雪山偈 |
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雪山偈(諸行無常偈) 「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」 宇宙のすべて(諸々の移り行くもの)は、常に変化変滅していて一瞬たりとも同じ状態に止まることが無い。是(これ)が生まれたり、滅んだりしている現象世界の真実の姿・状態・働きなのである。(前半) この儚い空しい現象生命に執着することをやめて、「移るもの自ず移りて自ず消ゆ」というように生死を達観し超越するとき、煩悩を脱却して、自由自在・真清浄の永遠の生命の自覚に到達し、法楽(無限の喜び)をもって活きるようになるのである。 雪山童子〔釈尊が過去世において雪山(ヒマラヤ)で修行したときの名〕が修行中に、羅刹(鬼)がこの偈の前半を口ずさんでいるのを聞いて、後半も是非聞きたいと思って、是非とも教えて欲しいと頼むと、羅刹は「只では教えるわけにゆかない、お前の生命と引換えなら教えてやってもよい」と答えた。その偈の後半をどうしても知りたかった雪山童子はためらう事もなく、「もし後半の偈を教えてくれるのなら、教えてくれた後にこの身体を差し上げよう」と約束した。そしてその偈を聞いた後に、羅刹にその身体を食われたのであった。真理を求める者の態度はこのようでなければならないのである。 いろは歌(47字)は「雪山偈」の意を表している。 色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ酔ひもせず。 永遠の生命を自覚(悟りを得る)するには、移り変わる姿に囚われなくなることが必要である。現象生命に執着したままでは、永遠の生命を自覚することは不可能なのである。思い通りに生きようというのは、業想念の奴隷になっている状態であって、他に求める心が少しでもあったら、移り変わる姿に囚われているわけである。真理に・神さまに自分を与え尽くすことによってのみ、現象生命に執着している自分が消えて無くなるのである。古神道では至忠・至孝・至悌の生き方、絶対神への絶対奉仕が悟りへの道であり、絶対神の導きのままに、他への奉仕(謹んで献身する)を徹底的に実践してゆくのである。 |