16.機械の音色とノコギリ職人
〜「Super Loose 2」 9, Aug, 2002〜
2002年8月9日、夜23時30分開始(予定)のオールナイト・イヴェント「スーパー・ルーズ2」に僕も参加してきた。これはアフター・アワーズ、エンジェルズ・エッグという2大レーベル共催のイヴェントで、インディペンデント・レーベルゆえに可能な、自由な表現が売り物だった。そしてそれを吟味させるに、充分な価値あるショウだった。
僕としてはオールナイト・イヴェント自体初めてであり、以前より気になっていた「音の出るノコギリ」ミュージカル・ソウの生演奏や、コンピュータを楽器としたラップトップ・ミュージック生演奏との遅き出会いもあり、これはまことに充実した観覧となった。得るものが多かったので、ここにリポさながらの報告をしておきたい。記憶の隅に残したまま忘れてしまうのはもったいなく、また述懐するに意義ありと思ったためだ。
ちょっと文が堅いな。
まあ、今回は実際、ちょっと真剣に考えることが多かったため、陽気な文体じゃなくて考察を含んだものになることを宣言する。って、やっぱ堅いな。まあいいか。
開始は予定より大幅に遅れ、結局2時間後(!)の翌日1時30分からの演奏となった(ここについて面白いハプニングもあったので後述)。まさにイヴェント名「スーパー・ルーズ」の通り。だが怒る客はいない。(それを標榜したそこいらのインディペンデント・レーベルよりも数段)自由な作風を武器にした2大レーベルの表現者と、それを好んで聴く者の間に連帯感、または暗黙の了解のようなものがあるのだろう。その間、一般客は別の階にあるDJブースに屯していたようだ。
今回の出演バンドは4組。奇妙なジャズ・ロック・バンド「cep」、コンピュータを主軸にした演奏にシフトしつつある「ウルトラ・リヴィング(Ultra
Living)」、ノコギリ職人「ケヴ・ホッパー(Kev
Hopper)」、レーベルの意向を最も受け継いだボヘミア野郎「モーニング・スター(Morning
Star)」であり、モーニング・スターは「ダブル・フェイマス(Double
Famous)」というやはりヒッピー感覚なバンドとのジョイントだった。
最初に現れたのは、ウッド・ベースとエレキ・ベースを持ち替え、またコンピュータも同時に使うベーシストが印象的なcep。ギター、ベース、ドラムというシンプルな構成ながら、コンピュータのS.E.などもあり、パッと聞きでは音数は多い。
ベースとギターのユニゾンに始まり、ゆるやかにフリー・ジャズっぽい演奏に展開したかと思えば、ランダムなタイミングでサックスの音色を鳴らすS.E.を配し、さながらフリッパートロニクスを髣髴とさせるものになっていく。そうして中期ソフト・マシーン的混沌(彼らほどの整合性は意図的にか存在しない)を越えた後、テンポのがっちり合ったジャズ・ロックに回帰して聴衆を安心させる。この混沌と整合の展開が巧みであり、またその後にはドラム奏者によるヴィブラフォン演奏が余韻も残す。事前情報もなく、名前さえ知らないバンドだったので期待はこれっぽっちもしていなかったのだが、最初から唸らされてしまった。やるなあ。
続くはウルトラ・リヴィング。こちらは最新アルバム『スルー』にて予習済みであり、僕にとってケヴ・ホッパー目当てだった筈のこのイヴェントを、寧ろ彼らの生演奏が目的なんじゃないか、というぐらいに変えてしまった二人組。機械なのに体温のある音を求める傾向も強くなってしまったエレクトロニカに、本格突入して間もないという純粋さが引き出す「機械ゆえの冷たい旋律」を武器にした音楽だ……と、僕は彼らを認識している。
ラップトップ・ミュージック志向の演奏を初めて目にして、「ライヴ」という概念が少し変わった。ヴォーカルはマイクを振り翳し、ギターは生々しく掻き鳴らされ、ベースは執拗に唸り、ドラムは連打、鍵盤がそれに付随あるいは主導する、という「一般的なライヴ映像」がそこには一片さえ存在しなかった。
ひとりは常にノート・パソコンを開いてマウスをクリックし続け、もうひとりはあらかじめ録音されたものの再生や、その場でモーターを回すなどしてS.E.を被せる。あるいはアコーディオンやヴィブラフォンの生演奏を最小限度に加えるが、基本動作はスイッチ類の操作のみ。その図はまるで宅録さながらの風景で、ライヴではなくフィルムか何かの類を見ているような錯覚にさえ陥れられた。
内容としてはアルバムの前半部再現だったが、最後に(アルバム該当部分では4曲目の)機械化された歌声が冷たく響く楽曲で、背筋にゾクリとしたものが走った。冷たい旋律が、冷たい戦慄を呼んだ。こうした聴覚体験を得られることそれ自体で既に、来た甲斐があったのじゃないだろうか。
因みに、当日の僕は彼らのアルバムを聴きながら渋谷の街をゆらゆらと歩き、奇妙な感覚にとらわれた。耳で鳴っている音楽がさながら都会の風景を流したフィルムのサウンドトラックのように響き、歩いているのに浮遊感に満ちた。そのまま乗ったエスカレーターではベルトに添えた手が取り残され、躰だけが前のめりになるという弱トリップ状態にさえ陥った。こうした聴覚体験も貴重だったのじゃないだろうか、と今にして思う。そして『スルー』は、それを与えてくれる優秀なアルバムだ。
さて、実質上のメイン・アクト、ケヴ・ホッパー御大がようやくの登場。憂愁に満ちた演奏をノコギリで鳴らす彼は、寒衣にも似た紺の衣服にサンダルという様相をしており、妙に「和」の佇まいさえ感じてしまう。
しかし1曲目で彼はウルトラ・リヴィングのふたりとcepのギタリストを率いて、自らはコンピュータ操作に徹したインプロを演奏する。ミュージカル・ソウ奏者として、あるいはベーシストとして有名な彼が、彼がそうした演奏をするとは意外だった。しかしよくよく考えてみれば、チャールズ・ヘイワードなどに関わっていたのだからアヴァンギャルド・ミュージックに対する含蓄はあり、こうした表現に手を出すのも必然なのかも知れない。
その後に抜かれた、まさに「伝家の宝刀」、ミュージカル・ソウの演奏も不思議なものだ。どうしてあんな鉄板からあんな音が出るのか? という疑問が今まであったが、少なからずその謎は解明された。音は似ているが、電子楽器であるテルミンとはやはり音色が違う。憂愁に満ちた、手加減ひとつでだいぶ変わる人間的な旋律だ。
その仕組みを、せっかくだから見て判ったことぐらいはここで解説してしまおう。意外だったのは、一見ただの鉄板一枚でしかないそれの仕組は、ギターとヴァイオリンを合わせたような構造になっていたことだ。なお、ノコギリには刃はない(当然あったら弓が切れる)ので、実質的にはノコギリというより鉄板のようなものだ。

(1).ノコギリの取っ手(実際に取っ手の形状をしている)側を腿に挟む
(2).左手は猫手にして、反対側の先端に付けた取っ手(脱着可能)をつかむ
(3).外側のノコギリにヴァイオリン弓の半分ほどの弓(仕組はまるで同じ)をあて、こする
(4).弓を当てると、ノコギリ自体が弦となって振動音を響かせる
一回、軽くこすればギター・ピックのように、当て続ければヴァイオリン弓のように
上の細い部分は高音、下の太い部分は低音を鳴らす
(5).そうして鳴っている音を左手で調節する
左側に曲げると高音に、右側に曲げると低音に変化する
ギター弦を指で上下させるのを連想するといい
(6).その振動音をマイクで拾う
そうして、現在では唯一のソロ作品である『ソーラス』のほぼ全曲を演奏し、貫禄充分にステージを去った。
さすがミュージカル・ソウの第一人者。音色云々より、その手際の良さに恐れ入った。こうした楽器だとその奇抜さにばかり目がいってしまいがちだが、それを巧みに操る彼の手腕が見事だ。また、演奏している箇所が主にベース・ラインとなっているのも発見だった。これは彼がもともとはベーシストだということの証拠であると共に、メロディ・ラインが同時にコード進行の役目を果たし、楽曲の表面と根底をも同時に作っていることの証になった。
お見事!
最後に登場したのはモーニング・スター。といいつつも、彼も実際にはソロ・アクトで、バックに数名(曲によって異なるが、主にベース、ウクレレ、ドラム)のサポートがダブル・フェイマスから参加する。そうして数曲「サイケデリック・フォーク」とも言える曲を聴かせてくれた。ギターの腕は確かで、歌も巧い。それも歌いながらコード弾きではなくソロを弾くかのようにギターを弾く場面や、ひとりユニゾンを行っている場面も。その腕は見事だが、いかんせん音色がボヘミアン。まさに「エンジェルズ・エッグ」の名を受け継いだレーベルに相応しい、ゴング末裔の一端といえる演奏だった。その締まらなさが楽しいので、誉めても誉め言葉にならないんだが。「グッド・イヴニング」と言った後に客席から「グッド・モーニング」と返ってくるのが、彼の名前的に、その時間的に、デヴィッド・アレン的にも愉快だった。
やがて全員登場した大所帯バンド、ダブル・フェイマスをバックに、モーニング・スターはサイケデリック・フュージョンとも言える演奏を繰り広げ、時間的にも疲労ピークである筈の場内をどっと湧かせる。ここへきて各所、スタンディング・オベーションにさえなる。しかも最後にはケヴ・ホッパーも飛び入りし、演奏の流れを読みながらミュージカル・ソウを鳴らしてしまう始末(その時確信したのだが、やはり演奏の根底はベース・ラインだった)。このだらしない展開が見事に気持ちいい。サイケあるいはヒッピー精神の再来といったところか。
そうして大団円となり、演奏終了。
心地好い疲労感を躰に感じながら、目を射る朝の陽光がいやに新鮮に感じられた。何と言っても「オールナイト・イヴェント」「ミュージカル・ソウ」「ラップトップ・ミュージック(志向の演奏)」の3大初体験がいたく刺激的だったからだ。
ただ、近くのクラブで過ごして朝を迎えた大勢の若い男女が、不法投棄を当然のように行いながら朝を迎えているのを見て、これも同じ「音楽」イヴェントなのになぁ、という感慨も残ってしまったが。
……こうしたリポを、僕はヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『ライヴ
1993』に収録された「アフター・アワーズ」を聴きながら書いている(これは意図したことじゃなく、当日に購入した「レコード・コレクター」誌がヴェルヴェッツ特集であり、彼らの作品を聴きたくなった末に起こった、偶発的ながら愉快なことだ! そこにはきっと、音楽精神的な意味での必然も存在するのだろう)。モーリン・タッカーの決して巧くはない、素朴な歌声がやけに染みる。ヴェルヴェッツやゴングの精神は、今でも確実に生き続けている。さらにはピンク・フロイド的なものさえも。
インディペンデント・イヴェントにしてはほんの若干値段の張る(それでもエンタテインメント・バンドの半額以下)ものだったが、それ以上に高い価値のあるイヴェントだった。
さて、冒頭にちらりと書いた、こぼれ話をひとつ。
僕は当日、ある音楽仲間と共にこのイヴェントに向かったわけだが、余りに真面目過ぎる(?)我々は、開始予定時間にはしっかりと会場にいた。しかしこのイヴェントの名前は「スーパー・ルーズ」。実際の開始が2時間遅れになった(前のイヴェントが押していたらしい)のは前述通り。因みに半券を持っていれば会場の出入り自由なのも「スーパー・ルーズ」。だから一般客はDJブースや、外で時間を潰していたようだ。
その間、我々は何をしていたのか? 他の客のようにDJブースにいたのか?
答え、いなかった。何と、リハーサルに紛れ込んでしまったのだ!
最も早い時間に会場をうろついていたお陰で、我々は関係者を一般客だと勘違いし、その後を着いていった。結果、開始時間になるまで観客を止めておく何か(それが札か柵か人か演奏かアナウンスか、足止めされる筈のDJブースにいなかった我々は知らない)が配されるより早く、我々はステージに到着。すると彼らも我々も関係者と勘違いしてしまったらしく、我々もリハーサル現場を「本番」かと勘違いして観覧してしまったのだ。
リハなので当然、人は少ない。出演者とスタッフのみだ。そこへ友人諸氏などの関係者が訪れている程度。まだ本番だと勘違いしていた我々は、この人数でのライヴなんて贅沢な、と思っていたのだが、間もなくそれがリハだと気付いた。しかしそこからそそくさと退席するのも逆に奇妙なので、気付きながらも残っていることにした。最後まで残っていれば、まるで関係者だ。そうして我々は舞台監督さながらに、2時間のリハごとステージをすべて見てしまった。
開催者の皆さん、申し訳ありません。お詫びに、今後も観覧させて頂きたい所存です。
でも、そのリハを見られたお陰で、じっくりと研究・考察する機会がありました。勘違いに本当に感謝!(これは嫌味ではない)
だが、やはり反省。どうもすいません。