題名: 20221122-二頭の馬がはしるとき
二頭の馬がはしるとき
2022/11/22


木の葉は赤や黄に。
図書館の森にも落葉満ち敷く。

試験前日の木曜から
閉館は三時になります。

試験が終われば十二月。
文芸祭、クリスマス――。

三年生は、
授業によっては
一月の共通テストに向けて
問題演習をしています。

国語の問題集の中に
こんな詩が載っていました。

一行一行、
くっきりとイメージしながら読んでみると、
ふしぎなおもしろさがあります。


 馬と暴動  石原吉郎(いしはらよしろう)

 われらのうちを

 二頭の馬がはしるとき

 二頭の間隙を

 一頭の馬がはしる

 われらが暴動におもむくとき

 われらは その

 一頭の馬とともにはしる

 われらと暴動におもむくのは

 その一頭の馬であって

 その両側の

 二頭の馬ではない

 ゆえにわれらがたちどまるとき

 われらをそとへ

 かけぬけるのは

 その一頭の馬であって

 その両側の

 二頭の馬ではない

 われらのうちを

 二人の盗賊がはしるとき

 二人の間隙を

 一人の盗賊がはしる

 われらのうちを

 ふたつの空洞がはしるとき

 ふたつの間隙を

 さらにひとつの空洞がはしる

 われらと暴動におもむくのは

 その最後の盗賊と

 その最後の空洞である



〈われらのうち〉に
猛然と二頭の馬が走る。
その間から
もう一頭の馬が走ってくる。
来た!
この馬だ!
その馬は、
〈われら〉が立ち止まろうとしたときも、
〈われら〉を連れて、
外へ駆け抜ける!

問題文には、
詩人の荒川洋治さんのエッセイがついていて、
作者の石原が
シベリア抑留から帰国しても
自分の場所が持てなかった、
と書かれています。

また、
「詩は、
どこにも行き場のないようなものにこそ
なさけをかける」
とも。

石原吉郎(一九一五〜一九七七)。
一九三九年、応召、
一九四五年、ソ連軍に抑留され、
一九四九年、重労働二十五年の判決を受け、
シベリア各地の強制労働所へ。
一九五三年、スターリンの死去に伴う特赦で帰国。
二十〜三十歳代のほとんどを外地で過ごす。
帰国後詩作を始める。

私たちは生きていて、
ときに、
どこにも行き場がない、とか、
どれも選べない、とか、
そしてそれを誰にも伝えきれない、とか、
そういう感じを抱くときがあります。

文系か理系か。
A大学かB大学か。
合格か不合格か。
勝つか負けるか。
ここかあそこか。

石原の体験した絶望は深すぎて、
どのように想像しても届かないものかもしれませんが、
彼の書く詩が放射する感触は、
この日常を生きる
〈われらのうち〉にも息づき、
そこを駆け抜け、ふりほどき、
〈暴動におもむく〉力を与えてくれるように感じます。

問題は、
Aの選択肢か
Bの選択肢か
にあるのではない。

〈われら〉の同志は、
そのふたつの間隙を走るものであることを
この詩は教えてくれているように思います。


北野にある石原吉郎の本

『望郷と海』914/I2/1

『石原吉郎詩集』911/G16/1-26

『望郷と海』のエッセイは、
教科書にもよく載っています。
ぜひ読んで、
私たちが〈日常〉と呼んでいる世界のかけがえのなさを
深く感じ取ってほしいと思います。