第一章 002
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旧約聖書 創世記 第一章     (002)

 「・・・神光あれと言給ひければ光ありき 神光を善と観給へり・・・」


 絶対神が、絶対神の御心が動き出すとき、その自然な発露として、容相・音声・生命の三つが一つになって生まれ出て来るのである。それを神の言葉という一面から眺めると、神の言葉が発せられると同時に、その言葉通りの、生命の躍動する形有るものが存在していることになるのである。神の言葉とは、この世の人間が使用しているような単なる言葉では無くて、その元になる言霊(ことだま)としての言葉なのである。言霊とは、神の全神性・全神力・全相象であり、一切のものを生み出す創造の働き・力であり、一切を生かしている“いのち”そのものである。

 古事記の伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、宇宙絶対神の創造の働き(神名は働き)の時の名称である。ミコト(命)は御言(みこと)であり、至尊(みこと)であり、詔命(みこと)である。御言(みこと)とは、最高の権威と力を備えた言霊であり、一切万神万生万有を生かす生命の根源(大生命)であり、全大宇宙の一切万神万生万有を完璧に産み現す創造力であり、一切万神万生万有の御親である。至尊(みこと)とは、伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、唯一絶対神である天之御中主神(隠身神)の内実の全て〔一霊四魂一元四体の根源力、高天原(全大宇宙)の三大根本神力(遠心的発射螺旋状神力・求心的凝集螺旋状神力・円融的交流螺旋状神力)、等々〕を総括し、継承しているところの、尊厳極まり無き・最高の・絶対の・中心(極枢)者であると言うことである。詔命(みこと)とは、伊邪那岐命伊邪那美命二柱神が、天之御中主神の御心のままに、無我無心無為全託虚心坦懐の心になって、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕していると言うことである。それ故に、無限無数無量の・永遠に新しい・同じものは何一つ無く・同じことは二度と繰り返さない・最高表現を、自由自在に創造し続けると言う、絶対創造の働きとなるのである。

 神(絶対神)が、光あれと言給ひければ(言霊となって、創造の働きを成す時は)、光ありき(全徳の無限の無限の輝きが、一瞬一瞬新たに新たに新生する)なのである。神の絶対創造は、マイナス無限大からプラス無限大に至る、全徳の無限の無限の輝きが光一元に表現されている、至善至美至妙完全円満大調和の最高表現である。従って、神光を善と観給へり、なのである。神が創造した最高表現を、神自ら善と観給うているものを、人間が勝手に悪と観るのは、人間の観方が間違っているからである。

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