韮山周辺


静岡県伊豆の国市・函南町周辺

冗談のように、狭い範囲に歴史・地学上の見ものが固まっています。
この土地には一体どんなパワーが眠っているんでしょうか?



源頼朝が幼少時流されていた蛭ヶ島。北条政子さんと結ばれ、平家打倒に決起した土地です。


後ろからみると狩野川が貫く盆地に田畑がびっしり。
昔も作物が良く実ったんでしょう。狩野川は室町〜江戸の絵師「狩野派」縁の名前とのこと。
左の山は、とても可愛い「沼津アルプスw」北端部。



頼朝・政子といえばこの人もはずせません。政子さんのお父さん北条時政さんのお墓。
側室との間に生まれた我が子を将軍にしようと、政子の子(=自分の孫)を手にかけようとした
お爺さん。人間の業の深さを感じずにいられません...。
鎌倉時代、源が三代で終わり北条家の独占支配になった立役者。怖いです。


伊勢新九郎(後の北条早雲)に滅ぼされた堀越公方足利茶々丸さんのお墓が、時政さんと同じ願成就院内にあります。
韮山という土地は、前北条だけでなく、後北条にも大きく関わっています。
願成就院は源氏が平家を滅亡させ、次いで第三の勢力だった奥州藤原家(+源義経)を成敗するにあたり
源頼朝軍必勝を祈願して時政さんが建立したとのこと。

奥州藤原家は大勢力だったんだから、義経をリーダーにして頼朝と最初から戦ってたら
歴史が変わっていたと思うんですがねえ。まあ後の祭りもいいところですが(笑)



ちなみに願成就院とはこんな所です。



昔の場所はこんな感じ。
ここを掘るといろんなことがわかるんでしょうね。
ちなみに後ろの山は足利茶々丸が伊勢新九郎の攻めに抵抗して籠ったという守山の一部。
で、今の願成就院はというと

かなり新しいです。明治初期の廃仏毀釈で荒廃してしまっていた寺を、昭和になって篤志家が浅山講
などで再建して下さったそうです。もっとも北条時政時代の寺は、茶々丸が攻められたときに大半が燃えてしまったらしいですが。
それにしても明治新政府の仏教弾圧でどれだけの文化遺産が消滅したことか。
タ○●◎のバー△□◎大破壊のことなんか言えた義理じゃないですね。
(暗殺の危険があるため、伏せ字はこれ以上ひらけません...)


願成就院に安置されているという、若かりし頃の運慶作の「毘沙門天像」「不動明王像」の写真。
ほかに「阿弥陀仏如来像」もあるとのこと。
当時貴族達に庇護されていた京仏師に対して劣勢だった運慶快慶ら奈良仏師は、その力強い
作風が東国武士に好まれ勢力を回復していったといいます。この作品も奈良仏師たちにとって
大事なものだったのでしょう。

願成就院でこんなものも発見。



モアイ像ではないようです。
何かと思って境内をみていたら下の看板がありました。



ここに自分の石造ですか。少し興味を惹かれるけど高価なのかなあ。


願成就院境内で見つけた「猿の腰掛」。ネーミングがいいですね。


ちなみに足利茶々丸を滅ぼした伊勢新九郎さんは、ここから数キロの所に山城を築きました。

韮山城跡。
池は築城当時からあり、城背面の防御に使われていたそうです。
伊勢新九郎(=北条早雲)は韮山城がお気に入りで、小田原城の大森氏を駆逐した後も、ここに滞在することが多かったとか。

堤防をまっすぐ歩いて行くと山中に郭や堀があるらしいのですが、この日は時間不足で入れずじまい。
また近いうちに探ってきてアップします。




韮山城跡から数分歩くと「江川邸」があります。


江戸時代末期の幕府側の数少ない(?)切れ者の代表格「江川太郎左衛門(英龍・坦庵)」
先祖はとても美味しい日本酒を作り、早雲を始め後北条の保護を受けた。
江川家は江戸時代初めから韮山代官家となり末期まで世襲し続けた。260年代官を世襲出来た家は
全国でも数家しかなかったという。歴代よほど優秀で忠実だったんでしょう。


今も残る江川邸の内部。進んだ学問を学ぶために佐久間象山や桂小五郎らもこの部屋に寝泊まりして勉強していたとか。
ちなみに城かと思うほど立派なお屋敷です。大河ドラマ「篤姫」の”実家”、TBS人気ドラマ「仁」の
「ペニシリン製造所」としてロケで使われ、宮崎あおいさんや大沢たかおさんらも来られていたとのこと。


江川さんといえばやはりこの韮山反射炉。鏡を有効に組み合わせて溶鉱炉内を千度以上にし、
鉄を溶かして大砲を鋳造し、欧米列強から日本を守ろうと頑張った。お台場に設置した全砲台の他、
28基の大砲が作られたとか。

これが大砲のレプリカ。これをお台場に並べた結果ペリーが怖れ、開国当初江戸湾が開港されず、
代わりに横浜が開港地になったという説もあります。現在の横浜を生んだ大砲といえるかも。



戸田(へだ)村での初の洋船「ヘダ号」(手前が模型)造船指揮。これも江川さんの偉業!!
黒船による日本開国後、ロシアも国交を結ぼうと下田湾内で露船「ディアナ号」が停泊していた時に
安政大地震が起こって津波でディアナ号が大破。ロシア人を国に帰すため、彼らが
持っていた洋船の設計図を見ながら数百人の船大工を集めて洋船をつくり、無事送還成功。
この作業により日本は西洋の造船法を吸収し、造船技術が飛躍的に高まった。
石川島播磨重工業はこの時の船大工を雇って設立。
(戸田は面白いことがたくさんあるので、後日専用ページを作ります。)


実は江川さん、日本パン界の祖なのです。軍用食料として日本初の乾パンを
つくりました。初めてできた4月12日は今も「パンの日」。
というか、諸事情により毎月12日が今は「パンの日」。


たまには地学の話も。
下写真は県道11号熱海函南線から函南(かんなみ)町南部をみたところ。
こののどかな町にいったいどんな秘密が?
ちなみにど真ん中の赤い建物は、牛とふれ合えて静岡県で3番目に美味しいアイスクリームがあるという
伝説の「酪農王国オラッチェ」。 写真一番奥の”連峰”が「沼津アルプスw」。



事件現場の丹那断層(たんなだんそう)に到着。


まずこの丹那断層(図の一番下)を観察し、丹那牛乳をオラッチェで飲んで牛と戯れ、その後一番上の火雷神社に向かって下さいと書いています。
(脳内変換による)


これがこの地域に約800年おきに起こる大地震で毎回1−2mずつ横ずれしていく丹那断層!
赤矢印は断層方向を示します。
この50万年くらいで1kmくらいずれたとのこと。ちなみにこの保存されたずれが起きたのは1930年の
北伊豆地震。あと800年後頃に来たらずれが1-2m拡大し、建物も壊れていることでしょう。



ついでに地下観察室にも。


一目瞭然ですね。地殻の動きのダイナミックさがわかります。
この断層は箱根南端まで伸びていて、箱根火山ができる元になったとか。


お楽しみの「酪農王国オラッチェ」

今は函南町に定着した感のある酪農。でも昔から盛んだったわけではないそうです。
元々は箱根火山など伊豆火山帯由来の湧水がよく出る地域で、清流をいかしたワサビ栽培の町だった
のですが、現JRの熱海トンネルを函南町の北に通した際に地下水層を遮断したらしく
トンネル工事以降、湧水が枯れてワサビが作れなくなってしまい、その時の国家補償金を用い、
町人が協力して今の酪農を発展させたのだそうです。地学と生活の接点を感じるオラッチェです。


駐車場が広く安心。


手作り感のある入り口。期待できそうです。


向上意欲に励まされます。時代は地産地消ですね。


確かに空気がきれいで空が広く感じられ、いるだけで健康になりそうな所でした。


のどかさとエキゾチックさを混ぜたような施設。

いろいろな動物に触れあえます。





みんな人になついてます。ほかにウサギコ−ナーや、癒し犬コーナーもあり、小さいお子さんにお勧めです。


ここの牛・ロバ・ヤギには直接エサをあげられます。

牛にベロベロなめられて服がベタベタに(笑) 猫が喜ぶ所を掻いてあげるととても嬉しそうでした(こっちの方が癒されます)。
しかしこのあと、ヤギがエサを嗅ぎつけてきて大変な騒ぎに!!(ヤギがこんなにエサに執着するとは知りませんでした...)


大人だし、ちょっとは学んでこないと(笑)


味が澄んでいてとても美味しかったです。白さが印象的。


気がついたらいろいろお土産を買ってしまいました(他に牛乳とバターも)。
ウシは院の待合室に飾っています。


オラッチェですっかりリフレッシュした後、函南町田代にある火雷神社へ向かいます。

どうやら函南町田代は「メルヘンの里」らしい。



田代に到着。
私の感性では、あまりメルヘンは感じられず残念。
でも地学脳で変換すると、数十万年ほど前は湯河原火山や多賀火山が何度も噴火を繰り返し、
この辺りにも溶岩流や火砕流が到達してすごい景色のこともあったんだろうな、と一人感慨。
このなだらかな「成層」振りからみて湯河原火山や多賀火山は流れやすいマグマの持ち主だったんでしょう。



そうこうするうち、というか上の写真撮影位置から振り返ったら、ここ「火雷神社」。
一見古びた小さな神社にも秘密が...。



10mくらい左に歩いたところから写真をもう1枚。上の写真に写ってなかった鳥居がこんな位置にあります。



今度は「やしろ」側にあがり、上から写真。
2つ上の写真における、「やしろ」に連なる右側石段の上から撮りました。

実はこの火雷神社も1930年の北伊豆地震の記録を保存しています。
火雷神社は、さっきの断層地下観察室の地区から何キロも離れた所にありますが、
丹那断層は約30kmにわたって存在する断層で、この火雷神社では、石段と鳥居の間で横ずれが起こり
(木の矢印が断層方向)、本来この階段から降りて真っすぐくぐれたはずの鳥居が
時計回りに少し回りながら左に横ずれし、しかも破壊されて、元鳥居だった石材が地面に落ちたまま。
そしてこの現場を保管するために、もうひとつの「参道石段」とそれ用の新しい鳥居を曲げて作った、という種明しです。

人間の寿命ではわずかしか感じませんが、日本はゆっくり確実に形を変えていっているんですね。
まあこの伊豆自体(丹沢などもそうですが)、フィリピン海プレートにのって
海からやってきて日本列島に付加してきたんですから。




旅の終わりはやっぱり温泉。伊豆はどこに行っても温泉があります。
ドクターフィッシュに足の角質を取ってもらって、絶景の露天風呂に入り、清潔でとても良い施設でした。


Drフィッシュの図。
これは私の足ではなく、WEBからつまませてもらいました、念のため。



上は少しグロかったので、個人的に超お気に入りの「沼津アルプスw」の雄姿で締めましょう。

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