無限の無限の幸せが一杯!No.40
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 「神さまの愛」に対する「信じ方」にも、色々な「信じ方」の状態があるのです。

(1) 絶対に信じない。(何が何でも、神さまの愛を否定し、拒絶するぞ。)

(2) 信じられない。(神さまの愛を疑いたくなるような事象があって、信じられない。)

(3) 信じたくない。(そんな目に見えないものに頼っても仕方がないから。)

(4) わからない。(信じる方が良いのか、信じない方が良いのか、決断がつかない。)

(5) 信じたい。(神さまの愛が無いとすれば、未来に希望を持てないから。)

(6) 信じている。(移り変わる姿には疑問もあるが、神さまの愛は信じている。)

(7) 絶対に信じている。(すべての事象に神さまの愛を感じ、深く確信している。)

 信・不信の心の状態は、どこから生まれてくるのかと言うと、その人が過去にどんな言葉をどれだけ心に蓄積してきたかという、その総決算の中から生まれてきているのです。神さまの愛を否定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者には、不信の信念が自然に培われているのです。逆に神さまの愛を肯定する類の言葉を、数多く心に蓄積してきた者は、自然と神さまの愛を信じられる心の状態になっているのです。言葉がその人の信念を作り上げてきているのです。

 真実に存在しているものは、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」です。どんな言葉で否定しようとも、厳然と実在している「絶対の愛」は、決して消えて無くなることは無いのです。また神さまの「愛の表現」も、信じる・信じないということとは無関係に、真実の表現として表現され続けているものです。ただ神さまの愛に対して、「信」のある者には、神さまの「絶対の愛」と「愛の表現」が感じ取り易く、逆に「信」の無い者には、感じ取り難くなっているだけのことです。

 神さまの愛に対する不動の堅信は、神さまの愛を一途に思い続けることによってのみ、養成されるものです。一切の現象は、「信」の心で眺めた時に、神さまの愛の現れと感じられるのです。「不信」の心では、幾ら眺めても、神さまの愛は感じられないものです。不動の堅信は、一切の現象に神さまの愛を感じ取り、また現象を超越して絶対の愛を把握するようになるのです。現象の移り変わる姿に一喜一憂しているようでは、本当の信・不動の堅信はまだ無いのです。だから神さまの愛の助けを、十分に感受できないものです。「信」無き者は、折角の神さまの愛の助けをも、感じ取れないでいるのです。「信」深き者こそ、幸せです。神さまの大きな大きな愛の助けを、いつもいつも大奇跡として、目の当たりに感じ取ることができるからです。

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