無限の無限の幸せが一杯!No.49
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 悟る・解脱するとは、自由自在な本心の自分に戻ることです。一切の縛りから自由になることが、悟り・解脱なのです。本心の心で自由自在に生きることが、無限の無限の幸せを感受する為には必要なのです。何かに縛られているというのは、心が奴隷状態になっているのです。心が奴隷状態になっていては、決して真実の幸せを感受することはできないのです。心が自由自在な主人公の立場に立ってこそ、真実の幸せを掴むことができるのです。それでは自分を縛っているのは、一体何者でしょうか?その正体さえ突き止めれば、この問題は簡単に解決するのです。

 自分を縛っているのは、果して外部環境にあるものでしょうか? 環境の所為にしたり、他人の所為にすることが、本当に正しい考え方なのでしょうか? もし自分以外の何かが、自分を縛っているのであれば、その何かが変化して、自分を縛らなくなるまでは、永遠に自由にはなれないということになるのです。自分以外の何かが、自分に自由を与えてくれるのを待っていたら、それは永遠に訪れては来ないでしょう。何故なら自分を縛っていると見えるものは、余りにも多すぎるし、その変化を期待することは、不可能に見えるからです。だからこの考え方では、決して自由にはなれないのです。

 本当の自由を得る為には、『自分を縛っているのは、自分自身なのである!』という考え方を受け入れなければならないのです。神さまは自由の本体ですから、神さまの分身である本心の人間にも、同じ自由の徳性が与えられているのです。本心の人間は本来、自由自在なのです。決して何者にも縛られないのが、本心の自分なのです。この本来自由自在な本心の自分を忘れるところから、種々様々な縛りが夢・幻のように現れてくるのです。形に縛られていると見えるこの世も、本来自由自在な自分が、愛の心を表現する為に、自分の自由意志で、形の自由に限定を加えた姿なのです。決して心の自由は縛られてはいないのです。

 しかしながら自由自在な本心の自分に戻るまでは、形の縛り・心の縛りがまだ残っているかのように錯覚してしまうのです。五欲の心に代表される“求める心”は、他人の自由を縛ろうとする業想念の心です。自由自在な本心の心は、決して他人の自由を縛ろうとはしないものです。本心の自分は、他人に対して縛りになるような言葉を使うことも無いのです。だから自分の使った言葉が自分に帰ってくる、自業自得の法則に照らしてみても、自分が縛られるということは決して有り得ないのです。本心の自分は何事をする場合も、他を縛ろうとしないから、決して縛られることは無いのです。業想念の心で他を縛ろうとする時に、それが自分に返ってきて、自分自身を縛ることになるのです。

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