2.酒とウェットン
〜ストレンジ・デイズ2001年8月号インタビューを考える〜

〜ジョン@ウェットン信者さん寄稿〜

 「仮面の忍者 赤影・青影・白影」
 いや違う。
 「ハッチ・ポッチ・ステーション」
 いや違う。
 「ロック・ミーツ・アート」
 これも違う。
 「女・酒・ロック」
 これである。

「女・酒・ロック」――これは、ロック・ミュージシャンにとって欠かすことの出来ない「三種の神器」であり、一般に「ロック」といえばこのイメージである。
 もちろんこの類型的なイメージに当てはまらないミュージシャンもいるが、本稿の主人公、ジョン・ウェットンにはピッタリである。
 52歳の高齢にして(しかもバツイチ――奥さんとは離婚したらしい)いまだに“Love”を高らかに歌い上げるさまはスキャンダラスだと言わざるを得ないし、コンサート終了後に飲み屋に直行するさまは、日本を支えるサラリーマンの「仕事帰りにビアホール」にも通じるものがある。
 プログレだとかポップだとかいった音楽性を抜きにすれば、ジョン・ウェットンは非常に類型的なロック・ミュージシャンなのである。気持ちはロケンローであり、横浜銀蝿である。

 話を戻そう。
 男気溢れるロック・ミュージシャンの三種の神器「女・酒・ロック」――。しかし、逆にこれが命取りとなることも多々あるのだ。
「女」が命取りになり得るのはロック・ミュージシャンでなくとも同じだが、「ロック」が命取りとなるのは当然ロック・ミュージシャンだけである。象徴的な例としてシド・バレットのことを考えてみても良いが、ロック・ミュージシャンたるもの「ロック」を生業としていくのだから、それに対して真摯で――あるいは真摯でないような態度をとることに真摯で――あることは当然と言える。
 さて、残るは「酒」である。
 昔からロック・ミュージシャンは酒で命を落とすことがよくある。一番有名な例はジミ・ヘンドリックスであろう。BBC制作の伝記番組でもやっていたが、彼は酒による吐瀉物が喉に引っかかって死亡したのである。レッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムの死因もこれであった。あるいは命こそ落としていないが、近年また「レイドバック」したといわれるエリック・クラプトンの第一期レイドバックのことを考えてみてもよい。
 このように、「女・酒・ロック」はミュージシャンにとって命取りになることがある。
 しかし、その危険なイメージがあるからこそ、「女・酒・ロック」というイメージそれ自体が「ロック」なのだ。

 さて、ここから本稿の主人公、ジョン・ウェットンの登場である。
 「女・酒・ロック」のジョン・ウェットンは、やはり無類の酒好きで、一時期はアルコール中毒(になりかけ)であったようだ。雑誌などのインタビューを見る限り、最近はその心配はないと思っていたが、また、やってしまった。
『ストレンジ・デイズ』2001年8月号の来日公演時のインタビューである(以下、記述がない強調部分はすべてそこからの引用)。

 ジョン・ウェットンが、イアン・マクドナルドを伴い、コンサート・ツアーのために来日した。彼らのインタビューは、本誌でもすでに何度か行なっているし、せっかくふたりが一緒に来日するのだから、ちょっと趣向を変えてやってみよう、というのが編集部の意向だった。そこで、インタビューではなく、ふたりの対談という形で記事をまとめる予定だったのだが、前夜のコンサートの盛り上がりにものすごく気を良くした彼らは、そのまま夜の東京へと繰り出し、朝までがぶ飲み。昼近くになってもサケが抜けない(それでもイアンは比較的冷静だったが、ジョンの方はほとんど泥酔状態)ふたりにあまり細かいお願い事はできず、結局、対談のような、普通のインタビューのような、どっちつかずの記事になってしまった。まぁ、たまには彼らのこんな人間味あふれる一面が紹介されるのもいいんじゃないだろうか。発言が暴走気味のジョンを、ときにイアンが軽く諌める場面もあって、そんなところにふたりの性格の違いが良く出ていた。

 これでは、ただの酒好きのオヤジである。
 あの素晴らしかった(らしい)二日間の来日公演を終えた喜びを、音楽による浄化作用以外に、食欲の、いや酒欲のお祭り騒ぎで浄化するのも確かに良いだろう。だが、翌日の昼過ぎまで泥酔ではちと困るのである。
 そして、このインタビュー記事には写真も載っているが、明らかに太っているウェットンに対して、ほぼ同年齢のマクドナルドの格好良さが目立つ。マクドナルドなら、スーパーのチラシによくある、「お父さんの普段着」のモデルも務まるが、ウェットンはせいぜい肉屋の主人だろう。
 ただでさえプログレ馬鹿から評判の悪いウェットンが、飲んでも冷静な(そしてお父さんモデル級の)マクドナルドと対比させられることによって、さらに評判を落としてしまうことにもなりかねないのだ。
 まぁいいだろう、プログレ馬鹿はほっておけばよいのだから。

 さて、飲み屋で熱く語っているオヤジどものように、一般に酒を飲むと人は多弁になり、本音が出やすくなる。ここでのウェットンもまさにそれである。それゆえ、ここでのウェットンの発言を検証することは、彼がどういう風に物事を考えているかを知ることになるのである。ちょうど、飲み屋のオヤジどもの言葉を聞くように。

 以下、このインタビューにおけるウェットン、マクドナルドの発言を引用し、ちゃちゃを入れていく。
 まず、ジョン・ウェットンについての批判の最たるものについて。

――ソロだけでなく、クリムゾンやUKの曲もかなりの割合でやっていましたね。
ジョン「俺自身は、どの曲であろうとジョン・ウェットンとしての演奏をやっているつもりだけどね。そりゃもちろん、ファンが何を望んでいるかは承知しているつもりだよ。出来るだけ最新アルバムの曲を演奏したいとは思っているけど、ただそれだけだと、物足りないという人もいるだろうからね」

 ジョン・ウェットンは「自分のソロ曲をあまり演奏しない」と批判されることがあるが、そういう批判をする人の多くはキング・クリムゾンのファンである。ライヴで「スターレス」のイントロが聞こえてくれば他の曲のときよりも大きな拍手を喜んでするくせに(事実、ソロの曲よりクリムゾンやU.K.の曲の方が反応が良い)、ライヴが終わってからは「クリムゾンの曲に頼っている」等と批判を加えるのである。そういう輩は、昔の曲をやらなければやらなかったで、「ソロの曲はポップなだけでつまらない」とでもいうのだろう。
 ウェットンは、このような自身の置かれている微妙な状況を理解し、あえてキング・クリムゾン時代の曲を演奏したり、プロッグフェストに出たりしているのである。

 次に、作曲とテーマについて。

イアン「今、作品を作っていくうえで、特に関心をもってるテーマとかある?」
ジョン「テーマっていうのは、あまり考えるほうじゃないな。音楽っていうのは、良い歌詞と良いメロディとが合わさっていることが全てにおいて優先されるべき基本だと思うよ」
ジョン「流行やトレンドに左右されることはないけど、俺が書く曲は、全て自叙伝みたいなもので、今まで自分がかかわってきた経験に基づいていることだけは間違いないね」

 ここでウェットンは、音楽においては、「良い歌詞と良いメロディ」が大事であって、「テーマ」は大事ではない、と言っている。これは一見矛盾に思える。なぜなら、テーマというものは歌詞やメロディの根底に位置するものだからである。プログレのコンセプト・アルバムではないが、そこに明確なテーマがあってこそ、歌詞なりメロディなりを書くことができるのである。
 しかし、ウェットンにとっての「テーマ」とはそのような物ではないのだ。次の発言を見ていただきたい。

 詩を書くようになるのに一番大きなステップになったのは一人称視点で書くことで、「私」「こう感じている」「これが私だ」っていう風に書いていくことさ。それは自分の気持ちを他人に悟られることだから、本当に危ないことなんだ。70年代にはキング・クリムゾンやUKのために歌詞を書いたけど、「私」とかはめったに使っていないんだ。何故かって?他のイギリス人や作家と同じように、生まれつき自分のことを語るのが決まり悪く感じるのさ。僕がそれを克服して、初めて自分の感情を歌詞に表現したのが82年のエイジアなんだよ。実際1曲目は「I」から始まってるだろ?(I never meant to be so bad to you...)。あの時から自伝っぽくなったんだけど、エイジアで91年に南アメリカをツアーしている時に、ステージの上で「僕はもう41にもなるけど、音楽では満足してないなぁ」と思ったんだ。他の人はそれを僕よりうまくやっていて、日記を読んでるみたいな歌を書くシンガーソングライターはとってもパーソナルなことを発表していたんだ。その時、僕には燃えるような野望が芽生えてね。『ヴォイス・メイル』はその中間地点だね。『アークエンジェル』は僕が今までやった中で一番それに近いね。
(1997年3月17日 ビッグ・バン・マガジン)

 つまり、ウェットンにとっては楽曲におけるテーマ、というものはなく、あるとすればそれは「自叙」なのである。そして、自分の経験に基づくことを歌詞にする過程でそこに新たな「歌詞のテーマ」が生まれているのである。
 このことについては、同じく自分に関することを書いたジョン・レノンや、あるいはウェットンの敬愛するジョニ・ミッチェルなどの日常性と幻想を基本とするフォーク・シンガーにも通じる所がある。

――今のクリムゾンも「レッド」なんかを演奏してますよね。その辺、あなた自身、特に意識して差別化してるところはありますか?
ジョン「たまにやってるっていうくらいだろ? ま、確かにやっちゃいるけど、重要なのは、あの曲のオリジナルを演奏したのは俺だって言うこと。(キッパリと)そうさ、そこが絶対的なちがいなんだ。<クリムゾン・キングの宮殿>は俺のオリジナルじゃないけど、あれはイアンが書いた曲だから取り上げたんであってね。彼にとって、それを演奏するのは当然のことだろう? ま、日本のファンがあの曲を好きだからって言うのもあるんだけど」

 この発言は明らかにおかしい。「レッド」のオリジナルを演奏したのは確かにジョン・ウェットンである。彼はベースを弾いた。しかし、当然ロバート・フリップも「レッド」のオリジナルを演奏しているし、さらには作曲もフリップである。「クリムゾン・キングの宮殿」を作曲したのがマクドナルドだから演奏しても良い、というのであれば、「レッド」を作曲したのはフリップであるから今のキング・クリムゾンも「レッド」を演奏しても良い。
 しかし、これは泥酔で論理がパッパラパー状態の発言なので大目に見ることにしよう。
 実は、この事についてしっかり答えているインタビューが他にあるのだが、その要旨は「『スラック』のキング・クリムゾンの演奏は、70年代の<レッド>に比べると実験精神にかけた安全なことしかやっていない」ということである。
 なるほど、そういう風に考える事も出来るだろう。
 キング・クリムゾンの2000年の作品『コンストラクション・オブ・ライト』で十全の開花を見た「70年代の手法とと80年代の手法の折衷」という一大テーゼは、95年の『スラック』ではまだまだ中途半端に終わっているようにも思えるからである。

 しかし、そうやってまともに現在のキング・クリムゾンについて言及したインタビューがあるにもかかわらず、それが日本では出版されていないため、一般のファンはその発言の存在を知らないのだ。
 そして、この泥酔論旨メロメロ発言が載ったのは『ストレンジ・デイズ』という日本のプログレファンの多くや音楽ファンが目にする、比較的発行部数の多い雑誌であるのだ。
 まともな意見があるにもかかわらず、泥酔という状況下での取材であったためにそれが伝わらず、読者に誤解される。
 これはまさしく、「酒」で身を滅ぼしているのではないだろうか。
 やはり、「女・酒・ロック」は……。

 しかし、良い知らせもある。

イアン「目下、新しいアルバムのために準備をしているところだよ。そうだな、たぶん前作とはまったくちがう感じになって、マクドナルド&ジャイルスなんかに近い、一曲10分とか15分くらいの大作が多くなるんだろうね。いつごろ出せるかはまったく不明だけど、ジョンは作曲面でのよきパートナーだから、ぜひ君にも協力してもらって、いいアルバムを作りたいとは思っているんだ」

 マクドナルドが明確な方向性を示せなかったため、アルバム自体が微妙なものになってしまった前作『ドライヴァーズ・アイズ』に続く、マクドナルドの次のソロアルバムが出るのである。しかもそれは、明確な方向性と意志を持った『マクドナルド&ジャイルズ』に近いものになる、と。さらにはウェットンも作曲で参加する、と。当然ヴォーカルでも参加することになるのだろう。
 何やらとんでもない作品ができそうで、今から楽しみである。

(text by:ジョン@ウェットン信者)