ジョン・ウェットンについて
〜まずは活動全体を通して〜
ジョン・ウェットンは不憫な人である。
そのキャリアが長いゆえに、ファン層も様々なものがあり、またファンはクリムゾン現象よろしく「理想のウェットン像」を捏造してしまうのだ。そうして「あの頃のウェットンはどこにいった」だとか「ベースが彼らしくない」だとか「素直にプログレに戻ってこい」とか言われる。そんでスターレスをフル・レンジで演ってみれば「これはスターレスじゃない(これもその曲への偶像崇拝ですね)」とブーイングの嵐。何だよみんな会場じゃ盛り上がってるくせに後から文句言いやがって。
なのに、なぜだか「もっとポップになっていいよ」という人はなかなかいないのだな。
それはやはり、彼のキャリアの中で最も輝かしかった時期はクリムゾンにあり、というのが一般的プログレ見解だからだ。おいおい、勝手にそう決めてくれるなよ。セールスだとエイジアの方がぜんぜん輝かしいし、ポップネスの追求度合いで言えばソロ・アルバムの方が上じゃないか。
どうしてジョン・ウェットンという「人間」の基準を「プログレ」に求めてしまうのか?
それは他のバンド/ミュージシャンの場合と同様である。それぞれにとっての「黄金時代」の像を、リスナーは情報や自分の判断によって作り上げ、それを基準としてしまう。それは「前進する」という意味を持つ「プログレッシヴ・ロック」に於いては重要なことだろう。時折(いや、しょっちゅう)勝手に作られていったプログレの基準に即して判断するため、喩えばクリムゾンの新作がその基準に即していないだけで低い評価を与えられてしまうこともあるのだが(『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』アルバム評第2稿参照)。
だが、ウェットンの場合は既に土壌が違う。
彼はエイジア以降、明らかにポップネスを追及する姿勢を見せていた筈だ。つまりそこは、プログレなんぞという範疇の外である筈なのだ。だのに、リスナーはプログレ基準で彼を捉えようとする。そしてどんなに売れようとも「これはプログレじゃない」と否定し続ける。
当たり前だ。
プログレじゃないんだもの。
やはり解りやすい例が、エイジアであろう。あのグループは「プログレ畑のミュージシャン」がポップを演奏したらこうなる、という実例だった筈だ。だのに未だに「プログレ畑のミュージシャン」という部分を拡大解釈して「だったらプログレである筈だ」と勝手に結び付けてしまう。
それが、偶像崇拝だというのだ。
これでウェットンが「僕はプログレ・ミュージシャン」とでも公言していれば、リスナーの批判も頷ける。しかしなぁ、彼はずっと「プログレ出身」の影を追い払う努力を重ねてきたのだよ? その後のキャリアを見れば明白じゃないか。彼が一見何の関係もなさそうなバンドのセッションなんかに多く参加したのも、もはやカテゴライズされたプログレというジャンルを離れ、色々な音楽を吸収したいと願ってのことだろう。そうして今、ウェットンは「ポップというもの」に逃げ帰ったのではなく、それまでに得たものを持ち帰って「原点回帰」しているのだ。
じゃあ、なぜその姿勢を評価してやらない? あなた方の好きな「プログレッシヴ」という言葉で。
ここがプログレ馬鹿の困りどころである。同じ音楽しか聴かないものだから柔軟性に欠け、客観性にすら欠ける。基準がプログレしかないんだな。そう言っても「男はコダワリがなくちゃなぁ、おい」ってな感じで職人気質を見せる自分に自分で惚れ込んでいる。
変拍子だけが音楽か?
分厚い音だけが音楽か?
長い曲だけが音楽か?
そこに、音に惚れ込むプログレ・ファンが最も見落としてきた「歌詞」という概念はない。「歌」という基準が彼らには既になく「演奏」という基準ばかりを取り出してくる。
ポップで悪いか。
これは「プログレで悪いか」と同義語である。
以上を承知のうえで、どうかウェットンのキャリアを見詰め直して頂きたい。