題名:
[本の森-北野高校図書館-_00009] ちいさなこいのぼり
件名: [本の森-北野高校図書館-:00009] ちいさなこいのぼり
日時: 2017年5月1日 17:07
昭和の日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日。
連休の谷間、
図書館サポーターが
かわいいこいのぼりを立ててくれました。
昭和の日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日。
祝日の名前を並べてみると、
なんとなく、歴史を感じ、
こどもたちの明るい未来に思いをはせたくなります。
明るく光るみどりの満ちている未来。
NHKのEテレに『100分で名著』という番組があります。
四月の<名著>は、
三木清の『人生論ノート』。
1937年に書き始められたので、
80年前の本です。
でも、今もなおロングセラー。
以前はよく、三木の文章が国語の教科書にも載っていました。
今の人にはなじみがないのかと思いきや、
文庫本は出続けているし、
テレビの番組にもなっているし、
今の人の心を打つ何かがあるのでしょう。
http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/64_jinseiron/index.html#box04
『人生論ノート』にこんな一節があります。
「今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。
その極めて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。
これが現代の精神的状況の性格であり、
これが現代人の不幸を特徴づけている。」
自分、自分、自分。
自分はどう見られているか。
自分に価値はあるのか――
こんな観念に心を覆われ、
いつのまにか、しあわせということを見失っていたとしら?
グローバルな競争社会の中で生き残る。
憎しみの連鎖に覆われた暴力的な世界で生き残る。
絞りつくされ、悲鳴を上げる地球の上で生き残る。
生き残るためには、
しあわせなど、二の次だ。
そんな観念に世が覆われるとしたら?
番組を見ると、
三木の言葉を読み直したくなります。
深い思考は、
わたしたちに力をもたらします。
そして、希望を。
昭和の日、憲法記念日、みどりの日、こどもの日。
ちいさなこいのぼりに、
しあわせは、ここにあるよ、
と教えられているような感じがしました。
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(「幸福」について論じられている箇所からの抜粋)
今日の人間は幸福について殆ど考へないやうである。
試みに近年現はれた倫理學書、とりわけ我が國で書かれた倫理の本を開いて見たまへ。
只の一個所も幸福の問題を取扱つてゐない書物を発見することは諸君にとつて甚だ容易であらう。
むしろ我々の時代は
人々に幸福について考へる氣力をさへ失はせてしまつたほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることが
すでに何か不道徳なことであるかのやうに感じられるほど
今の世の中は不幸に充ちてゐるのではあるまいか。
しかしながら幸福を知らない者に
不幸の何であるかが理解されるであらうか。
今日の人間もあらゆる場合に
いはば本能的に
幸福を求めてゐるに相違ない。
しかも今日の人間は自意識の過剩に苦しむともいはれてゐる。
その極めて自意識的な人間が幸福については殆ど考へないのである。
これが現代の精神的状況の性格であり、
これが現代人の不幸を特徴附けてゐる。
良心の義務と幸福の要求とを對立的に考へるのは近代的リゴリズムである。
これに反して私は考へる。
今日の良心とは幸福の要求である、と。
社會、階級、人類、等々、
あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が抹殺されようとしてゐる場合、
幸福の要求ほど良心的なものがあるであらうか。
幸福の要求と結び附かない限り、
今日倫理の概念として絶えず流用されてゐる
社會、階級、人類、等々も、
何等倫理的な意味を有し得ないであらう。
或ひは倫理の問題が幸福の問題から分離されると共に、
あらゆる任意のものを倫理の概念として流用することが可能になつたのである。
幸福の要求が今日の良心として復權されねばならぬ。
ひとがヒューマニストであるかどうかは、
主としてこの点に懸つてゐる。
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○図書館にある三木清の本(書庫にはこの他にもあると思われます)
1 哲学入門 改版
2 パスカルにおける人間の研究
3 省察
4 人生論ノート
5 近代日本思想大系 27
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