18.ドローンの波に呑まれて

〜「Super Delux」 20, Sep., 2003〜

 2003年、9月20日の土曜日、六本木「スーパー・デラックス」にて、素晴らしい「ドローン・イヴェント」を観てきた。
 えっと、まず「ドローン」って何かっていうと「持続音」ですね。特に低音の。詳しくは検索か何かでどうぞ。
 暗いお洒落な会場(だから「何かを」勘違いした人も多く来るそうな)で、4人の「ひたすらドローン、ひたすらミニマル」な演奏が行われた。


[asuna]

 芸大だか音大だかを出た日本人男性だとうかがった記憶があるが……詳しくは失念。あ、以下全員、基本的に独演です。
 メランコリックな「ガラガラ」の音で始まり、きましたノイジーなドローン。電気オルガンの内部にピックアップを着けて出しているらしい。それでラジオの周波数が変わるあの感じで音色がうねり、音が振幅して、そこに別の泡のような効果音を重ねたりしていた。効果音はシーケンスっぽい感じで流れたりも。最後は静まっていって、ガラガラで終わりました。


[角田俊也]

 日本が世界に誇るフィールド・レコーダーの珍しいライヴ・パフォーマンス! わたしこのヒト観にいったんですよ(宣言)。
 席が近くではないのでちゃんとした動きは見えない。薄暗い店内で角田氏の手に持った「光」が何かをまさぐるように動いている。終演後に訊いたところによると「反復を横に切ってオシロレーターを混ぜてモアレ状にして波形を4つに分割して真ん中を抜く」とかそういうことを仰っていた(ゴチャ混ぜ)。うーむ、言葉の意味は解らんが、とにかくすごい理論だ。結構地味ながら動いている(他の人より動いた方)のは、手に持ったオシレータで音をパンしたり振幅させたり増減させたりしてたのね。たぶん。
 最初は緩やかだった振動音を増幅してノイズ状にしたり、ヒス状にしたり、信号音のようなものを被せていたりする。それをしばらく続けたあと一度静寂に返り、ブツブツブツッ、というLPのスクラッチ・ノイズが持続したような音が始まる。それも彼の手の動き次第で音を変え、時には飛行機の飛来音のようになるのがまた面白い。そこに摩擦音のような振動音を乗せたり、結構「ポップ」で聴きやすい。それらをずっと持続させていく。
 フツーなら「刺激音」として「嫌な音」と認知されてしまう類の音なのに、ここではちゃんとした「音像」になっている。もはや周波数とかそういう領域だろうからワシにゃ解らんけど、この「音」は嫌いじゃない。そうして「無」を思う。喩えるなら「ドリーム・シンジケートが竜安寺の石庭に居るような佇まい」っていう……ピンとこねぇかこれじゃ。僕はそういうイメージでした。


[トマス・アンカーシュミット]

 何か聞いた名だな……と思ったら、以下ふたり、仕事で名前を何度か入力していた(笑)。
 暗くて見えないのだが、ラップトップPC(?)か何かを操作してオルガン(?)の一音を鳴らしっ放しにして、そこに各種ノイズを乗せる。TVの「ザー」みたいな解りやすいのもたまにあったし、中でもよく鳴っていたのはガスコンロに火が点かない時に鳴るパチパチパチ、というあれに似た音。気付けばオルガンっぽい音もノイズっぽくなっている。行き場なく砂漠か都会をずっと彷徨っている感じ。黄砂にせよ雑踏にせよ、孤独なのには変わりない。何をしても、何にもならない……。やがて行き場ないまま、音はすっぽりと消える。
 続いて、彼お得意のサックスのドローン化。アルト・サックスの筒の中に薄い金属板を入れて吹き、ハーディ・ガーディのような持続音を出す。気付いた頃にはサックスの音じゃなく、管の中の「空気振動音」が大きく増幅されている。そこにサックスの音色に近いドローンを加える。音域がまるで異なっている筈のそれらが、いつの間にか一致している(というか似た音域になっている)。その上にまたサックスのドローンを被せる。「響く低音」を出すベース・ギターなどとは似て非なる、「包む低音」。直線ではなく曲線。寧ろ放物線の繰り返し。それらがすべて重なり、やがてノイズの海になってプツリと切れた。
 因みに、フィル・ニブロックの演奏中に煙草の火をくれないか、とジェスチャーしてきた外国人がいて僕はマッチの火をあげたのだが、それは何と実はトマス・アンカーシュミットだった(笑)。


[フィル・ニブロック]

 今日はこの人がメイン・アクト。杖突いたご老体でミニマル界の大御所。
 最初はアンカーシュミットと共演。客席の右手と後ろの壁それぞれに浮かべたスクリーン映像の一方ではアジア漁師の生活、もう一方ではアメリカ農夫の生活、といった趣のフィルムが流れている。映像からイメージを拾え、ということか?
 と思っていたら、
 イキナリものすごいドローン! 何重なんだ? ってぐらいに。アンカーシュミットも使っていたラップトップPC操作のオルガンみたいな音、だ。サックスと同期しているので、別な筈の音が一致してしまい、判別できない。それが微妙に音域や振幅を変える。それだけ。ずっとそれだけ。やがて緩やかにオルガンだけになり、音が閉じた。
 ここらで、壁に映っているVTRがスウィッチする。漁師側に農夫が、農夫側に漁師が再生され始める。ああなるほど、どっちを見ていたかによってイメージが変わるのだなコレはきっと。で、どっちを選ぶかは自由、と。僕のように漁師→農夫でもいいし、農夫だけ見ててもいいし、チョコチョコ変えて見ててもいい。
 ここからはニブロックの独演になる。ベースみたいな振動音みたいな波動みたいな、そういう音を下敷きにして、時折偶発的に効果音的な音が乗る――のを仕掛けて、ニブロックは急に席を立つ。で、音を鳴らしたまま会場をぐるりと一周し、時折誰かと軽く話したりして、席に戻る。だが、演奏者が戻っても劇的な変化はない。あるには「演奏者がそこに居ても居なくても『音』は鳴っていた」という事実。そこに「意味」はない。音も、映像とシンクロなんてしちゃいない。徹底的に「意味」なんてない。
 でも一刹那だけ、ポップなアプローチをしていたこともあった。「さくらさくら」を乱したかのような「旋律」じみたものが被さったのだ。それもすぐにドローンとなったのだが。
 見れば会場は、映像をじっと見る人と同じぐらい首をうなだれている人が居る。「メロディ」なんかをもし求めたらそりゃ退屈だろうから、寝ている人も多かっただろうけど、そのうなだれる気持ちも解る。音だけを耳にしていると「堕ちる快楽」がたっぷり味わえるのだ。または「閉じる快楽」でもいい。拡散せずただ持続する、それに揉まれる奇妙な快感。
 やたら気持ちいい――時を忘れる。
 無。
「体内回帰(胎内回帰)」という言葉が湧く。羊水の中でただじっとしているだけ。でもそれがこのうえなく気持ちいい。自分から出ていく必要もない。必然性がない。意味がない。無。それは楽でもある。
 そうして気付けば、すべての音は、「無音という音」に収束していった。


 いやぁ、やられた。まったくもって「意味」がない。
 一緒に観ていた音楽仲間の言葉を借りると「究極のミニマリズム」だ。
 普段耳にしている音楽、ポップにせよクラシックにせよ、そこには明確な物語や歌詞やメロディ、そうした「意味」が必ずある。しかしこの日演奏者達が鳴らしていた音には、まるでそれがない。なのに立派な「音楽」なのだ。
「音」にはもともと「意味」なんてない。それを作るのは演じ手であり、聴き手であり、こうした書き手でもある。
 こういう「音の趣」を楽しめない人が、やたらケータイをカチカチパカパカしてたり、やたら話してたりするのだと思う。確かにメロディひとつない音楽だから異端かも知れないが、この場ではそれが「普通の音」なので逆転、日常耳にする筈の雑音の方こそが異端となるので、耳障りだった(映画『フリークス』の要領)。
 喩えば映画館で――「上演中のあらゆる私語は作品に対する冒涜だ――死ね(日本橋ヨヲコ『G戦場ヘヴンズドア』より)」
 ならば、

 演奏中の、演奏に関せぬ極端な私語は、演奏と演奏者自身に対する冒涜だ。
 そんなに自分のことを話したくば、この場から、去ね。

 いやしかし、全体からすると日本人ふたりは「ポップ」なアプローチなんだな。特に角田氏は音色がはっきりしてたし。それってポップと非ポップの折衷なのかも? 筆者が一番「好みの音」だったのは、トマス・アンカーシュミットでした。