Live at ON AIR EAST
7th, June, 2001
〜希望と永遠に満ちたライヴ〜
2年振りのジョン・ウェットン来日。
そこには、正直なところ期待は余り膨らまなかった。前回の公演が冷静に考えればマイナス面も多く、さらにはとんでもないブートまがいの正規盤でダメ押しをされてしまったからだ。
だが、それが誤りだったことに、私はすぐに気付かされた。
腐っても鯛、
太ってもウェットン、
間違いなく、前回の公演を凌駕した楽しさと素晴らしさに満ちたステージであった。
観衆の興味は、ウェットンより寧ろ、イアン・マクドナルドにある気がしてならなかった。開場前に並びつつ会話を交わす、あるいは整理番号順に入場したフロアで開演を待って雑談する人々は、皆口々にマクドナルドの名を挙げていた。
無理もない。
ウェットンより古くクリムゾンに在籍し、伝説とさえ称されるファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』のメイン・ソングライターである彼が、来るというのだから。ウェットンとの親交を温める契機となったスティーヴ・ハケット&フレンズの『東京テープ』時の来日を見られなかった人間には、その期待が特に顕著であったのには間違いない。
期待――伝説を作り上げた男が、今日ここで繰り広げてくれる世界への期待。
これがジョン・ウェットンのライヴであることを忘れかけている失礼な輩も多かった筈だ。なぜなら、ツアー・メンバーが普段の「ジョン・ウェットン・バンド」であった頃に行われた先行予約の売り上げはそれほどでもなく、メンバー・チェンジ後になっての当日購入組がやたらといたことにもそれは明白だ。
だが私も、彼を見てみたかった。
伝説を作り上げた男達、彼らの世界構築の中心人物であった彼を。
そして、その彼とウェットンが、どのようなハーモニーを見せるのかを……
しかし私は、あろうことか、眼鏡を忘れてしまった。視力はそんなに弱いわけではないが、遠い距離の人や物は、はっきりとは見えない。その不安が入場前から私を覆っていたが、ステージに辿り付くと、先行予約のお陰で思ったほど後ろではない。寧ろ、前である。前から4列目というなかなかのポジションであった。そのうえ最初に陣取った中央から無意識的にやや右にズレたあたり、その場所が後に私を多大なる感動に包んでくれることになった。
その会場は渋谷「ON AIR EAST」。2年前の中野サンプラザのような「ホール」というよりも「ライヴ・ステージ」というイメージに相応しい。椅子もなく、オール・スタンディングであることからもそれは感じ取れる。
良い会場だった。2年前は椅子があったせいか、観衆は皆座り通しで、アンコールでようやく立ち上がって拍手を刻む、という淋しい状態であったため、所謂「ライヴの一体感」などないに等しいものであったのだから。今回のライヴは開始前から、この会場自体が期待を高めてくれていた。
ステージ上に視線を移す。そこにはドラムを中心にギターやベースが置かれ、その両翼にはそれぞれシンセが置いてある。ほぼ対になったセッティングだ。私が立っている場所の目の前には、シンセと……明らかにギターを置くものではない、少し幅狭のスタンドがある。
マクドナルドだ!
そう、そこに置かれたシンセはマクドナルドのものだった。その証拠に、見慣れないスタンドの脇にはマイクが2本立てられ、それぞれ声を拾う類の形状のものではない。寧ろ音を拾うための、先端が四角いマイクだった。さらにはそのうち一本は低く、明らかに何らかの楽器のためにあつらわれたものだった。
やがて鳴り響いたアナウンスやスモーク、そうした「開始直前の雰囲気」に、観衆は僅かに静まり、しかしその興奮は増幅させていった。
その中に、彼らは現れた。
1.暗黒の心
最初に現れたのは、キーボーディスト。イット・バイツのジョン・ベックだった。今回スケジュールやマクドナルドとの楽器の噛み合いの都合などで同行しなかったマーティン・オーフォードの代わりとなったメンバーで、ジョン・ウェットン・バンドとしては初のお披露目である。
ベックがシンセを弾き、憂鬱なシンセ音を空間に投げる――それは目下最新アルバム『ウェルカム・トゥ・ヘヴン』のオープニング・ナンバーである「ハート・オブ・ダークネス」。その闇さながらの音が広がる中、次々と現れるメンバー達。
ジョン・ウェットン・バンドとしては既にお馴染み、ジャディスのスティーヴ・クリスティ。ヘア・バンドで髪を押さえてドラム・セットに座り込む。デヴィッド・キルミンスターがソロ活動に入るため急遽サポート・メンバーとなったアリーナのギタリスト、ジョン・ミッチェル。短パンにTシャツ、そして短く立てた頭髪という、グランジから派生した最近のパンク勢さながらの格好をしている。次に現れたのは――イアン・マクドナルド。観衆の声援が一気に高まる。彼が手にしているのはフルートとサックス。そしてそれらを、私の目前にあるスタンドに立てる。おどけた表情を浮かべてみせるのも、愛らしかった。
いよいよ現れた、本当の主役、ジョン・ウェットン。
前回の公演で観衆から不評をかった髭は、見事に剃られていた。だが体重はまるで変わっていないか、ひょっとするとさらに増えてしまったのか……正直私は「エイジア・イン・エイジア」の再現さながらに、グレッグ・レイクがステージに上がったのかと思ってしまった。典型的英国人気質を持ち合わせたこのふたりは、エイジアのハプニングでは多大な違和感があったものの、今にして思えばよく似ているのだ。基本的な顔付きや、立ち振る舞いが。
だが、サービス精神旺盛なウェットンは、やはりウェットンだった。昔の面影を残した笑顔と、その仕草に私は彼の栄光を思い浮かべた。しかしそれはしごく失礼な行為であることに気付き、現在の彼を、まじまじと見詰めることにした。
肩慣らし、といった調子でシンセに指を置くマクドナルドは、横にいるだけで頼もしい。彼に対しても、現在の彼を見詰める姿勢を持たねばならない。決して、予定調和とはいえ、クリムゾン・ナンバーをコールしてはいけないのだ。
やがてウェットンのベースがかぶさり、闇の突破口を広げ、バンドは演奏を開始した。
闇が拡散し、そこに、世界が生まれた。
2.赤色
収録アルバムのオープニング・ナンバーとして相応しかった「ハート・オブ・ダークネス」は、やはりライヴのオープニングにも実に相応しいものだった。期待感をますます高め、ウェットンの変わることない声で安心感を与え、今日という日の良き展開を予感させた。
「コンバンワ!」
相変わらずの、ウェットンの日本語MCが場を和ませる。その間に、マクドナルドはサックスを抱えた。メンバー達が楽しそうに目配せする。次に演奏されるナンバーを、彼らはある種の愉悦でもって迎え入れたようだ。
そのナンバーとは……「レッド」!
そう、あのキング・クリムゾンの「実質的ラスト・アルバム(『ディシプリン』以降のクリムゾンは別物ととらえる者が多い)」のナンバーであり、ウェットン参加期のラスト・アルバムのタイトル曲であり、マクドナルドも特別に参加したナンバーである。そのうえ、当時の3人にマクドナルドを加えたクリムゾンを結成する予定があっただとか、楽曲は完成したのに当時のライヴでは演奏されなかっただとか、いわくの多い楽曲だ。ミスター・クリムゾンたるロバート・フリップは現在でもそれを演奏しているが、やはりそのせいか、ウェットンはオリジナルの演奏者であるにも関わらず、それを演奏するのはずっと控えていた。
しかしその封印が、今にして解かれた。
マクドナルドのサックスが交わり、ますます狂騒的な雰囲気が増した必殺ナンバーは、クリムゾンを越えたと言っても間違いではない。現在のクリムゾンはこの楽曲を「肩慣らし」や「現在のライン・ナップでの再現」に終始することが多いが、ウェットンとマクドナルドは違った。当時の雰囲気で、しかもそれを進化させた音色で飾って再現してみせた。
観衆が、オープニングとは比較ならないほどに盛り上がる。
皮肉なことだ。ウェットンのライヴであるのに、彼のナンバーよりも彼と、サポートのマクドナルドが在籍したバンドのナンバーの方が盛り上がるというのは……
しかしその時空を超越した演奏に、観衆は酔いしれ、狂喜した。私もそのひとりであり、ステージから狂ったように放たれる赤い閃光に目が眩んだ。やけにはしゃいでいるギタリスト、ミッチェルはギターが巧かったが、その終始飛び跳ねてばかりの仕草がこの曲を単純にクリムゾン・ナンバーとする観衆の認識を嘲笑っているようにも見えた。
3.闇の住人
「僕が以前いたグループの演奏だ」
ウェットンがそう言うなり、観客の一部が「U.K.! U.K.!」と叫び出す。苦笑しつつ「僕はそこにいたんだよ?」と告げるウェットン。微笑ましい展開だ。その展開を打ち破って刻まれたのは……7拍子。観衆がそれだけで騒然となる。そう、U.K.の代表曲であり、現在でも彼の代表曲と言える「イン・ザ・デッド・オブ・ナイト」。一時期は最初のベースとバス・ドラムのみの部分がカットされた演奏が中心だったが、近年はそこから再現している。そう、それは「再現」。メンバーが変わろうとも、その楽曲自体は不滅であるという証拠。
キーボーディスト、ベックの演奏はオーフォードのようなきらびやかなものではなく、終始サポートに徹すると言うに相応しい控えめのものだった。そう、主役はウェットンであるのだから。それを知っているマクドナルドも、ここでは鍵盤に集中した。決して自分に視線を集めず、この偉大なる楽曲を構築したひとり、ジョン・ウェットンを盛り立てるために。
4.孤独なサヴァイヴァー
普段のように「ヒット・メドレー」となることが目に見えているライヴも、やはり楽曲とメンバーの噛み合い次第で完成度が著しく異なる。「エイジアのナンバーだよ」と紹介されたこの曲はその典型で、今日の再現度はいまひとつだった。クリスティのドラムがカール・パーマーを意識し過ぎたのかやかましく、また控え目なベックのシンセも裏目に出た。だがミッチェルの高音コーラスはウェットンの低音とよく溶け合い、またマクドナルドのサックスが飛び道具となった。楽曲自体の完成度もあり、観衆の「心地好い懐古主義」の期待を裏切らない展開となった。
「孤独なサヴァイヴァー」
そう歌いながら自分を指差すウェットン。彼は生存者であるのだ――この楽曲の主であるエイジア、あるいはキング・クリムゾン、あるいはU.K.といったグループ・メンバーの。他のメンバーが試行錯誤の末に埋もれてしまうケースが多い中、彼は自分を信じ、こうして生き残っている。
彼が未だに、この曲を歌い続けていることの意味を感じたような気がした。
5.戦火にひとり
続く曲は、打って変わってのバラード・タイプのナンバー。ソロ・アルバム『ヴォイス・メイル』の中核となる曲であり、ライヴでも度々演奏される「バトル・ラインズ」だった。
静まる客席。ウェットンを飽くまでサポートすることに回るメンバー。そう、今日の主役はウェットンである。決して彼の在籍したバンドの追想や、それにまじわるマクドナルドではなく、ウェットン自身が主役であるのだから。
「僕はここにいるよ――運命のギリギリに立ち尽くしているんだ」
そう歌いながら、やはり自分を指差すウェットン。私は、自分の目頭が熱くなっているのが解った。過去に在籍した「バンド」には希薄である「ドキュメント性」を、ウェットンのソロ・ナンバーは持っている。彼は一時期から、自分のことを歌うようになった。飾らない自分を見せるようになった。
しかし彼は、常にギリギリの場所に立っていた。
ささやかな歓迎と、酷評の嵐。「悪しき懐古主義」に圧迫されつつも、そのささやかな歓迎を彼は糧とした。だからこそ彼はここにいる。ここにいて、我々に健在振りを明らかにしている。
その彼の姿勢に、私は涙を流さずにはいられなかった。
憐れみなどではない。孤独な戦いを強いられながらも、それに屈服せず歩き続ける男への尊敬。それによる言葉にならない感動が、私に涙を誘ったのだ……私は彼が、自分の楽曲の中でもこの曲を好むことの意味を、身をもって理解できた。それと同時に、私も、この楽曲を愛してやまないことを知った。
6.紅王の幻影
「遥か昔の楽曲だ。ねえ、イアン?」
ウェットンのMCに、観衆がどよめく。言葉を投げかけられたマクドナルドも、苦笑か、それとも微笑みか解らない複雑な笑みを浮かべ、鍵盤に指を置く。
やがて打ち鳴らされる、あのドラム。
そう、誰もが期待していた「クリムゾン・キングの宮殿」が、ここによみがえった。スティーヴ・ハケットの来日公演での再現を、よもや再び聴ける/見られるとは。ましてや、マクドナルド「本人」の演奏で!……しかしそこには、悲観的に考えれば「幻想」しかなかった。我々が抱きがちな「幻想」でもってその楽曲は迎えられていたが、当の演奏者達は、その楽曲を「楽曲として」再現することに努めている。マクドナルドがメンバーにいるということで、彼の顔を立てた選曲であることも容易に読み取れる。
圧倒的な再現度。しかしやはりミッチェルは飛び跳ねている。この曲にある「幻想神話」を打ち砕き、ただの「一楽曲」として認識している人間がどれだけ客席にいるのだろうか?
だが演奏はまったくもって精巧であり、マクドナルドのフルートも当時より卓越した技術を見せつけた。
今ここに、幻影は崩れた。
幻想は、所詮幻想のままである。
7.土曜日の本
会場の興奮さめやらぬまま、ウェットンはギターをアコースティックに持ち変える。続くナンバーもクリムゾンの楽曲である。彼のステージではお馴染み「ブック・オブ・サタデイ」だった。
神秘性ばかりが先立つ当時のクリムゾンであるが、当のウェットンは、この楽曲を錬金術だとかそういったイメージに結び付けず、素晴らしい一楽曲として演奏する。その態度が、尊敬に値する。幻想を幻想として切り捨て、楽曲を楽曲として扱う。ウェットン・ファンの多くが酷評するその態度を、私は大いに支持したい。
この楽曲は彼がソロになってから、ギターなり歌なりの「タメ」が目立つ。それは日本の演歌にも通じるもので、彼が日本人に多く支持される理由が確信できる楽曲、または演奏でもあった。マクドナルドのフルートが違和感なく折り重なったことも、楽曲のさらなる進歩を見せていた。
8.麗しのエマ
「子供がいる人に捧げる子守唄だよ」
との意を、ウェットンは言った。美しいアコースティック・ギターの調べがまた胸を打つ。ソロ・アルバム『アークエンジェル』の中で最も美しい「エマ」を、彼は大切な楽曲と言ってはばからないし、とても慎重に、愛でるようにギターを鳴らす。
美しい。
言葉は、要らない。ただそれだけで、充分だった。
9.君の目前に
続くナンバーも、彼は丁寧に弾き続ける。最新アルバムからの楽曲が少ないと以前からアナウンスされていた中でも「ビフォア・ユア・アイズ」と名付けられたこの楽曲は特別だった。マクドナルドのフルートもアルバム通りに美しく入り込む。
「君の目の前に――」
何が見えた?
クリムゾン、あるいは他グループの幻想?
それとも、今を生きるウェットンの実像?
10.遥か30年も昔に
彼がソロ活動に専念して以来、変化を遂げた楽曲は多いが、この楽曲がその最たる例であろう。
もともとはU.K.のいかにも「プログレ然」としたナンバーであった「サーティー・イヤーズ」は、もはやウェットン独自の解釈でもって演奏されている。後半部分をまったくカットし、必ず何かしか「ポップな」楽曲と繋げることは、彼自身が「幻想」を打ち砕くべく専念している証と言えまいか。30年も前の幻想は、もはや幻想でしかないのだから。
この曲に導入され、いつも彼の真意は、明らかにされていく。
11.今を抱き締めて
ウェットンはこう歌う――「僕を今、抱き締めてくれ」
それは「彼の今を抱き締める」即ち「今の彼を受け入れる」ことでもある。それができずに、ソロ曲になった途端に盛り下がる失礼なオーディエンスというものは、現在でも多々存在する。
だが、それができる者にとっては、このナンバーは印象深く、また感動的なものであった。ふと2年前の公演が思い浮かぶ。当時のメンバー、キルミンスターのギター・トラブルによってその楽曲の魅力を発揮できなかった事件が。
しかし今日は、それもなく、この楽曲は輝いていた。目を閉じて歌うウェットンに、私は、胸が熱くなった。
「幻想ではなく、今の僕を受け入れてくれ」
いや寧ろ、私は、今のあなたを受け入れたい。
ソロ・ナンバーを歌うあなたは、過去のグループの楽曲を歌うあなたより、数段まばゆい輝きに満ちているのだから。
マクドナルドのサックスが絡んだこの楽曲は、私にはますますの魅力を発揮していた。
12.所詮あぶく銭
大喝采の中、ウェットンがミッチェル、ベックの両サポート・ジョンを再び紹介する。ライトがそちらに移動し、他の3人の姿が消える。
何が始まるのか?――彼らが単なる穴埋めメンバーではないという証であった。
ベックの浮遊感溢れるシンセ音に絡まる、ミッチェルの暴れるギターが絡む。このギタリストは楽曲再現など存分にできるうえに、どこかシアトリカルというか、グランジ的な気質を持っているようだ。それは「プログレを見にきた」観客には間違いなく批判の的になりそうな飛び跳ねてばかりの演奏スタイルにも顕著であるし、こうしたフリー・フォームでの演奏に於ける旋律も、どこか落ち着きがない。
その演奏に導かれてウェットンのベースがかぶさり、ミッチェルのギターも聞き覚えのあるフレーズに変わる――そう、最近になって短いインプロからの演奏がまた定着した「イージー・マネー」だ。
ウェットンは、こうした「懐古願望」にとらわれがちな楽曲をよく演奏するものの、常に「現在の自分の楽曲として」扱う姿勢が見られる。それは今日の演奏にも見られ、手拍子を求めるウェットンのMCに微笑まずにはいられなかった。彼は「伝説」として飾り立てたまま楽曲を封印せず、独自に解釈し続けている。内容がある種シリアスである筈のこの曲も「観客と共に楽しめる」楽曲として再構築したのだ。あぶく銭と同じく、使ってしまえば良いだけなのだ。シリアスに考え過ぎる必要などないのだ。
中間部のフリー・パートも、各人の解釈に任せたものであった。原曲よりもハード・ロック寄りの演奏が、もはや楽しめる。マクドナルドもフルートとサックスをふたつとも用いての大健闘。狂騒が楽曲を構成し直し、現実感を与えてくれた。
13.すべての後には
バンドの騒乱が移った会場、それが静まった頃には、優しい鍵盤の旋律が始まっていた……友人との別れを描いたというナンバーにして、その楽曲を大切にしたい心持ちがよく現れている「アフター・オール」である。
鎮魂歌ともとれるこの曲を、ウェットンは、ひとことひとこと大切な言葉を噛み締めるかのように歌う。自然と胸が熱くなり、そうして自分を語り出した彼に、こう告げてあげたくなる。
「あなたは僕らの心に翼を与えてくれたのだから」
やっとそこに、光が見えた。
すべての後には、それが、大いなる後押しとなるに違いない。
ウェットンひとりでも歩んでいける、ささやかな、しかし強大な光に。
14.永遠を求めて
マクドナルドが、アコースティック・ギターを抱えている。それによって掻き鳴らされる楽曲に、会場はどよめいた。
何と、マクドナルドのソロ・アルバムに収録されていたウェットンのヴォーカル・ナンバーである。
「マクドナルド参加」というフレーズから、なぜだろう、我々はその楽曲の登場を予想できていなかった。これは我々が「クリムゾンの幻影」ばかりを求めている証拠だ。必然性から言えば、マクドナルドの曲でもあり、ウェットンの曲でもあるこの楽曲が披露されるのは当然とも言える筈なのに。フルート・ソロもあり、楽曲の高い完成度はライヴでも保たれていた。
この曲自体の存在を、知らない観衆も多いようだった。コーラス部分なども、歌う人間は少ない。私は逆に喜び、歓迎し“forever
and ever”と叫んだ質だ。だがマクドナルド自身「仮タイトルは“Crimson
Song”だった“Epitaph”タイプの曲だよ」とインタビューで答えていたように、ファンの受け入れは早く、反応も良好だった。しかし同時に「だったら“Epitaph”を!」という苦い表情を浮かべている者さえいた。
だが私は、あなたの方へ行くよ。
確信を抱いた、強いあなた方のもとへ。
永遠の幻想ではなく、永遠の現実を求めて……
15.逃避行
しかし幻想の魅力は、強い。
永遠を歌いあげた前曲から、ドラムがメドレーのような形で曲を導入する。そう、このフレーズは最近のライヴでは導入部として定着してきた――「ランデヴー
6:02」への導入として。
曲調や歌詞にみられるような幻想性が、一気に会場を包む。
現実感が急激に失われていく……ロンドンを離れ、雨の中、東京で歌うウェットン。その雄姿に、私は偉大なるロックの歴史を感じずにはいられなかった。ここでもアコースティック・ギターを掻き鳴らすマクドナルドは、どんな楽曲にも参加できるマルチ・プレイヤー振りをふんだんに発揮している。彼が「才人」たる理由を、この楽曲に見出すのは不自然かも知れないが、間違いではない筈だ。
やがて心地好い浮遊感に覆われた会場に――なぜだろう、暗黒が訪れるのだ。
16.暗黒
楽曲の性質からすれば、最後にこの曲が登場するのは当然だ。収録アルバムでもそうであるし、昨今のウェットンのライヴでは間違いなくそうした構成となっている。
その曲とは「スターレス」……暗黒が、現実の再認識と心地好い幻想で満ちた会場に、その封印を施してしまうのだ。
楽曲の出来は、まことに素晴らしいものだった。やはりウェットンは歌詞の一部分を「友人が光を導いてくれる」と歌って、この曲を少しでもポジティヴなものに塗り替えている。後半のインスト部分、その導入部である、ギターとベースのかけあいである静かな部分は、ウェットンとミッチェルが顔を見合わせ、時折演奏を意図的に止めて見せたりした。この息の良さは、なかなか真似できるものではない。それも何度も、ぴったりと止めてはぴったりと始められる……まるでこの曲を、シリアス極まりない筈のこの曲を、寧ろ楽しんでみせるかのように。それも諧謔じみた雰囲気で、クリムゾンが昔の楽曲をサービスさながらに演奏するかのように。
そう私が感じたのには、理由がある。
ウェットンはこの曲を紹介する際、こう言っていた。
“absolutely dislike one this”
この曲がまったくもって嫌いだ、と。
それは私の英語力不足により主語を聞き落としてしまったため「誰が」嫌うのかは不明である。しかしもし、その嫌う主が演奏者、あるいはウェットン自身であれば納得も行く。「演奏したくないけど聴きたがってるんだろう?」と言ってエリック・クラプトンが「レイラ」を演奏し続けるように、サービスせねばならないパフォーマーの苦悩。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」の演奏を死ぬまで要求されたニルヴァーナのカート・コヴァーンにも似たそれ。
それを、ウェットンは「サービス精神」に置き換えて行っているのかも知れない。ファンはといえば、ただそれが演奏されることに喜ぶだけであるのが現状なのだが。マクドナルドのサックスが絡み合った楽曲に、興奮してばかりなのだが。
とまれ、会場は狂乱と喧騒の闇に包まれた。
その中、彼らは手を繋ぎ、一礼し、にこやかに去っていった。
最後に彼らが闇を置いた……私には、それが、嬉しいよりも悔しかった。ファン・サービスかも知れないが、希望に満ちた楽曲のしめくくりがそれである、ということが。
しかし闇の後には、必ず、光が訪れるのだ!
アンコール1.夜を支配する人々
彼らは、再び現れた。
正確には、ウェットン、マクドナルド、ベックの3人が。
ウェットンが「アリガトウ!」と叫び、曲紹介へ続くMCを喋る中、やはり無法者は存在した。
「アイ・トーク・トゥ・ザ・ウインド!」
そう叫んだ観客が、ひとりいた。
静まり返る客席。一瞬だが、戸惑って無表情になるウェットン。見ると、マクドナルドは明らかに苦々しい表情を浮かべていた。
それは現在のクリムゾンに「21世紀の精神異常者」の演奏を求めるような行為だ。そうとも、確かにマクドナルドはいるし、彼を立てた選曲にはなっている。けれども、せっかく幻影を打破し、現実を進む術を歌でもって教えてくれたウェットンに対して、その曲をコールするのは誤りだ。そしてマクドナルドに失礼だ。
しかしウェットンは笑顔を作り「ああ、それもいいかもね」といった言葉を残し、黙って演奏を始めた。
同じくクリムゾンの楽曲ではあるものの、彼のレパートリーと言っても差し支えない「ザ・ナイト・ウォッチ」を。闇の後に、微かな光をもたらす楽曲を。
その演奏は、今まで何度となく繰り返されてきた彼の演奏の中で、最上の出来であった。主旋律を奏でるシンセとユニゾンになったマクドナルドのフルートも、それをうまく着飾ってくれた。ファルセットや「タメ」を駆使したウェットンの歌唱法は、この曲で最も活きる。繰り返し演奏されるために聞き捨てられがちな楽曲であるが、実は、最もコンディションの解る曲でもあるのだ。
そしてある観客が求めた「風に語りて」は、演奏されることはなかった。私はそのバンドとウェットン、並びにマクドナルドの態度に敬服した。
アンコール2.一瞬の熱望
とうとう、最後の時が来た。
バンド・メンバーが全員戻り、お馴染みのギター・フレーズが始まる――「ヒート・オブ・ザ・モーメント」のそれが。
この曲は、大団円を迎えるには適したものだ。手拍子とコーラスを求めるウェットンに、観客も喜んで応じる。全員一丸となって、大歓声で……ライヴ会場選択の重要度というものを、ここで実感した。広過ぎず、オール・スタンディングであるということも、所謂「ライヴ独特の一体感」というものの生成を手伝ってくれる。そうして、闇の後に生まれた微かな光は、絶大な光の渦となった。
その光の名は、希望。
照れ臭いけど、信じてみたいもの。
それを恥ずかしがらずに残して去るウェットン。その後ろ姿には、堂々たる英国人の雰囲気が漂っていた。深々と辞儀をするマクドナルド。いつまでも手を振り続けるミッチェル、ベック、クリスティ。
会場は、感動に包まれていた。
私はしばらく、動けなかった。そして全身に震えを感じた。
間違いない。
希望は、そこにある。
そうして綺麗にこの文章を締めくくりたいところであるのだが、どうしても書いておかねばならないことがある。
かねてからウェットンがフリップに賛同しているようにブート流出を嘆いており、会場入口ではカメラ及び録音機器のチェックが行われていた。しかし、やはりそれをかいくぐっての録音を試みる者が多数見受けられた。私の立っていた場所からだけでもふたり、それぞれ上着にポータブルMDプレイヤーなり小型の録音機器なりを隠し持っていた。上着の中まではチェックされず、またポータブルMDプレイヤーなどは発見されても「再生用」だと嘘を吐けばそれで済んでしまうからだ。
それを私は、批判しきれない。今日のブートレッグが出れば「思い出になる」という言葉で誤魔化して、ウェットンを裏切ってしまいそうなほど、弱い人間であるからだ。
だからこそ、今回の公演もライヴ盤になることを熱望する。但し、2年前の公演の想い出を完全に打ち砕いてくれた『ライヴ・イン・トウキョウ
1999』のようなブートにも劣る内容ではなく、ウェットンの志を貫けるような良質のもので……
という蛇足をもってして、今回のライヴ報告を終了する。
[セット・リスト]
| 1. | Heart Of Darkness |
| 2. | Red |
| 3. | In The Dead Of Night |
| 4. | Sole Survivor |
| 5. | Battle Lines |
| 6. | The Court Of The Crimson King |
| 7. | Book Of Saturday |
| 8. | Emma |
| 9. | Before Your Eyes |
| 10. | Thirty Years 〜 |
| 11. | 〜 Hold Me Now |
| 12. | Instrumental 〜 Easy Money |
| 13. | After All |
| 14. | Forever And Ever 〜 |
| 15. | 〜 Rendez-vouz 6:02 |
| 16. | Starless |
| En01. | The Night Watch |
| En02. | Heat Of The Moment |
*「〜」で記された部分はメドレーか、それに近いスタイルでの演奏であったことを意味します。
またミッチェル、ベックのインスト曲は「イージー・マネー」導入部として考え、楽曲としてカウントしていません。