或る日の綾波レイ




 

 私は綾波レイ。そう呼ばれている。呼ばれている? そ

う、私はそう呼ばれている存在。私は十六歳になる。私

は女。私は高校生。私は新南河内市立生野(いきるの)

高校七十一期生、一年α組IDナンバーIKI731。至誠は

神に通ず。玄関の古びた額。至誠って何だろう、神って

何だろう、それより不思議なこと、通じるって何だろう。

九月の明るい日、私が初めてこの学校に来たとき、そう

思った。私は転校生。私は元エヴァンゲリオン零号機パ

イロット。それが私? 私の紅い目が見たもの、見るも

の。

 この学校の古い校舎は破壊された。それは創立八十年

の記念の年のすぐ後のこと。地球の危機。人類の破滅。

そんな言葉を当時の人々はもてあそんだ。本当は心の底

で嗤(わら)っていた。気づかないままに馬鹿にしてい

た。そして、東京も大阪も消滅した。西暦一九四五年の

夏、原子爆弾で自壊するはずだった都市が、半世紀遅れ

て西暦二〇〇〇年に自滅した。繰り返し語られる歴史の

時間。それは、私の生まれた年。

「この額はそのときある教員が命がけで救い出したもの

であります」と高らかに校長先生はいった。命がけで守

るもの。命、私、あなた。

(私が死んでも代わりはいるから)

 西暦二〇一六年十二月二十四日、私は家に帰る。地下

の音が聞こえる。これは地球の息の音。二上山地下五〇

〇〇メートル極秘基地「山都」から地上へ出る長い長い

エレベータ。冬の光。私の好きな光。強くない光。痛く

ない光。夕暮れの光。木のない山。人のいない山。

 近鉄南大阪線に乗り換える。視線。男の子の視線を感

じる。「綾波レイとちゃうんか」。どこかで聞いた言葉、

訛り。そう、ここは南河内なんだわ。あの子と同じ言葉

ね、シンジくんのお友だちのあの子、忘れたわ。忘れる

こと。忘れることは生きることね。忘れられないこと。

なぜ? 深く沈んだ記憶を見つめるのは怖い。いやよ。

見つめないで! 

「綾波レイとちゃうんか」「あのエヴァンゲリオンの?」

「そんな有名人が近鉄に乗ってるわけないやんけ」「そや

けど、似てるで」「おまえ、なんかゆうて来いや」「なん

て」「綾波さんですか、て」「おまえが行けよ」「なんでや

ねん、おまえが言い出したんやろ」「おまえ、サインとか

欲しいんやろ、綾波レイの等身大タペストリーとか部屋

に飾ってるくせに。自分で行け」「なんやて、そんなこと

誰に聞いてん」「γ組の前田や」「あいつ、ゆるされへん

わ」

 私はため息をついた。私の等身大タペストリー。私は

有名人。なのにここは河内。いつまでも、そしてどこま

でも河内。救いがたいほどに河内。人類の危機とも無関

係に河内は河内を生きている。やんけ、とかいいながら。

やんけ、ヤンケ、YANKE。

 河内松原駅で降りる。私はなぜここにいるの。第三新

東京市から逃れてきたの。生野高校は電灯のある学校、

いえ違うわ、伝統のある学校。私はここで色々なことを

学ぶ。理科も古典も学ぶ。英語には曜日テストもある、

これも伝統。ストーブはない、これも伝統。真冬、今夜

はクリスマスイブ。そうね、クリスマス。私の誕生日。

日は落ちても明るくにぎやかな商店街。色とりどりの旗、

ケンタッキーフライドチキンのお店。ここは甘いケーキ

のお店ね。私はケーキが好きだったかしら。ケーキって

どんな味。そうかしら。私の心が買いなさいという。確

かめて。ケーキの味を忘れた十六歳なんて許せないわよ。

アスカならそういうわ。これはいくらですか。一五〇〇

円だよ。私ひとりじゃ食べきれない。懐かしいバターク

リーム。買いなさい。買うわ。買うの? 買うわ。あな

たが? ええ、私が買うわ。私のバースデーケーキ。ク

リスマスケーキ。くださいな。まいど。いいえ、初めて

よ。おもろい姉ちゃんや、まけとくで。ありがとう、一

五〇〇円。よっしゃ、人類のための消費税二十パーセン

トやけど、引いとくわ、一五〇〇万円いただきます。そ

んなには持ってないわ。おもろい姉ちゃんや、ろうそく

ぎょうさんつけとくで。いいえ、十六本でいいの、私は

十六だから。お誕生日? ええ。ほんなら、もひとつサ

ービスしたうなったな、何か言葉を書いたげよ。ほんと? 

さあ、なんでも。うれしかった。私ひとりのバースデー、

イブの夜に私だけの言葉がある。さあ、なんて書こ? じ

ゃあ、「私が死んでも代わりはいるから」と書いてくださ

い。

 ケーキのお店の元気のいいお兄さんの目がまじめにな

った。ほんまにそれでええんか。いいの、チョコレート

で書くんでしょ、そう書いてください。お兄さんはチョ

コレートを絞って一生懸命書いてくれた。私はその間、

サンタクロースの格好をしてチラシを配っているおじさ

んを眺めていた。幸せを運ぶサンタクロース。ベッドの

柱に靴下を吊す。私の靴下はいつもからっぽ。それでも、

毎年吊していたわ。だって、私の誕生日の朝なんですも

の。どんなに寂しくったって私は今まで生きてきた、た

ったひとりでも生きてきた、その自分をほめてあげたい、

だって私以外に誰が私をほめてくれるというの? 私は

命を懸けてエヴァンゲリオンを操縦する。何のために? 

人類のため? そう、いいえ。ほんとうは私自身のため

に。(逃げちゃだめだ)

 ケーキの箱をぶら下げて、私は家路につく。松原荘二

階B号室。廊下は真っ暗なの、いつも私が灯りを点す。

黴の匂いのする部屋、戦前からの部屋。誰もいない部屋。

私の心が置き去りにされている部屋。家賃は二万円、請

求書はネルフに。ベッド。テーブル。それだけ。ケーキ

を置く。冷蔵庫なんてない。ストーブなんてない。だか

ら、ほんとうは生野高校にストーブがなくても私は平気。

平気? そうよ。私には暖かさなんていらない。ベッド

に横たわる。天井の染み。私の心の染み。人間の顔に見

える、女の人の顔、お母さんの顔かしら、お母さん、私

の知らないひと。どこにいるの、どこにいたの。私と同

じ紅い目の人だったの? 何を見ていたの、何を思って

いたの、私を生んで嬉しかった? その日、西暦二千年

十二月二十五日の未明、人類の死滅の日、私を生んだ私

のお母さん、悲しい赤ん坊を抱いたお母さん、私はあな

たの顔を知らないけれど、それでもあなたを愛していま

す、なぜなら、生きなかったことよりも、いくら苦しく

寂しくても、生きてあることの懊悩を私は幸せだと思う

から。

 電話が鳴る。誰? 先生の声。「綾波、今日はなぜ休ん

だ」「体調が悪くて」。ネルフの機密をいうわけにいかな

い。「転入以来、三ヶ月経つが、欠席欠課の多いことには

驚いている、このままでは進級も危うい。保護者にも連

絡を取りたいが、それも判らない、一体どうなっている

のだね」「私にも答えられません、ただ、ネルフの碇ゲン

ドウさんにお尋ねください。ご心配をおかけして申し訳

ありません」

 理科の選択。物理にするか生物にするか。その選択の

意味。馬鹿げている。ごめんなさい、でも、そんな強い

られた選択に思い迷っている時間は私にはない。特務の

ために私は明日にも死ぬ。私が死んでも代わりはいる。

そのことを私は知っている。それは安心。それは寂しい。

私の寂しい心には色々なことがよく映る。紅葉の木立の

葉の色も映す。人類の未来も過去も映す。私の存在の意

味も映す。私の存在の意味? 私が死んでも代わりはい

るのに。私の存在の意味。逃げちゃだめだ。あなたにそ

こにいろ、と誰がいったの? 寂しい色、私はどこへ行

くの? お母さん!

 私は静かにケーキの包みを開けた。甘い匂い。私はケ

ーキにチョコレートで書かれているメッセージを読んで

驚いた。そして、久しぶりに(何年ぶりだろう)笑った、

快活に笑った、声立てて笑った。ぞくぞくした、子宮が

蠢いたように感じた。私は女。私は十六歳。恋もするだ

ろう。キスもするだろう。明日、少なくとも私は生きて

いるだろう。真っ白なクリームの上にはこう書いてあっ

た。

「あなたが死んだら、代わりはいない。あなたはキリス

トだ」
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