第一章 001 |
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旧約聖書 創世記 第一章 (001) 「元始に神天地を創造り給へり」 古事記の冒頭「天地初発之時 於高天原成神名 天之御中主神」と同意義である。即ち天(あめ)〔無限に無限に大きい全大宇宙(宇はすべての空間、宙はすべての時間)〕の御中(中心・太極・本源・最深奥・根源)なる主神〔絶対神(隠身神、次の四つの働きを総括):創造神(仮凝身)・統一神(耀身神)・自在神(駈身神)・限定神(限身神)〕・〔極身(きみ)(絶対の愛をもって一切を大調和させる中心者)・御親(みおや)(生命の根源者・大生命)・最高の指導者(叡智者)〕が、高天原(たかあまはら)(全大宇宙)という容相(成り)・音声(鳴り)・生命(生り)になる、神名(働き)をする時に、天地(あめつち)〔天(あめ)は無限に大きいもの、地(つち)は無限に小さいもの〕が、初(はじめ)(端見え・有限の相象)となって、発(おこる)(発生)した。 すべての時間・すべての空間を超越して、厳然と実在する絶対神は、一切の相対・表現・現象の奥底に沈潜している隠身(かくりみ)神である。その隠身神が自然に動き出す時に、その容相・音声・生命が、宇宙大劇場に於ける名演技となり、一大交響楽の妙なる調べとなり、尊厳無比の生命の営みとなって現れるのである。その創造過程を眺めると、絶対が相対の両極に分かれ、それらを完璧に組み合わせることによって、無限の無限の妙趣ある表現が生み出されているのである。従って神と創造されたものとは、本来別個のものでは無くて、不離一体のものなのである。即ち絶対なる神が、相対・表現・現象である天地となって現れているのである。これを神天地を創造り給へり、と言うわけである。 元始(はじめ)とは、端(はし)見えであり、絶対が相対となって現れ、無限が有限となって現れることである。一切創造の始源が元始である。それは一瞬一瞬新たに新たに、連続して起こっているものである。従って天地の元始は、常に“今”なのである。“今”の中に過去・現在・未来のすべての時間が表現されるのである。例えば草花の一生には、種蒔かれる状態から実を結ぶ状態までの、すべての表現の姿が既に存在しているのである。その表現の一つが、この世に浮かび上がって来たのを見て、それを現在の双葉の姿、或いは蕾の姿というように捉えているのである。どのような現在の姿を見る場合にも、同時に過去の全て・未来の全ての姿を見通すことが、“今”を“元始”を把握することになるのである。天地の元始は、何億年前何兆年前というようなものでは無いのである。 |