことがある。画面上の人間は、鈴
と酷似していた。いや、似すぎていた。ただ前髪が短く、
あどけない笑みを浮かべているその人物は、無感情の鈴
とは違う。二つの大きい目から発せられる快活さや明朗
さは、鈴とはかけ離れている類のものだった。この人物
が陽なら、鈴は陰。相対する雰囲気を持つ、二人の人物。
「五十嵐に兄弟いたか?」
不審そうに眉をしかめる務の質問に、拓人は首を振る。
竜也はカーソルを動かして、次のページに進ませながら
言った。
「いるよ」
「「!」」
「彼の名は、五十嵐聖。鈴の父親の、正式の息子だ」
「じゃあ…」
敬が居たたまれなさそうに、竜也を見つめた。
「そう、鈴は五十嵐聖のクローンだ。出来損ないのね」
拓人は顔を背いた。やりきれない悔しさで、手を握る力
がきつくなる。敬は誰に言うわけでもなく、一人でぽつ
りと言った。
「五十嵐が左目を隠す理由は、なんとなく分かっていた
んだ」
「え?」
拓人は驚いて敬を見た。敬は、自嘲するように口元を苦々
しく歪めた。
「クローン技術の中に…ジーンターゲッティングという
操作がある。単離した細胞を変異させ、これを個体に戻
すことにより、
目的の変異をもった個体を得る遺伝子操作法らしい。具
体的な
方法は、遺伝子と肺性幹細胞(通称ES細胞)を含む溶
液に電気刺激を加え…」
本か何かから知識を得た敬は、内容をお経のように棒読
みしている。務はしきりに煙草を欲しがり、拓人はすで
に思考回路がスパークしている。敬は懇切丁寧にその方
法を説明し、次の言葉でしめくくった。
「それは遺伝子を破壊するばかりでなく、新しい遺伝子
を付加することも、遺伝子の一部を変換することも可能
なんだ」
喋り終えて一息つき、周りを見て敬は呆れた。今にも失
神しそうなのは拓人、中毒のように鞄をあさるのは務。
平静を保っているのは竜也だった。
「つまり…敬はこう言いたいんだね。鈴の左目はないか、
何かが欠けているか…見えないかのどれかだって」
竜也はにっこりと満足そうに笑った。敬は苦笑いをしな
がら言った。
「ご名答。でも、鈴の父親はなぜそんなことをしたんだ
ろう…?」
生まれてくる子供。愛情をそそがれて、聖という人物は
この世を去った。フロッピーにつらつらと書かれている、
思い出の数々を見れば一目瞭然だ。そのクローンを作る
のに、片目を潰すのは一体なぜだろう? 竜也は心外だ
といった風に敬を見つめた。
「最初に言ったじゃん。鈴は、出来損ないだって」
そう断言する竜也は、自信に満ちあふれていた。他人を
中傷する言葉は日常。しかし、敬はこれだけは許せなか
った。竜也の胸ぐらをつかんで睨みつけた。
「お前っ」
務は敬を引きはがし、拓人は竜也の前に立ちはだかった。
仲間のいざこざは、できれば避けたい。敬はしぶしぶ力
を抜いた。もともと、務に勝てるはずがない。それも計
算のうちかと思うと、無性に腹立たしかった。と、拓人
が振り返り、竜也の頬を殴った。その場にいた誰もが唖
然とした。
「坊ちゃんも…ひどいっすよ。いつもいつも、思っても
ないことを言うんじゃない!」
拓人は激情家だが、あまり暴力をふるうタイプではない。
軽く笑ってすますようにしている。突然すぎることで、
務も動けないでいた。
「事実を言ってるんだよ、拓人」
竜也は笑って拓人を諭した。口から血が滲み出ている。
もう一度繰り出された拳は、竜也の脆弱な手で受け止め
られた。
「クローンを一体作るには、大きなリスクがつきまとう。
それを承知でやったなら、当然の結果だよ」
これまで作られた全てのクローン動物は、遺伝的身体的
に何らかの以上がある。過大児や発育異常、肺の欠陥に
免疫システム不全…。鈴も、例外とは言えない。
「今の技術じゃ、完璧なクローンを作るのは不可能だろ
うよ。だけど、彼はまぎれもなく鈴を作り出したんだ」
不完全な人間。それがクローンである、鈴。重い空気が
辺りに漂っていた。拓人は意を決したように手を引っ込
めた。
「俺、五十嵐聖を調べるよ」
宣言したからには、行動する。拓人は携帯を取り出し、
どこかへかけた。
「坊ちゃん、ファックスある? 家の番号と一緒?」
「うん」
拓人は竜也に謝ることはしなかった。竜也も、それが当
たり前だと思っているのだろう。敬と務は、竜也が調べ
た資料を読んでいた。鈴の父親の出身地、家系、交友関
係などなど…。数日間で調べた情報の山が床に積み重ね
てあった。
「あ、もしもし? 桜、お前小学生だろ? 早く寝ろよ。
…うん、急ぎの用事。今、坊ちゃんの家。悪いけど…」
拓人は敬に片目をつむってにっと笑った。
「五十嵐聖について調べてくれ」
相手の少女は、短い返事をして電話を切った。
半時して、ファックスが届けられた。ファックスは、
なぜかクラス名簿だった。
「あ、あった。五十嵐聖…。それと…華月黎史?」
語尾が上ずり、拓人は危うくそれを落としそうになった。
予想外の展開で、皆は困惑した表情になった。
「同姓同名…ってわけでもないよね?」
半信半疑といったように、敬は確認する。のぞき込んで
いた務が、はっと息をのんだ。
「ヤブキミオ…」
公園で会った女の名も、矢吹澪。竜也は務を見て、にっ
こり笑った。
「思い当たるフシがありそうだね。これで繋がった」
ふうっと息をついて、イスに腰掛けた。アイコンをクリ
ックし、データを引き出す。
「五十嵐聖、華月黎史、矢吹澪。彼らは一度死んでいる」
「…まさか、知ってた?」
拓人はびっくりして竜也の横顔を穴があくほど見た。竜
也は笑っているだけで、何も言わなかった。
「彼らは修学旅行で死んでいる。ただし…矢吹澪という
人物は存在しない」
「それはどういう意味だ? 俺が遭遇した奴は、はった
りをぬかしやがったのか?」
納得ができないといった風に務はぼやいた。
「それが本物とは限らない。替え玉、ダミーの可能性も
ある。しかし、彼女は謎だらけだ…。そこで彼らを位置
づける間に、ある人物が思い当たったよ」
机の中から一枚の写真を取りだし、竜也は言った。
「彼の名は、佐渡清麻。調べてみる価値はありそうだね」
こともなげに言って、竜也はパソコンに向かった。敬は
その後ろ姿を目で追いながら、考えていた。なぜ、竜也
は言ってくれなかったのだろう…? 鈴は誰のクローン
なのか、黒幕は誰なのか。そう思っていた矢先に、拓人
が口を開いた。
「全部…坊ちゃんは知ってた?」
竜也は黙っている。それは肯定を示していた。
「言ってくれれば…俺達も…」
そう言って口つぐみ、拓人は資料をつかんだ。それ以上
は言ってはいけない。無駄なことだったとか、徒労だけ
だったとか。自分達の行為を、否定することになる。
「…全部知ってた訳じゃないよ。ただ、証拠が欲しかっ
た……」
竜也の体がぐらりと傾いた。慌てて側にいた務が支える。
竜也の顔は、死人のように真っ白だった。務が舌打ちす
る音が聞こえた。悪い予感が的中したらしい。
「…パソコン、頼むね」
スイッチが切れたように、竜也は目を閉じてだらりと体
の力を抜いた。脈が不規則に大きく、小さく打ち、呼吸
も乱れている。血の気のない頬は、次第に青ざめていっ
た。
「荒井、家の人を呼んでくれ。場合によっては…」
敬は拓人の携帯を指さした。
「救急車を」
二人がかりで竜也をベッドに運び、横たえた。苦しそう
に息を吸ったりはいたりする竜也が、今にも死にそうで
恐怖を覚えた。心配そうに拓人は敬を見つめた。
「こんの、大馬鹿野郎!」
悪夢にうなされたように、竜也は身をよじった。無理を
しないようにと、見張っていなかったらこれだ。己の失
態に後悔しつつ、竜也の様子をじっと見守っていた。竜
也は、おそらく何日か徹夜して調べていたのだろう。弱
い体に鞭を打ち、気力だけで今まで耐えていた。
「やっぱり…お前は馬鹿だよ…」
敬はその場に座り込んだ。かける言葉もなく、拓人はそ
の場に佇んでいた。血相を変えた使用人と務がドアを開
けるのは、それからまもなくのことだった。
「…で、竜也は自宅謹慎。下手すりゃ、あいつは留年だ
な」
務はのんびりと煙草を吹かしながら、秋には珍しい雲一
つない青空を見上げた。土曜日だというのに、学校があ
るなんてと生徒達が嘆くのは無理ない。この学校は実に
気まぐれだ。昼休み、敬達男三人は屋上にいた。これか
らどうするかを話し合うために。
「俺は…ちょいやばいっす。練習さぼってばっかりだか
ら、朝に大目玉くらっちゃいました」
イタズラを見つけられた子供のように、拓人は舌をぺろ
りとだした。務は捜査続行可能。しかし敬は…
「僕もそろそろ危ないね。クラブでプラネタリウム作る
らしいから…」
敬は、一応天文部に所属している。部員の少ないこの部
活の要と言える部長が、敬だった。
「お前、なんとかしろよ。拓人はともかく、一人ででき
るだろ?」
「それは言語道断だっ!」
おー難しい日本語知ってる、偉い子ですねぇ、とからか
う口調で務は敬の頭をぐしゃぐしゃにした。敬は非力な
ので、自分より頭一つ分背の高い務を見上げることで精
一杯だった。いつもの調子の二人を見ながら、拓人は笑
っていた。
「あー、やっぱりここにいたぁ」
奈々が屋上の唯一の出入り口を開けてやってきた。後ろ
には、不機嫌そうな早智がいる。心配の種がまた一つ増
えて、苛々しているらしい。やってきた途端、よく通る
声で言った。
「あなた達男どもには任せてられないわ。芝居の稽古は
完璧に近いし、あとは当日を待つだけ」
そこで息を吸い、凛とした姿勢で言い放った。
「もう、幽霊でも化け物でもなんでもこいだわ。その、
矢吹とか佐渡とかいけ好かない人を暴いてやろうじゃな
いの。奈々、行くわよ」
呆気取られたのは奈々も同然だった。日増しに早智の怒
りが大きくなっているのは火を見るより明らかである。
場の空気に押し流されそうになりつつも、尋ねてみた。
「行くって、どこへ?」
「決まってるじゃないの。そいつらの住んでいた場所で
聞き込むの。必ず尻尾をつかんでやるわ!」
そう豪語してドカドカと足を踏みならして去って行った。
奈々は敬達に曖昧に笑ってその後について行った。嵐が
去ったと同時に、三人は一斉にため息をついた。
「僕…やっぱり荒井と一緒にできる限り調べるよ。あと
が怖い」
殺気だった早智を思い出して、敬は震え上がった。それ
は拓人も同じだったらしく、かくかくと頷いた。
「俺…今初めて女って恐ろしい生き物だと思った。それ
と…美人を怒らしたらやたら怖いってことも…。コンサ
ート当日の金曜日までになんとかしないと…」
まだ先輩にどやされた方がましだ。早智を本気で怒らせ
たら、地獄を味わうことが簡単に想像できる。彼女には、
お金と権力がある。毎日それに脅かされるであろう、頭
脳も。彼らは、もう一度ため息をついた。
* *
*
鈴は一人ではなかった。ソファに座る鈴の目の前には、
優しい微笑を浮かべた天使がいた。いや…悪魔かもしれ
ないが。
「ねえ、こっちの世界にこない?」
睦言のように甘い声で誘う主は…矢吹澪だった。鈴は軽
く首を振って、拒んだ。食事がろくにのどに通らず、鈴
は以前よりもすっかり痩せてしまった。澪は、不満そう
に唇をとがらせた。
「なんで? なんで鈴君は嫌なの? こっちは楽しいの
に」
鈴はそう言う澪を見つめた。昔と変わらない、十五歳で
止まったままの澪。なぜこんなにも鈴に執着するのかは、
理解しがたいことであった。
「私は聖の代わりです。聖の分まで生きることが、私の
使命ですから」
「何度も死にたいと思ったのに?」
その言葉は鈴の古傷をえぐった。人を殺し続ける父を、
止められなかった自分。無力な自分に嫌気がさしたこと
はいくらでもあった。容疑者の一人にされた時も、本当
は怖くてたまらなかった。でも、無関心でいることで免
れた。矛先が自分の父親に向けられた時は、自然と冷静
だった。その頃にはもう、逃げられないと諦めていた。
覚悟ではなく、諦めだった。
「そんなのきれいごとだよ。あなたは、皆を裏切ったん
だから」
ミンナヲ ウラギッタンダカラ。鈴はそっと目をふせた。
「普通の人間にもなれない。聖君は、そんなことを望ん
でいると思うー?」
父は、聖のクローンを作る際に幾度か実験を繰り返した。
それは、聖の体を蝕んでいた遺伝病の遺伝子を破壊する
ためだった。誤って、その遺伝子と左目を司る遺伝子を
潰してしまった。そうして生まれたのが鈴である。クロ
ーンは長生きをしない…。父の判断は、はたして正しか
ったのだろうか。
「二十年も前の話です。あなたは、なぜ私に執着するの
ですか?」
鈴は聖の記憶を引き継いでいた。実際体験したのではな
いが…なんとなく、覚えている。前世の記憶を持ってい
るようなものだ。澪はくすくすっと手を口にあてて笑っ
た。
「皆が死んじゃったのに、聖君の代わりは生きている。
そんなの卑怯じゃない?」
(復讐ですか…)
おぞましい憎悪、嫉妬。彼女の役目は、真実を知る者の
抹殺、といったところだろうか。精神的に追いつめて追
いつめて…待つものは?
「鈴君の居場所なんかどこにもない。待つのは死…だよ」
澪はそう言い残し、消えてしまった。鈴は危なげな足取
りでよろよろと窓を開けに行った。強い風が吹き込み、
前髪が舞った。
一枚の紙がテーブルからひらりと落ちた。コンサート
の曲の紹介が載っていた。
@ ショパン 『ため息』
A 〃 ポロネーズ 第六番変イ長調『英雄』
B 〃 ノクターン 第二十番嬰ハ短調遺作
C 〃 エチュード ハ短調『革命』
D リスト ハンガリー狂詩曲
E シューベルト 即興曲 第三番変ト長調
F ドビュッシー 『亜麻色の髪の乙女』
G ベートーベン 『月光』
H ルビンシテイン 『天使の夢』
コンサート当日まで、あと一週間をきった…
その日、竜也は非常に暇だった。パソコンの回路はぶ
つりと
切られていて、触ろうとすると部屋にいる使用人に睨ま
れてしまう。あいにく、データは全てノートパソコンに
移しておいたから安心はできる。発作は治まったものの、
また無理をさせればひどいことになる…と主治医は話し
ていた。本来なら、検査入院をさせたいところだが、竜
也が断固反対したために監視役をつけることで合意した。
主治医は竜也の性質を熟知している。言い出したからに
は、てこでも動かない子供じみた頑固さと、入院するこ
とへの恐怖心。長年のつきあいを経て、主治医は成長し
続ける竜也を我が子のようにかわいがってくれた。竜也
にも、彼に対して恩がある。
使用人の紗代も、竜也が小学生からのつきあいである。
紗代は、彼が脱出を試みないことを逆に不安になってい
た。彼は、ずっと窓の外をぼんやり眺めているだけ。身
投げされたという前科があるのを思い出し、紗代はさら
に不安になってきた。今日は皆が出払っている。家にい
るのは、紗代と竜也だけだ。今日一日平和に過ごすには、
四六時中彼を見張るしかない。
「ねえ、紗代さん。のど乾いたから、飲み物ちょうだい」
神経をとがらせていた紗代は、はじかれたように顔をあ
げた。竜也はいつのまにか、紗代をじっと見つめながら
笑っていた。
「大丈夫、逃げはしないよ。なんなら、鍵をかけていけ
ばいい」
心の内を見透かすような目で見つめられ、紗代はひどく
焦った。しかし、言われた通りに外から鍵をかけて台所
へ下りていった。
竜也の好きな紅茶を入れながら、紗代の目にあるもの
がとまった。戸棚から出したそれは、睡眠薬。紗代は躊
躇うことなく中身を取り出し、乱暴に竜也のカップの中
に入れた。スプーンで溶けるまで混ぜる。これで、一日
の安全が保証される。竜也は眠り、紗代は残った家事に
徹することができる。一石二鳥の事柄だ。不審がられな
いようにと、自分のカップにも紅茶を注いだ。紅茶を運
びながら、ドアを開けられないことに気づいた。竜也を
呼んで鍵を開けてもらった。竜也の部屋の鍵は、内側か
らでも外側からでも開けられたことを思い出し、竜也が
外に出る意志がないことを証明したと紗代は一人で思い
こんだ。良心を痛めつつ、テーブルの上にお盆を置いた。
開け放たれたドアを見て、性分か、音を立てずに閉めた。
そして、竜也に飲むよう促した。竜也はうれしそうに微
笑みながら、少し熱い紅茶を口へ運んだ。紗代も同じよ
うに飲みながら、竜也を観察した。竜也は飲み終えると、
小さく欠伸をした。成功らしい。竜也はベッドに入り、
すぐに寝息をたて始めた。その様子を確認してから、ゆ
っくり立ち上がろうとすると、視界がぶれた。立ちくら
みかと思ったが、そうでもなさそうだ。頭が重い。
「あ〜あ。紗代さんのこと、結構信頼してたのに。ひど
いなぁ、睡眠薬入れるなんて」
話しているのは、他でもない竜也だった。彼は声をたて
ずに笑っている。なぜか、そう紗代は思った。
「用心しすぎだから、自分の考えていることがばれちゃ
うんだよ」
瞬時に、自分のカップと竜也のものが入れ替えられたこ
とを悟った。止めなくては、と思っても体がうまく動か
せられない。
「ごちそうさま」
ドアが閉まる音を聞いたと同時に、紗代の意識が飛んだ。
敬は死ぬ気で文化祭の用意を終わらして、帰途につい
ていた。彼の住むアパートは、商店街の近くで、買い物
に便利だ。財布を取り出して、卵や豆腐、野菜を購入し
た。今日はマーボー豆腐とごぼうのきんぴらと…。アパ
ートの階段を上りながら、まどか(妹)の嫌いな食べ物
は除外していった。
「ただいま…」
玄関に入って、はたと靴の数を数えた。一つ多いようだ。
来客でもきてるのかな、と思いドアを閉めた。台所に行
って食材を置き、扉を開けると…そこには、竜也がいた。
「天川?」
竜也は自分の机を陣取っている。ノートパソコンを興味
津々にのぞき込んでいるのは、自分の妹で。まどかは敬
が帰宅したのに気づくこともなく、竜也に説明を求めて
いる。
「天川、お前自宅謹慎じゃなかったのか?」
竜也はにっこりと笑った。嫌な予感が頭をよぎる。
「しばらくの間、居候させてね」
まどかは全く問題なさげだった。敬とまどかはわけあっ
て、二人で暮らしている。身をよせるには、丁度いい家
かもしれないが……
「家にはなんて?」
「ちょっと出るって言っておいたよ。行き先は教えてな
いから、探しにくるかもね」
敬は一気に脱力した。頭を抱えながら、イスに座った。
(どうしてこう…いつもトラブルを運んでくるんだ?
こいつは)
まさに、にこにこ顔の疫病神だ。
「リュウヤらしいや。その方がスリルがあって楽しそう
だね」
人の名を呼ぶ時、まどかはアクセントが微妙に違う。や
はり兄だから、妹の意見を通してやりたい。「気がいい」
と言った務の顔を思い出し、盛大にため息をついた。
「分かった。…パソコンは向こうのテーブルでやってく
れ。くれぐれも、無茶するなよ」
やったぁと、はしゃぐまどかがいつもよりも元気なので、
敬は少しだけ寂しくなった。
週5日制となったおかげで、休みが増えたのかと言わ
れると…そうでもない。日曜日、一週間後に迫る文化祭
のために、生徒達は学校でせわしなく行き交っていた。
劇の小道具の制作、マイクの調整や金券作りなど、他の
高校に比べるとエンジンがかかるのが遅い。本当に文化
祭が成功するのか…それは一週間後にしか分からない。
敬と拓人は、スーパーの袋を両手に抱えながら学校を
目指していた。彼ら二人と、早智は同じクラスだ。ちな
みに、多数決の結果の末、たこ焼き屋さんをすることに
なっている。今から練習をするために、材料を調達して
きたのだ。
「若王寺さんと山田さん、ぎりぎりまで現地調査だって
さ…」
敬は眼鏡をくいっと持ち上げた。
「そうっすか。文化祭の用意と学校は…」
「演劇部は免除されるんだよ。学校の中で、一目置かれ
ている部だからね」
多少皮肉った調子で敬は答えた。拓人は路頭の石を蹴飛
ばした。
バスケ部は、土曜日に試合がある。文化祭初日と重なっ
ていて残念だったが、日曜日は大丈夫。後夜祭は派手に
暴れると、拓人は言っていた。彼のことだ、司会をやっ
て爆竹をばらまいて、生活指導の先生に呼び出しをくら
うのだろう。
「あ、あれ…荒井?」
敬は、正門の所でむっつり口を結んで仁王立ちする務を
見つけた。務と竜也は敬の隣のクラスだ。確か、劇をす
ると言っていた。務は二人に気づくと、すぐに目をそら
した。何かを隠している。
「務っち、どうしたんすか?」
「…」
務は不機嫌そうに眉をしかめ、腕を組んだ。務が休日に
学校へ赴くことは、かなり珍しい。敬は竜也がらみだろ
うと、ピンときた。
「天川なら、うちの家にいるよ」
これは、拓人には初耳だった。
「…やっぱりな。俺の家に使いがきたよ。全く…どうも
竜は人を困らせるのが得意らしい」
「それは務っちも…」
拓人がついつい本音をぽろりともらすと、務にぎろりと
睨まれ、身がすくむのがオチだった。蛇に睨まれた蛙で
ある。務はふうっと息を吐き、正門をくぐった。
「何か用でもあるのか?」
すぐに務の後を追ってきた敬が小突いた。とことん、我
関せずの務が文化祭の用意を手伝いにきたことに疑問を
抱く。自分の興味のないものは、手をつけようとも思わ
ないはずなのに。
「劇の練習」
短く答え、教室に入っていった。殊勝なことをしてくれ
る、と二人は感心していた。調理室に向かおうと回れ右
した二人に、務が後ろから声をかけた。
「新橋、あさってにお前の家に行く。交渉するのに時間
がかかりそうだからな…。泊まらせろよ」
「はいはーい、赤鬼さん。遅れてきて練習さぼらなー
い!」
一瞬間があった。敬と拓人はゆっくりと顔を合わせ、吹
き出した。心ゆくまで腹がよじれるほど笑いあい、その
場を後にした。
奈々と早智は鈴の父親の故郷にいた。土曜日に行くと
宣言し、日曜日に出発したのはいいものの、着いたのは
月曜日だった。そこは、閑静な町だった。三つの村が統
合されて、町となったのは数年前。かつて聖が通ってい
た学校は、廃校となっていた。その建物自体は壊される
ことなく残されており、侵入するのはたやすいことだっ
た。
二十数年前に、澪や黎史、そして聖は確かにここで時
間を過ごしてきたのだろう。机の落書き、ちらばったほ
うき、黒板のチョークの跡…。そして、つんと香水くさ
い。机の上には、一つ一つ違う花瓶が置いてあった。中
にはラベンダー一輪。枯れてしまっても、今でもなおそ
の芳香は消えない。
「ここ、かなり空気がよどんでいるわね」
軽く咳払いをしながら、早智は全体を見回した。静まっ
た教室に、断続的に聞こえる水滴の音。
「…もう出ようよ、さっちゃん」
奈々は咳き込んで目尻に涙を浮かべている。今までの収
穫はゼロ。早智はこめかみを押さえながら、この場に不
釣り合いな花を見た。
「にしても、もっと気の利いた花はなかったのかしら
…? 菊とか」
「鈴さん、きっとこの花がいいと思ったんだよ。儀式的
とかじゃなくて、この花自身の…何というか…魅力?
もう来ることはないって決心したんじゃないかなぁ?」
同意を求めるように、奈々は上目遣いで早智を見た。憶
測で物を言うことは…よくないことだ。早智は何も言わ
ず、廊下に出た。緩んだ蛇口をかたく閉め、奈々ととも
に外の世界に舞い戻った。
* *
*
新たに務の加わった敬の家は、いつも以上ににぎやか
だった。
「そこ、どいてくれ! 食器が出せないじゃないか!」
「まどか、慣れないことはしないでくれ。怪我されたら
こっちが困る」
「人の分まで食うなバカタレ!」
一日で寿命が縮むかと思うぐらい、敬は怒鳴り散らした。
夕食後、隣室でイスに座って足を組んでいる務に、まど
かはつっかかっている。務は、まどかがいることを忘れ
ていたらしい。敬の家に入って「お前、いたの?」と口
を滑らせてしまい、まどかはそれにむっときた…という
のが始まりだった。痴話喧嘩はよそでやってくれ…と願
いつつ、敬は二人の様子を皿洗いをしながら見守ってい
た。
竜也は昼間、ずっと横になっていた。やはり体が言う
ことをきかず、言いつけを守らずにパソコンに向かって
いると眩暈がした。今はだいぶ治まって、起きていても
平気だ。
「…敬、ちょっと」
泡だらけの手を湯に通して、タオルをひっつかんで竜也
の元へ行った。パソコンには、過去の記事が掲載されて
いた。
「これ…、聖が亡くなった時の?」
バスが崩壊した写真が載せられ、死亡者の名前がずらり
と並んでいた。その中に、聖や黎史の名前はあった。し
かし…
「矢吹澪の名がない…」
「その通り。その結果、彼女は架空の人物だと思われた
が、出席簿には名があった。これ、矛盾してるよね?」
竜也はにっこりと笑った。カチリとマウスをクリックす
ると、クラスの集合写真とおぼしきものが現れた。
「一番下の左端の茶髪が佐渡清麻、その隣の神経質そう
なのが華月黎史。そして…その隣の空白は、おそらく矢
吹澪」
「ちょっと待て。彼女はもともと死人なのか?」
竜也は少し考えてから言った。
「この世の人物とは思えないね」
現実主義者の竜也には似つかわしくない言葉だった。敬
は信じられない、と竜也を見つめた。
事故の内容はこうだった。
お世辞にも涼しいとはほど遠い、夏の暑い日に一行は目
的地に向かっていた。そして、乗っていたバスに運悪く
雷が直撃し、全員黒こげ。生存者は人っ子一人いなかっ
た。
「原因は雷か…。厄介だな」
所詮人間は、自然の脅威から逃れられない。対策をして
いても、防げないときは意味がない。人為的要因ならと
もかく、自然現象ならなおさらだ。
「おそらく時と場合が悪かったんだ。確か…雷の種類は
二つ。直撃雷と、誘導雷って言うんだけど、この場合は
直撃雷だろうね。しかも、夏季雷は電圧波高値が約千万
V。頻度は少ないんだけどね…」
敬はぼそぼそと小声で言いながら、ちらりと務の方を見
た。まだ、まどかとやりあっている。家から追い出そう
かなと思案にふけっていると、竜也は口を開いた。
「俺は、この事件を仕組んだのは矢吹澪だと考えている。
…大きな賭けだけど。そうしたら全て解釈できるんだよ
…本当に、都合のいいように考えたらね」
妙に歯切れの悪い竜也は、ノートパソコンを閉じた。黎
史のコンサートまで後三日。時間がたりない。焦る気持
ちが、心の中を巣くっていく。
「でもさ…それは飛躍しすぎじゃないか」
遠慮がちに敬は言った。
「実は、澪は戸籍に載っていない子供だったとか。事故
も、運が悪かっただけとか…」
いろんな考えがあったが、そこで口つぐんだ。竜也は苦
笑していた。彼も彼なりに、多くの推測を生み出してい
たのだろう。
「でもね、敬。理由はどうあれ、黎史は現代にいるんだ
よ? 血縁者でもなく、本人がスポットライトをあびて
ピアノを弾いている。クローンという可能性も、確かに
なくはない。逆に、クローンだとしたら誰が彼を作った
のか? それに、澪という人物もよく分からない。本人
と思われる人物は堂々と務に会い、『また会えるでしょ
う』と言って去った。愛想で言ったのか、それともただ
の挑発か。符号が合うんだ。澪が鈴を弄ぶ犯人で、黎史
は生き返らせるかクローンとして作られて、鈴に会いに
来た。非現実的だけれども、こう考えた方が辻褄が合う」
無理に理屈をこねて、正論を導き出す。敬は、肯定も否
定もできなかった。不可解な点がありすぎて、常識にと
らわれて考えていたららちがあかない。
「あくまでも仮説、されど仮説だけど。鈴はとんでもな
い化け物を敵に回したみたいだね?」
「敵って…」
敬は絶句した。はっきりそう断言した竜也は、振り返っ
て笑った。心底楽しそうな笑みだった。
「ずっとチャンスをうかがってたんだと思うよ。聖は享
年十五歳。そして、鈴も今は十五歳。コンサートの次の
日は、鈴の誕生日。十六歳になる前に、どうしても殺さ
なければならなかったんだろうよ。皆を先置いて一人だ
け多く生きるなんて、許せないんじゃないかな」
十五年待って、出した答えは制裁だったのではないか。
「頭痛がする…」
敬はそう言って、台所に戻っていった。竜也は軽々しく
言っていたが、心中は決して穏やかではない。向こうが
仕掛けてこない限り、対処法が分からないのだ。仮説が
杞憂に終わった場合、何も起こらなくてよかったと万々
歳。誰もが、そう簡単にいくとは考えていない。ひしひ
しと何かを感じていた。鈴がらみのことが、単純に解決
するとは到底思えない。
「佐渡清麻、か…」
竜也は、写真にうつる少年を眺めていた。
《続》