感謝の種々相 |
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感謝の種々相 宇宙絶対統一神(天照大御神:大光明遍照)の大生命波動の放射を心に感受するときに、自然に湧き出てくる心の状態が感謝である。感謝とは、嬉しいこと、楽しいこと、有り難いこと、美しいこと、素晴らしいこと、神秘的なこと、善いこと、調和したこと、完全なこと、等々の神より現れたすべてに対して、その光明波動を心に感受した幅広い心の状態である。 草花が美しく咲いているのを見て、ああ美しいなあ!と感ずるのが感謝。 小鳥の楽しいさえずりを聞いて、ああ楽しそうだな!と感ずるのが感謝。 大自然の雄大な眺めに、ああ素晴らしいなあ!と感動するのが感謝。 父母の無償の愛に、ああ有り難いなあ!と涙を流すのも感謝。 仲の良い兄弟を見て、仲の良いのは美しいことだ!と感ずるのも感謝。 赤ちゃんの誕生を見て、その不可思議な力に感動を覚えるのも感謝。 無限無数の恵みが、無償で与えられていることに気付くことが感謝。 夜空の星を眺めて、その神秘に心を打たれることが感謝。 日々瞬々刻々偉大なる力に生かされていることに心を向けてゆくことが感謝。 このように数え上げてゆくと、感謝は光となって、全大宇宙に無限に満ちわたっているのがよくわかるのである。 どのようなものに対しても感謝を積み重ねてゆけば、その感謝は無限に深められてゆき、感謝の極に至れば、それが天照大御神の現れ、天照大御神そのものであるという実感が得られるのである。「鰯の頭も信心から後光が射す」と言う諺があるように、例え鬼のような姑が存在するとしても、いつも心の中で「ありがとうございます」と唱え続けてゆくことができるならば、いつか必ずその姑を天照大御神の現れ、天照大御神そのものと実感できるときがくるものである。だから、どのような方便を使ってでも、感謝を積み重ねてゆくということが大切なのである。例えば、もしその姑が存在しなかったら、自分の愛する夫はこの世に存在することはできなかったのだ、ましてや、かわいい子供達もこの地上に誕生することができなかったにちがいない、ああ、ありがとうございます!と感謝するのも一つの方便である。また、自分の過去世からの悪業を神様がふりかわって消して下さっている姿が、姑の今の鬼のような姿なのである、ああ、神様、御免なさい。ありがとうございます。と感謝するのも一つの方便である。 闇は光の存在を浮かび上がらせ、光をより素晴らしく感じさせてくれるように、病は健康を、死は生を、悪は善を、貧しさは豊かさを、醜いものは美しいものを、戦争は平和を、と言うように、マイナス面は常にプラス面を浮かび上がらせて、プラス面をより素晴らしく感じさせてくれる大きな働きをしているのである。だから、いつもマイナスの極に立って、すべてを光一元に眺めて、感謝を積み重ねてゆくことができたとすれば、プラス面を感受するときには、その感謝は、無限の無限に、大きく深められたものになっているにちがいない。身体に万病をかかえている立場からすれば、千の病も、百の病も、十の病も、より素晴らしい、有り難い、幸せな状態である。このように見れば、当たり前の健康がどれほど有り難いものであるかは言うまでも無いことである。 幸せも悟りも、感謝の広がりと、深まりに比例して、無限に大きく深いものになってゆくのである。 |