17.「ハジレコ」自分編

〜ハジめて買ったレコード(CD)〜
このページのタイトルは、特集如何によっては愛読している(それじゃ愛読じゃないじゃん、というツッコミをよろしく)、『レコードコレクターズ』の連載より借用した。つまりは、そういうものだ。
で、それを探ってみようと、ふと考えてみる。
もし「ハジレコ」という言葉が、最初に買った「レコード」、つまり「LP」を差すのであれば……だいぶ音楽を聴き親しんできてから、恰好付け+インテリアとして買ったドアーズの『13』という編集盤(日本未発売)だったと思う。それもレコ屋とかじゃなく、大学生当時には親友だった人物と一緒に訪れた古着屋だか雑貨屋で。間もなくすったもんだの青春時代が呼んだ事件から彼とは袂を分かってしまい、その後は幾度となく関係性の修復を試みたが、結局はうまくいかずに今日に至っている。ああ、やはり作品には何らかの思い出って封入されるものなのだ。そんなほろ苦い思い出を消し去るためだったのか、それとも一時的に忘れてしまったのか、その『13』は常連(ってほどでもないが馴染み)のバーにも合うと思い、マスターにプレゼントしてしまった。今となってはそこも店を閉めたというし、もはや僕の「ハジレコ」は“Riders
On The Storm”を歌ったジム・モリソンさながら風と共に去ってしまった。その曲はその盤にゃ未収録だけど。それ以降も、特殊なケース(未CD化だとかジャケが好きだとか)じゃないと「レコード」は買わないでいる。
だもんで、必然的に僕にとっての「ハジレコ」は寧ろ「ハジCD」になるのだ。産まれてきた時代柄、これは仕方のないこと。レコードに限定すると音楽の目醒めじゃなく、思い出ぐらいしかそこには意味がなくなるから。
となると僕の「ハジCD」は何か?……というと、これが見事に「ハジの上塗り」とでも言いますか、「ハジめて」のみならず「ハジかいた」という意味さえも重なってしまう。今でこそ偉そうに何のかんの言ってるけど、なぁんだ当時は流されやすいただの馬鹿造(馬鹿な若造)だったんじゃぁん、ということが露見するからだ。あー晒してやる。
「河内屋菊水丸」ってご存知でしょうか。
彼がバイト雑誌「FROM A」のコマーシャル・ソングとして歌った「カーキン音頭」のシングルCDが、僕にとっての「ハジCD」なのだ実は。筆者紹介でも書いたことなんだが、火曜日と金曜日に雑誌が出ることにひっかけた「♪カーカキンキン、カーキンキン……」というフレーズがユニークというか馬鹿造の心をくすぐってしまったのだ。
ここで既にはっきりしているんだが、僕には最初っから「メイン・ストリートからの外れ者」を望む傾向があった。そりゃプログレとか聴き出すわけだよ、後にゃ。実は論理的なんである(言い過ぎか)。
アルバムとなると何か? これかてメイン・ストリートじゃあったけどちょいと路線を外したように「たま」のファースト・アルバム『さんだる』だった。当時の彼らは、その特殊な音楽性と世界観が奇怪視され、キャラクター的にもてはやされて、デビュー・シングルの「さよなら人類」やそれの入った『さんだる』は結構な売り上げを記録したものだ。今日的な視点で見ると、実際には興味深い試みなどに溢れたアルバムなのであるが、世間的には「たまだもんなぁ」という評価に甘んじている。そうなるとワゴンの常連というのが実態。だから大声で「これがハジCDでええっす!」と言い辛いのだ、汲んでくれい。
だけど、当時の僕は中学生で、ポップ・ミュージックを毛嫌いしていた。イイ子ちゃん気取ってたし、何せオタクでしたもの。「剣と魔法の世界」の住人だったからね、かははは(乾笑)。だからもともと音楽を求めるのじゃなく、そこに「好きなCMソング」だとか「好きなキャラクターと世界観を持った人々」を求めて、手もとに置いておきたかったのだと思う。
現にそれからも音楽らしきものは聴かず、高校になり、オタク世界から脱却してようやく、友人から教えてもらって邦楽ロックに馴染んでいった。それから、誰にもあっただろう「ロック聴くって恰好いいじゃん?」という短絡志向が功を奏して、やっと音楽というものへ、のめり込んでいくわけだ。
しかし、現在の僕は多くの「音楽ファン(カラオケ・ファンとかじゃなく)」と同じく洋楽を軸とした聴き方をしているので、最初に買った洋楽が何か、というのが寧ろ問題になってくると思う。こっから今の自分に繋げて音楽嗜好を正当化するぞ、いいね(宣言)。
僕が最初に買った洋楽CD――
それは、アメリカはシアトルにて「グランジ・ムーヴメント」を巻き起こした「ニルヴァーナ」。
それも、売れに売れた『ネヴァーマインド』ではなく、その次作にしてラスト・アルバムとなってしまった『イン・ユーテロ』だった。
当時、背伸びをして毛が満載だった頃の「宝島」なんぞをよく購読していた僕は、注目盤のページでそれを見た。前作が1,000万枚売れただとかいうフレーズを強調していたのを憶えている。その頃の僕は青い反抗心から売れ線を嫌っていたものの、それは純然たる売れ線じゃないということも感じていた。恐らく、その紹介文がそういったことを想起させたのだろう。
そこで、ZIGGYやBUCK-TICKしか聴いていなかった僕は勇気を出して、初めての洋楽にチャレンジしてみた。今まで正統派路線はZIGGYで、邪道派の味わいはBUCK-TICKで味わっていたつもりだったので、これぐらい何だ! という意気込みさえあった。
しかし再生後、ブッ飛んだ。
何だ、このノイズだらけの音は? それもBUCK-TICKのような機械的/計算的なノイズじゃなく、人間的な叫びにも似たギター・ノイズ。ブツ切りにも似た様相を呈したものさえある楽曲群。整然とされない世界観。そして全体にはびこる厭世観。当時では理解不能だったブランク20分後のシークレット・トラックという所作……鍛えてきた筈の抗体はあっけなく負けて、途中で再生を止めてしまったものだった。けれども、最初に買った洋楽だから「きっとここには何かある」と思い、そうでもないと多くはない小遣いから手に入れた苦労が無駄になる、とばかりに聴き込んでいった。
それでもそのアルバムに意味を見出すことはできず、とりあえずは入り口をパスしたので洋楽の道へ突入していくことになるのだが、最初から確信がないので霧の中を泳ぐようだった。つかんだ手がかりは「ニルヴァーナ」。そうなると、とりあえずは売れたという前作に手が伸びるのは必然。というわけで購入した『ネヴァーマインド』は衝撃的だった『イン・ユーテロ』に比べ、えらく理路整然としていた。確かにそれが傑作とか名作とか呼ばれるのは解った。あちこちにそうした名称に繋がる「実績」「音楽性」「実験性」などという符号が散りばめられているからだ。それをぼんやりとつかむことはできたが……それでも、ニルヴァーナの代表曲「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は「サーヴ・ザ・サーヴァンツ」の衝撃に勝てなかった。「ポーリー」の不可解な直情も「レイプ・ミー」という叫びの前では掻き消えた。「サムシング・イン・ザ・ウェイ」の沈鬱さも「オール・アポロジーズ」のやけっぱちな虚無感の前では闇と化した。
そうして対比させることで少しずつ楽曲を理解し、拒否から慣れになり、やがて厭世観やノイズが快感と姿を変える頃、決定的な事件が訪れる。
ニルヴァーナの中心人物、カート・コバーンの自殺。
これは今でも僕の中で、リアル・タイムで味わったショッキングな事件のナンバー・ワンとして君臨している。最初に求めた扉は自分からは開こうとせず、何とか開こうと試し続け、やがてそこにある意味を見出し始めた頃に、唐突にその扉は崩れてしまったのだ。カートがすべてを振り払い、アルバム・タイトルの如く「子宮に入る」ようにして、バンド名の如く「涅槃」へ旅立ってしまったことで。
まだ感情移入レヴェルまでいかなかったので、泣き崩れるなどの読み取りやすい哀しみはしなかったが、抜け殻になったような気分だった。自分が探し求めた意味への理解を、永遠に断られたような気分だったのだ。それも洋楽の入り口を、最初から「何をこだわる、馬鹿らしい」と自爆させられてしまったかのような形で。
今にして思えば、これは非常に示唆的なことだ。その後の僕はノイジーなものも破天荒なものも気軽に許容し、聴きながら、そこに意味を見出そうという癖が付いている。だからこそ逆算的にヴェルヴェット・アンダーグラウンドを好むようになり、ドアーズの詩世界に想いを馳せたり、意味深なプログレッシヴ・ロックへ没入していけたのだと思う。自殺的なものも、狂人的なものも、表面上の誤解のみならず意味を探すようになった。裾野を広げる訓練を、既に担った出発点だったのだ。出発地点から既に前方は永遠の袋小路だったから、逆を向けば、実際には無限の世界が広がっていたわけだ。
そうしてロックにこだわらずに「音楽を聴こう」と思う今でも、謎を投げかけて答えを出さぬまま消えてしまったカート・コバーンは、僕の中では永遠にロック・スターであり、アイドルであり、またそういうものを嫌う人物像も理解させる、深遠な存在として君臨しているのだ。
その時は投げてやれなかったカートへのお礼を、今にして、やっと言えるようになった。
ただ「ありがとう」とだけ。
何だかんだ言っても、作品には何らかの思い出が詰まっている。そうじゃないものも多いだろうけど、思い出でしか語れなくなってしまうほど没入したものも、誰にだってあるだろう。
その代表的なひとつとして「ハジレコ(ハジCD)」が存在する。
無人島には持っていけなし、棺桶に入れたら自縛霊にでもなってしまいそうだけど、僕にとっては『イン・ユーテロ』はかけがえのない存在だ。常に『ネヴァーマインド』とカート自殺との関連性で語られてしまう可哀想な作品だけど、捨てたり売ったりなんて、間違えてもできない。
「今にして」そうした作品を味わい、考えてみるのも面白いのじゃないだろうか。
皆さんも、機会があれば思いを馳せてみてほしい。