禊祓の根本義
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禊祓の根本義

 神道における六根清浄の作法のことを一般に禊祓と言っている。
 それは醜汚を去り、罪悪を払い去ること、即ち、一切の所有物を放棄して、赤裸の清浄体に成ることである。即ち、八十禍津日とか、大禍津日とか言う禍(マガ)を払い去って、神直毘に、大直毘に、直く正しく清まることである。

 本来においては、私有物というものは一つも無い。すべては神のものである。私有物というものは無いのに、私有物を持って喜んでいるのは、夢の中で宝石を拾って喜んでいるのと同じである。真我を見失って偽我の奴隷になっている迷妄虚無の姿である。真我の自覚に到達するとき、無一物が無尽蔵であるのを自覚して、所有に対する一切の執着、争いは無くなるのである。

 地獄の方向に向いていると、地獄の外には何も見えない。地獄の解決を地獄で図ろうとしても、地獄に深く入り込むだけである。クルリと光明の方向に向き直ってこそ、一切の問題解決の道がある。無明によって、霊眼を覆い、光明界を暗黒に見ている感がある。しかし、暗黒界で心を反転して、暗い所から明るい方を見れば、光明はより一層はっきりと見えるのが道理であって、暗黒界から光明界に復帰して、赤裸の潔斎をすれば、光明界が透き通って見えてきて、大達観の境地に至ることができるものである。

 伊邪那岐神の禊祓は、天上の上の上まで、地底の底の底までを達観して、顕幽生死を脱却し、天之御中主神の立場に立脚して、万世一系、天壌無窮の己が身の久遠の大生命を顕示することであり、正しい神統(八神統64神)の承継を開明することである。禊祓は祓うことよりも自覚に主眼があり、禊ぐことよりも根本の顕示に要点がある。一切の持ち物を投げ捨てたり、身を海水ですすぐのは、本来の顕示に対する方式に止どまるものである。

 禊祓の最も根本であり、かつ最も重要な眼目は、宇宙乾坤、顕幽生死を明瞭にすることである。そのために神統の始源を開明することであり、それによって万世一系、天壌無窮の久遠の大生命を自覚することであり、それぞれの天命を鏡を見るがごとくに明白にすることである。そして必然の神業を徹底してゆくことである。

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