Flying


津月凍夜

 

 街。建物が全て瓦礫の山と化した。

 鉛色の空の下、灰色の景色が広がっていた。

 雨は音もなく地面・・・瓦礫に黒いしみをいくつも作

り、倒れている人間の血を洗い流した。

 静かだった。何の音もなく、何の気配もしなかった。

 ・・・街が、国がまた一つ、クッキーが崩れるよりも

あっけなく壊れてしまった。

 サエは手で自分の頬に触れた。頬を一すじの水滴が伝

った。これは雨の雫なのだろうか、それとも・・・。

 

『死ねええっ!』

 銃口を向ける軍服姿の男たち。硝煙の臭いが周りに立

ち込める。

 サエは空から彼らを見下ろしていた。

 どうして自分はここにいるのかと、何度も悩んだ。だ

が、その答えは出ないまま、サエは軍隊を、この国を敵

に回していた。

 だが、それもサエは諦めていた。全ては異形の自分が

悪いのだと。敵視されるのはその姿のせいだと。

 それだけが理由ではないのだが、確かにサエは異形だ

った。彼のその背中からは、翼が生えているのだから。

天使のような真白い、美しい羽。

 もちろん、この世に天使などいるはずがない。そして、

そんな夢物語を信じている者もいないだろう。

 ならば、何故サエには羽があるのか。それには、一人

の科学者が関わってくる。

 

 彼女――科学者、スティヴァ・クロードスは人造人間

やクローンについて研究していた。この世界では、宗教

を信仰している者はほとんどいないため、誰も彼女の研

究を『人道から外れる行為だ』と、止めなかった。この

時に、誰かが彼女を止めていれば、多くの国が滅びずに

済んだのかもしれない。

 そしてある日、彼女は世界を相手にこう言ったのだ。

『私は人間を超える存在を作る。』

 無論、世界中の誰も彼女の言葉など信じなかった。だ

が、彼女は何年もの歳月をかけ、本当にその研究をたっ

た一人で完成させたのだ。

 そうして生まれた『人造天使』がサエ。正確な名前は

SAE- -301。

 しかし、世に『マッドサイエンティストのスティヴァ・

クロードスが人造天使を完成させた。』と噂が広まると同

時に彼女は行方不明。サエは一人、研究所に残されたの

だ。

 それから数日後、ある巨大な先進国がサエに目をつけ、

自国に連れて帰った。その『人を超える力』を使い、邪

魔な国を次々と滅ぼし、世界を手中に収めようと目論ん

だのだ。

 現在、多くの国がその国の手に落ちた。サエの力によ

って。

 

 男は雨の中、重い瞼を上げた。

「くそ・・・。」

 痛む腕を杖代わりに体を起こそうとすると、ぬるりと

生温かいモノが手についた。

 血だった。

 誰のソレかも分からない赤い液体が男の手を濡らした。

「くそっ!」

 再び悪態をつき、男は上半身を起こした。服の埃を払

ってから、周囲を見回す。そこには、生き物の気配など

皆無の、ついさっきまではその機能を果たしていたはず

の街が闇の中に浮かび上がった。

 男は立ち上がり、手探りで歩いた。目的地は、ない。

ひょっとしたら、妻と子の待つあの世とやらになるかも

しれないが。

 ふん、と男は鼻を低く鳴らして笑った。何も出来なか

った自分に侮蔑をこめて。

 瓦礫の街を電灯はおろか、月明かりさえない状態で進

むのは男の想像以上に辛いものだった。

 履物はどこかで脱げてしまい、肌をさらした足は既に

血の靴を履いている。

 それでも、男はその足を進めた。行くべき道は愛しい

家族の待つあの世か、もしくは。もしくは・・・。

「・・・畜生。・・・ちくしょう、ちくしょう・・・。」

 体中の血が煮えくり返るほどの怒りを感じた、敵の顔

は男の脳裏に焼きついている。覚えている。まだ覚えて

いる。いや、忘れようとしても、決して忘れられること

はないだろう。

 男の妻は近所でも評判のある美人だった。家事も子育

てもきちんとこなし、男には自慢の妻だった。息子はサ

ッカーが得意で、とても素直だった。しかも、まだ十二

歳だったのだ。

 何の罪もない妻と子は、男の目の前で殺されてしまっ

た。

 憎悪が男の中でふつふつと湧き上がる。するべきこと

が決まった。

「殺してやる・・・!」

 

 雨はいつの間にか上がっていた。

 暗い雲の隙間からは、蒼白い月が顔をのぞかせ、紅と

灰色の街を照らし出す。

 凄惨としか言いようのないその光景に、男は思わず眉

を顰めた。死体と瓦礫ばかりの景色。

 男は雨のせいで湿った重い前髪をかき上げ、空を見上

げると、頭上に輝く月に向かって十字を切った。

「・・・アーメン。」

 男はキリスト教徒ではない。この世界では宗教を信仰

している者さえ少ないのだから。

 神は所詮、人間の想像の産物でしかない。だが、男は

その偶像に祈った。作り物に、妻と子の冥福を。作り物

でもいいから、安らかに眠らせてほしいと。

 男はそのまま、しばらく月を見上げていた。

 綺麗だった。

 この街の惨劇を知らぬ顔で照らし続けるその光はとて

も優しく、美しいものだった。

 まるで時間が止まってしまったかのように、男は月と

向かい合っていた。

「――あれは――!」

 男は息を呑んだ。

 彼の止まった時間を再び動かしたのは、一人の少年だ

った。

 まだ十二歳そこそこの小柄な少年。この国では珍しい

金髪。そして返り血で赤く染まった元々は白かったであ

ろう白い翼。

 そのシルエットが月の光を遮った時、男は現実に引き

戻された。

 頭に血が昇っていくのが、自分でも分かる。心臓の鼓

動が次第に速くなる。

 男は唇をかみ締めた。妻と子の仇が目の前にいる。男

の心に炎が燃え上がった。刺し違えてもいい、殺さなけ

れば、と。

 一歩一歩、じりじりと少年に近づく。幸い、少年は男

にまだ気が付いていないようだ。

 ・・・カツン、と何かが男の足に当たった。

 男はびくりと肩を上げ、足元を見た。銃だった。そば

に軍服姿の男が倒れている。どうやらこの男の物だった

ようだ。慎重に銃を拾い上げると、冷たい感触とずしり

とした重量感が手に伝わる。

「・・・サブマシンガンか。」

男は顔を上げた。その瞳の炎が揺らめく。

両手で構え、トリガーに指をかけ、狙いを定める。

 指に力をいれ・・・

「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 

 サエの右腕から力とともに血が抜けていく。

そして全身に激痛が走った。

男は弾倉に残っていた弾を全弾サエに撃ち込んだ。全

七発。

右腕に四発、左肩に一発、右足に二発。男の執念のせい

か、弾は一発も外れなかった。

 サエは人造天使だ。かといって、機械で出来ているわ

けではない。体の強度は普通の人間と変わりはしないの

だ。銃で撃たれれば傷を負うし、血も流れる。

「うっ・・・。」

サエは痛みに喘いだ。

一方、男はほかに武器はないかと周りを見わたした。

四・五メートル先にハンドガンが転がっているのが男の

視界の端に移る。

左足で地面を思い切り蹴り、手を伸ばす。あと少し・・・、

あと少しで手が・・・。

だが、男の手が銃に届くことはなかった。サエが痛み

に咆哮を上げたと同時に男はこの世から姿を消してしま

った。

男のいた場所には、黒い灰しか残されていなかった。

人が手を伸ばしているような形の灰の塊。

ポツ・・・ポツ・・・と微かな音を立ててまた雨が降

り出した。

まるでサエの心を反映しているかのように。

 

 

「ありがとうね、ユナちゃん。」

 老婆は両手を合わせて、深く頭を下げた。ユナと呼ば

れた少女は満面の笑みでそれに答える。

「ううん、お大事にね。」

 ヒラヒラと手を振り、老婆が部屋を出て行くのを見送

ると、ユナは椅子から立ち上がり、側にいる丸眼鏡に少

し白髪の混じってきた頭の老人に話しかけた。

 彼はユナの世話役であり、両親のいないユナの父親代

わりでもある。

「ねえ、カスト。今の人で最後?」

「ああ、そうだな。」

 彼――カストは部屋の外を覗くと、ユナに向かって頷

いた。

「じゃ、お散歩行ってきていい?」

 ユナが背伸びをし、カストに振り返ると、カストは少

し考え込み、心配そうに言った。

「行っても構わんが、ホラ、つい先日都会の方で何かあ

ったみたいだからな。まあ、ここは田舎だから大丈夫

だとは思うが。あまり遠くの方まで行くんじゃない

ぞ?」

「うん、分かった。行ってきます。」

 ユナは元気よく返事をし、ドアを開けて外へ出て行っ

た。カストはそれを確認すると、深くため息をついた。

「今日は・・・何か起こりそうで嫌な感じがするな。」

 

 さて、このユナという少女。この国の田舎町に暮らす、

十二歳の女の子である。彼女は町で唯一の医者であるた

め、彼女の家にはよく人が訪れる。十二歳の子供が医者

というのも変な話ではあるが、ユナはあらゆる医療知識

を持っており、その腕は確かだ。因みにカストは助手に

過ぎない。

 しかしながら、医者だろうが、まだ十二歳の少女であ

る。仕事が終われば遊びにも行く。

 ユナは鼻歌混じりに小高い丘へと向かった。一番好き

な場所だ。そこからは家々や森が小さく見え、空に近く

なったような気がする。その感覚がユナは好きなのだ。

 ・・・丘の半分ぐらいまで登っただろうか。膝あたり

まで伸びている草と、彼女の肩まで届く黒髪をなで、風

が通り過ぎて行く。

「え・・・?」

 草の中に、気のせいか人が倒れているのが見えたよう

な・・・。

 風に揺れる草とともに、ユナの心もざわめく。

 ゆっくり、恐る恐る近づいてみる。

 ユナは目を見開いた。

 気のせいではなかった。茂みの中に少年が倒れている。

この国では珍しい金髪に、北方の人間としか思えない白

い肌。年は十二・十三・・・ユナと同じくらいだろうか。

そして、血まみれの白いシャツに、紫色のシミ・・・恐

らくは血がついてそんな色になったであろう濃紺のズボ

ンをはいている。

 右腕、左肩、左足からの出血がひどく、あたりに緑色

の植物を赤く染めている。

 ユナはごくりとつばを飲み、少年の胸に耳を当てた。

トクン・・・と微かな音が聞こえる。

「まだ・・・生きてる!」

 ユナの顔が医者の表情に変わった。とりあえず、これ

以上の出血を防ぐために、持っていたハンカチを破り、

傷口を縛る。

 そして、少年の腕をとり、自分の肩に回して立ち上が

った。

「軽い・・・」

 少年の体は想像以上に軽かった。考えているよりも早

く家に着けるかもしれない。

 ユナは足に力を込めて、一歩踏み出した。

 

『お母さん・・・どうして僕を創ったの?』

『・・・どうしてだと思う?』

『・・・』

『天使ってね、人を幸せにするって言われているのよ。

本の中ではね。』

『しあわせ?』

『そう。だからサエは生まれたのよ。サエがいれば私は

幸せ。あなたもいつか分かるようになるわ。』

 

「血、止まったみたい・・・」

 ユナは大きく息を吐いた。

真っ白なベッドに横になり眠っている少年の手をとる

と、ま

だ冷たかった。

 ギイ・・・と鈍い音を立ててドアが開き、カストが部

屋に入って来る。

「カスト。」

「どうだ、容体は。」

 ユナは軽く笑って振り向き、答えた。

「今は血も止まってるし、落ち着いてる。」

「そうか・・・。ユナ、今日はもう遅い。こいつには俺

がついておくから、もう寝ろ。疲れただろう。」

 窓の外には暗い空ともうすっかり高くなった月が見え

る。ユ

ナは一瞬躊躇したが、カストに『お願いね』と頼むと、

スリッ

パの音を立てて自室に戻っていった。

 それを確認すると、カストは少年に視線を戻した。

「・・・サエ・・・?」

 綺麗な顔をじっと見つめる。見れば見るほど似ている。

幼く

して死んでしまった息子に。

 だが、死んだ者が生き返る術はない。目の前の少年が

いくら

自分の息子に似ていようとも、少年は決して息子ではな

いのだ。

 ・・・もしかしたら・・・。いくつもの疑問がカスト

の心中に生まれた。

「目が覚めたら・・・聞かなければならないことがある

な。」

誰にという訳もなく、ポツリと呟く。

夜と静けさがその暗さを増していく。

 

目を開けると、視界に飛び込んできたのは白い光だっ

た。その明るさに、サエは思わず目を瞑ってしまう。体

を起こすと、白いベッドの上にいた。木で出来た、大き

な窓がある明るい部屋だ。

痛む腕を見ると、少し血のにじんだ包帯が巻かれてい

た。肩も手当てがしてある。服は自分のものではなく、

大きなシャツを着ている。

「起きたか。」

 その声に顔を上げると、五十歳ぐらいの男が目に映っ

た。

「手当て・・・してくれたんですか?」

 サエが男に頭を下げると、男は首を横に振った。

「手当てをしたのは俺じゃない。それより、聞きたいこ

とがある。そうだな――先ず、君の名前を聞いておこ

うか。俺はカスト・ティプトリーだ。」

「・・・サエです。サエ・クロードス。」

 この名を口にするのは何年ぶりだろうか。かつて、自

分を本

当の子供のように愛してくれた人がいなくなってしまっ

てから

口にすることも、耳にすることもなくなってしまった名

だ。

「サエ・・・クロードス?」

 カストは訝しげに眉を顰めた。『サエ』の名も、『クロ

ードス』

の名にも覚えがある。

「そうか、サエというのか。」

 カストは呟くように、その名を復唱した。息子と同じ

名だ。

息子の苗字は無論『ティプトリー』だが。

 だが。

 不思議そうに首を傾げるサエに再び視線を向け直すと、

カス

トは真剣な面持ちで口を開いた。

「君はスティヴァ・クロードスという女性を知っている

か?」

 サエの顔に、動揺が走ったのを、カストは見逃さなか

った。

「知っているのか。」

 虚偽は許さない、そんな声だった。空気が引き締まる。

カス

トは鋭い目でサエを見た。サエは何も言わず、硬く口を

閉ざし、

拳を強く握り締めた。

「・・・。」

「・・・。」

 二人とも何も言わない、凍てつくような沈黙が続いた。

 が、突如として現れた少女がそれをぶち壊してしまっ

た。

 ――ユナである。

 ユナは貸勢いよくドアを開け、部屋に飛び込んできた。

「カスト?あの子の具合どう?」

 ユナはサエと目が合うと、にっこりと笑みを見せ、布

団の上に投げ出されたサエの腕を優しく握った。

「良かった。目が覚めたのね。」

 困惑しているサエを見て、カストは頭を掻いて言った。

「あー・・・、そいつだよ、君を治療したのは。それで

も医者なんだ。」

「これでも医者なんだよ。あ、わたしユナっていうの。

あなたは?」

 ユナは無邪気に笑った。

「サエ・・・。手当てしてくれてありがとう・・・。」

「いえいえ、どういたしまして。サエって言うの?いい

名前ね、何か優しい感じがする。」

『優しい』の部分で、サエは顔を強張らせた。

 優しいはずがないのだ。多くの街を破壊してきた自分

が。

多くの人々の命を奪ってきた自分が。血にまみれた翼を

持つ自

分が。

 顔色を悪くしたサエに気がついたカストは、サエの手

を握る

ユナの手を?んだ。

「ユナ、サエもまだ目が覚めたばかりだ。話は後にしろ。

今はゆっくりさせてやれ。」

 小さく『あ』と言うと、ユナは慌ててサエの手から手

を離し

た。

「じゃあ、わたし朝ごはん作ってくる。サエ、食べられ

るよね。」

 サエの返事も待たず、ユナは部屋を出て行ってしまっ

た。慌

ただしい娘だ。

 カストは大きく息を吐き出すと、サエに向き直った。

「やれやれ。・・・さて、質問を続けさせてもらおうか。」

 ビクリ、とサエは震えた。もうこれ以上、何も聞かな

いで欲しかったが、そんなサエの心の叫びはカストには

届かなかった。

「君は・・・『人造天使』なのか?翼は自由に消すことが

出来るんだろう?」

 核心だった。

 思考が一瞬停止し、視界が真っ白になったような気が

した。

 この時のサエの表情は、『YES』と言っているも同然

だった。虚偽を纏うことも出来ず。

「はい・・・。」

 小さく呟いて、サエは肯定した。それに対し、カスト

は『そうか』と一言口にしただけだった。

 

 

「サエ、サエ。ちょっと出掛けようよ。」

 数日後、サエの傷が回復したと同時に、ユナは声を弾

ませて言った。

 どうやらカストはユナに、サエが人造天使であること

を告げていないらしく、ユナがサエを恐れることはない。

人懐こく話しかけて来るぐらいだ。サエはそれを鬱陶し

くは思っていないし、ユナといる時は楽しいとも感じる。

これがスティヴァの言っていた『幸せ』の一片なのかも

しれない、と。

「あのね、サエ。一緒に行きたい場所があるの。」

 ユナは力強くさえの腕を引き、外へ連れ出した。

 あまりの太陽の眩しさに、サエは思わず目を瞑る。ほ

とんど見たことがない太陽。真昼の青空。

 風がユナの黒髪を撫で、通り過ぎて行く。

 サエがユナに連れて来られたのは、小高い丘だった。

今日は少し風が強いが、涼しく、心地よいものだった。

今まで、サエが嗅いだことのある風の匂いとは違う、草

の匂いのする風。人の血の臭いがしない風。

「ホラ、サエ見て!」

 丘から町を見下ろす。この景色はかつて見たことがあ

る。あの日、空から痛みに喘ぎつつ見下ろした。家々に

宿る光に、羨望を抱いたが、決して手の届くことはない

ものだと自分に言い聞かせた。その場所に今、こうして

立っている。独りではなく。

 サエは隣に立つユナを一瞥した。

 それに気づいたユナは微笑むと、いい眺めでしょう、

と言った。

 いい眺め・・・。

 ユナはごろりと草のじゅうたんの上に寝転び、空を指

差した。サエも空を見上げる。

「空って綺麗だよね。ここにいるとね、空に近くなった

ような気がするの。」

「・・・。」

「わたしね、昔すごく中のいい子がいたの。カストの息

子さんよ。その子がいつも『空を飛びたい』って言っ

てたの。だからわたしは空が好きなのよ。」

「その子は・・・?」

「その子はもういないんだって。本当に空に行っちゃっ

た。」

 ユナは上半身を起こし、顔を伏せた。

「もう顔も覚えてないの。名前も。でもね・・・。」

 顔を上げ、懐かしむような表情で、ユナは遠くを見つ

める。

「その子と一緒に空を飛べたらなあ、って今でも思う

の。」

 

 空を飛べたら。

 何故か懐かしい気がした。

「そういえば、サエはここに来る前、どうしていたの?」

「ここに来る前・・・。」

 サエの表情が曇った。口を閉ざし、俯く。

 沈黙が舞い降りた。

 ユナは言ってから激しく後悔していた。血まみれで丘

に倒れ

ていたのだ。知られたくない過去だってあるのかもしれ

ない。

 一方、サエの心を支配したのは不安という感情だった。

過去。あらゆる街を灰燼と化し、殺戮を繰り返してき

た。ユ

ナには知られたくない過去だ。そして、それを自分に強

制したのは何か。もし、ユナを巻き込んでしまったら。

 その悪夢は、サエにたった一つの結論をもたらした。

 

 太陽は山の端に落ち、辺りは闇が広がった。

 今日の月はひときわよく輝いている。不安になるくら

い綺麗だった。

 ユナは自室のベッドの上で膝を抱えていた。何が悪か

ったのだろうか。過去を聞いた途端、サエは口を閉ざし、

何も喋ってはくれなくなってしまった。何度も何度も謝

ったが、サエは哀しそうに笑って首を振るだけ。口を開

いてはくれない。

 ユナはひたすら自責の念に駆られていた。

「・・・ユナ、入るぞ。」

 ドアから、カストが顔を覗かせる。

「・・・カスト。」

「ユナ、落ち込んでいるところ悪いんだが・・・。」

 カストは重々しく言った。

「サエが居なくなった。」

 

 数十分前のことである。

 サエは飛び立とうと、窓に足をかけた。背中の翼はも

う赤くない。

「・・・どこへ行く。」

 厳かで落ち着いた声だった。怒りも、責めている口調

でもない。ただ真実だけを問うような声。この声の主

は・・・

「カスト・・・さん。」

 カストはドアを閉めた。サエの翼を見て恐れることな

く闊歩し、サエの前で止まる。

「君が・・・サエが居なくなったと知ったら、ユナは悲

しむな。」

 事実を口にしただけなのだろうが、サエには十分すぎ

るほどの鋭利な刃となった。胸中に罪悪感が湧き上がる。

 それでも・・・

「僕の問題にユナを巻き込む訳には・・・。」

「よし、こうしよう。」

 サエの言葉を、カストは途中で遮った。

「君がここを去ってから三十分後に、俺はユナにこのこ

とを知らせる。追うようにも言う。もし、夜明けまで

にあいつが君を見つけたら・・・。」

「見つけたら?」

「戻って来い。」

 

 カストからサエの失踪を聞いた瞬間、心臓が凍りつい

た。追いかけろと言われて家を出てからも、思考はなか

なかまとまらなかった。

 頼りのない足取りで歩く。ヒントは何も無い。焦燥感

がユナの心中を焦がす。

「あの時、わたしが・・・あんなこと聞かなきゃよかっ

たんだ。」

 ごめんなさい、とユナは何度も口の中で繰り返した。

 頼りのなかった足が、一歩一歩踏みしめるような足取

りに変わった。

 必ずサエにもう一度会う。会って謝らなければならな

い。

 だが、心当たりは無い。心当たり・・・。

 ユナは足を止めて、空を仰いだ。見事な星夜だ。町の

中でもこんなに美しく見えるのだ。あの丘なら、もっ

と・・・。

 あの丘なら。

 ――目的地が見つかった。

 ユナはある限りの力で足を速めた。もう一度だけ、も

う一度だけでいいから。

 

 サエは丘の上から、町を一望した。家々に宿る、小さ

なやわらかい光。所詮、自分とは交わることの無い世界

だったと諦めた。諦めた・・・筈なのに。

 何故、ここに居るのだろうか。

『空を飛べたら』

 ユナのその一言が、サエをここに縛り付けてしまった。

 ザァァ・・・と風が草を揺らし、丘の上を吹き抜ける。

血の臭いのしない風が、こんなにも気持ちのいいものだ

と、サエは知らなかった。その風の音に混じって、別の

音も聞こえる。

 音・・・声?

「サエ。」

「ユ・・・ナ?」

 サエの瞳に、ユナの姿が映る。見つかってしまった。

戻らなければならない。・・・しかし、サエは心の何処か

で安心していた。

「サエッ!」

 ユナはサエに飛びついた。

「ユナ・・・。」

「サエ・・・ごめんね。」

 何度も謝罪を繰り返すユナ。サエにはその謝罪の意味

が理解出来なかったが、突然姿を消した自分に対して、

ユナが大層心配してくれていたということだけは分かっ

た。

 同時に、自分に夢を見せてくれたこの子の夢を叶えて

あげたいとも思った。人の幸せを奪うだけだったが、こ

の子には夢を見せることが出来るかもしれない。自分だ

けにしか出来ないこと。・・・空を飛ぶこと。

「ユナは・・・空を飛びたい?」

「え?」

 場に不似合いな質問に、ユナは一瞬戸惑った。

「・・・しっかり?まってて。」

 サエの背から翼が現れる。純白の羽。

 戸惑うユナの体を抱き上げると、サエは飛んだ。

『空を飛べたら』

 サエが初めて、誰かの夢を叶えた瞬間。

 

 漆黒の空の中で光る白い星のように、サエの翼は闇の

中に映えた。天使。それ以外に形容できないぐらいに、

本当に美しい姿だった。

「うわあ!」

 サエの腕の中で、ユナは感銘の声を上げた。

 いつもここから空を見上げていた。憧れという感情を

込めて。その空に、今確かにこうして飛んでいる。

 夜になると不気味に感じていた闇の色がこれ程美しい

ものだと、町の明かりがこんなに優しいものだと、ユナ

は初めて知った。

 どこまでも透明な闇色をした空。青白く輝く月。白く

やわらかい光を放つ星。

「サエ、すごいね。空がこんなに近いよ!」

 ユナは手を伸ばし、サエの頬に触れた。

「羽・・・綺麗だね。サエって天使様だったんだ。天使

って本当にいたんだね。」

 頬に触れた手をサエの肩に回す。

 一人の哀しい天使が叶えた少女の夢。このまま時が止

まってしまうかと思われたが、彼らを現実に引き戻した

のは銃声だった。

 

 脳に焼きつくような銃声とともに、夜の空に赤い飛沫

が踊った。

ユナの頬に、サエの血が飛び散った。見下ろすと、丘

の上には黒ずくめの男たちが銃を構えている。

サエの腕と翼から血が滴り落ち、二人の高度は次第に

下がってきた。

「サエ!」

 ユナの震える声が夜闇に吸い込まれて消える。サエは

消え入りそうな意識を眠らせないよう、必死で痛みに耐

えた。ユナを支える腕は、止まることなく血を流し続け

るが、サエがユナを離すことはなかった。

 サエとユナがゆっくりと着地すると、男達は二人に近

づいて来た。

「・・・SAE-301。間違いないな。こいつだ。確保

するぞ。」

 サエの脳に、ガシャリという、冷たく重い銃を持ち上

げる音が鈍く・・・どこか遠く響いていた。

 ユナが泣きそうな、しかし強い瞳で男達を睨み、サエ

を抱き寄せる。

「サエをどうするつもり?」

 低く、ゆっくりと、確認するようにユナが言うと、男

達は嘲笑した。

「サエ・・・?そいつはSAE-301。あの狂科学者、

スティヴァ・クロードスが造った最強の兵器、人造天

使なんだよ。お嬢ちゃんも聞いたことぐらいはあるだ

ろう?」

「人造・・・天使?」

「そうだ。そいつは大切な兵器なんだ。返してくれる

な?」

 男は冷たく光る銃口をユナに向けた。トリガーにかけ

られた指に、力が込められる。

「さよなら、お嬢ちゃん。怨まないでくれよ。」

 サエはその会話を、遠い意識の中で聞いていた。そし

て思った。

 死なせない。

 トリガーが引かれた。

 

 金色の弾丸はサエの胸を貫通し、草の上に転がった。

 サエは立ち上がり、座り込んでしまっているユナを背

に隠して、男達と対峙した。血まみれだというのに、そ

の瞳には死をも恐れない強さが宿っている。

「な・・・。」

 その鋭い視線と威圧感に、男達は後退った。

「守るから。」

 サエは小さく呟き、腕に力を込めた。その腕を前に伸

ばし、開いた手をぐっと握り締める。

 すると、男達の手の中の銃はざぁぁ、と砂になって崩

れ落ち、風によって空に舞い上がった。

 虚空に吸い込まれた砂を見つめるサエの表情には憂い

も何も混じってはいない。ただ、守りたいものを守ると

いう意志があるだけ。サエが自分で、戦うことを決めた

のだ。

「くそぉ!」

 一人の男が上着の内ポケットからナイフを取り出し、

突進して来た。サエは微動だにせず、静かに掌を男に向

けた。

 一瞬にして男の体は吹き飛ばされ、地面に叩きつけら

れる。

「く・・・!」

 男は腕に力を入れ、立ち上がろうとした。が、腕を見

ると、透けて見える。周りを見回すと、仲間は全身が消

えかかっている。男は恐怖に奥歯を鳴らした。

「うわああああああああああああ!」

 静かな夜の丘に、男達の悲鳴が響いた。

 

 サエは大きく息を吐き出した。男達を消したと同時に、

体中から力が抜けていく。力だけではない。血も流れ続

けている。

 守れた・・・。

 朦朧とする意識の中で、それだけははっきりしていた。

「サエ!」

 意識が途切れる前に聞いたユナの声。最期に聞けてよ

かったと・・・サエは膝をつき、目を閉じた。

 

「サエ!サエ!」

 何度も何度も、ユナは泣きながらサエの名を呼んだ。

だが、返事をすることはおろか、目を開けることもない。

「・・・ユナ。何をしている。」

 聞きなれた声に後ろを振り向くと、眉を顰めたカスト

が立っていた。

「カスト・・・。」

「ユナ、何をしているんだと聞いている!」

 ユナはビクリと肩を縮込ませた。いつもと違う、明ら

かに責めているような口調。

「俺の息子・・・サエが死んだ日に、お前は俺に言った

だろう!こんな思いはもうしたくない、医者としての

知識をくれと!」

「うん・・・。」

「だから俺は与えてやっただろう!俺の持ちうる知識全

てを!

 なら、それを使え!お前は医者だろう!」

 ユナは俯いた。幼い頃の記憶が甦ってくる。

 

小さな男の子が、ユナの目の前で血まみれになって動

かない。自分は何も出来ずに、ただ泣いているだけ。そ

の子はカストの息子で・・・名前はサエ。顔・・・顔は・・・。

 

 ユナは顔を上げた。目の前の、青白いサエの顔を見つ

める。懐かしい顔だ。ユナは目を細めた。

 また死なせてはならない。もう死なせない。

「カスト、力を貸して。家まで急がなきゃ。」

 ユナは強く言った。カストは安堵の息を漏らし、さっ

きとは打って変わって、優しい口調で言った。

「ああ。急ぐぞ。」

 

 

 ベッドに力なく横たわるサエを心配そうに見ながら、

ユナは

横の椅子に腰を下ろした。その後ろには、カストも立っ

ている。

 腕からの出血は止血した。翼の傷は消えてしまった。

後は胸の傷口だけ。だが、正直言って危ないかもしれな

い。

「死なせないから・・・!」

 過去に守れなかった人がいた。目の前にいる天使の少

年、サエと同じ名前、同じ顔をした少年だ。今度こそ守

って見せる。死なせやしない。また救えなかったら、き

っと自分は死にたくなるぐらい後悔する。

 ユナは表情を引き締めた。

 

 ・・・空が白み始め、地平線から太陽が顔を覗かせる。

 椅子に座ったまま眠るユナの肩に毛布をかけ、カスト

は背伸びをした。昨夜からずっと立ちっぱなしだ。

 静かな寝息を立てるサエの寝顔を見て、カストは軽く

微笑んだ。昔――サエがまだ人間だった頃と少しも変わ

らない。

 サエは正真正銘、カストとスティヴァの子供である。

数年前、命を落としたサエを、スティヴァが甦らせたの

だ。『人造天使』として。

「今度は・・・守れたか。」

 カストはそう呟くと、部屋を後にした。

 

 数ヵ月後、サエはあの丘に立って、町を見下ろしてい

た。ずっと手に入らなかった光が、ここにはある。

 隣では、ユナが微笑んでいる。

『いつか分かる日が来るわよ』

「幸せ・・・か。」

 

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