きょうのたわごとNEO

〜2010年02月分〜


[2010年02月20日(土)]

「iDO official sie "SAMUI KUTSU"」

 2000年より「ふろヰ道」として活動し、昨年「神田ふろヰ道」でのデビューを経て、「ふろヰ堂」として生まれ変わった彼らが、今度は「iDO(ぃどう)」としてCDデビューを果たします。
 iDOは「アコースティックな素の音を中心に、サイケデリックかつ音響的な、聴きこむことも流すことも出来る『音像』を作り上げる」(公式プロフィールより)ユニット。それまでの「ふろヰ」的な音をご存知の方々は、余りの音楽性の変化に驚かれるでしょう。
 わたくし、またも大いに関与しておりますので、大プッシュしたく思いこちらにも宣伝させて頂きます。
 でもね、
 それは贔屓目のなせるわざではなく、本気で「いい音楽」だと思っていますがゆえ。聴けば聴くほど、様々な音楽要素が詰め込まれているのがよくわかる。かといってそれを押し付けるわけでもなし、前述のように「聞きこむことも流すことも」できる音楽。
 それって音楽の、もっとも音楽らしいあり方なのではないの、
 とも思うのです。

 何はともあれ、お暇あらばぜひとも公式サイトを覗いてみて頂きたいのです。
 視聴も通販もできますので、よろしければお試しください。
 雑多に音を楽しむわたしが、自ら積極的に関与したくなるほどの「音楽」です。
 や、ほんとに。

 よろしくお願いします。


[2010年02月17日(水)]

「輸入雑誌『MOJO』2010年3月号」

 相変わらず本ばっかり買って、読む暇あるんかいと自分に突っ込みつつ、殆どが漫画なので集中しなくても読めるものが多く、しかし絶対量が多いのでどうしたものかと思いつつも手が出ず、しかしまた買ってしまう日々。毎月買ってる手塚治虫文庫全集がデカい。読みごたえあり過ぎるよー。愛読する本の雑誌『ダ・ヴィンチ』の特集にも自分のWebアンケート回答が3箇所も載っていて、あららこれは私だってバレてしまうんでないの、と少しどきどきするようでわくわくするような不思議な気持にまぎれ込む。わかる人だけにやりと微笑んでください。
 そんな本馬鹿の中に、ふと購入した輸入音楽雑誌『MOJO』。なぜこれを購入したかというと、タワレコで時間潰しに雑誌コーナーをうろついたらこの表紙がシド・バレットだったからまず目に入ったわけで、サンプルを取り上げて読もうとすると、あらまあ、その下に積まれている売り物はヴィニールで包まれてその中にCDが入ってる。あやこれは、とそちらを手にとってみると、シドのトリビュートCDらしい。どうせそこいらの無名バンドだろ、と思えば、なんとホークウィンドにR.E.M.、ホープ・サンドヴァル、マーク・アーモンドなども参加している。と思えばロビン・ヒッチコックまで!
 そんなわけで購入したらば、中身は無論英語なのでさらりとは読めず、意気込まないと読めない部分が多いのだけど、そんなに難しい英語でもなく好きな人なら雰囲気で読めそう。シドの特集は「8songs」の紹介文を参考にすれば、ファースト・ソロ・アルバム『帽子が笑う…無気味に』の制作インサイド・ストーリーだとかで、フロイド時代からのサポートを続けたデヴィッド・ギルモア、ソロの制作に協力したロバート・ワイアットらの生き証人の証言で綴るリアル・ストーリー。さらにスピンオフ企画として歪んだヴィジュアル・イメージを決定付けた当時の英国アート・シーンとフロイド周辺とのかかわりもレポート、な感じ。と書いているところできちんと読んでいないことがバレバレですけど、読むものがあり過ぎてなかなか手と時間が回せんのです。
 寧ろ重要なのはCDなわけで、輸入雑誌の付録CDなんて、と馬鹿にしつつ手に取ってみれば、まずCD-Rではない。プレスCD。そのうえレーベル面がハーヴェストを意識した(というよりパロディした)デザインで、好事家なら笑ってしまうことうけあい。ブックレットとも言えないスリーヴはしかし一応はカラーで、中に参加ミュージシャンと曲についてさらっと写真付きでクレジットしてある。ふむ、安っぽいジャケからしたらいいのじゃない?
 そしてまた。その選曲がただならぬこと。ファースト・アルバムを特集しているだけあって、全曲『帽子が笑う…不気味に』のカヴァー。それを13曲、オリジナルの曲順通りに収録。あらあらこうした姿勢ならトリビュートらしくていいわね、と急に肯定的になってしまうの。しかも「暗黒の世界」のカヴァー・ライヴ・テイクをボーナス収録した全14曲。
 ちなみにタワレコでは891円。近くで買える方はこちらをどうぞ。

 さて、こうしてこれを紹介しますのには、まずはこのような雑誌があったという驚きを伝えたかったこと。
 なにせこの雑誌、毎号トリビュートをメインとしたオムニバスCDを付録にしているようで、いままでクイーンからZEPからフロイドまであります。フロイドは『ザ・ウォール』2枚を2号に分けて。しかし輸入雑誌ってバックナンバー注文できるのかしら。なので気がかりでしたらすぐさま購入してしまうことをおすすめします。
 そしてもうひとつは、それらの収録曲をきちんとレヴューというか、そこまでいかなくても各曲の寸評を書いておきたいと思ったこと。これはこの最新号が出回っている現在やっておくべきことで、普通のCDと違って雑誌付録だから時期を外すと話題にもならない。またそれをしておくことで、この雑誌を買うかどうか、判断される要素にもなり得る。
 世にシド好きは多いとはいえ、それをしているところはないようなので、ここにだけでもやっておこうかなと。ブログという便利なツールが世にはびこっているのだから、そういうものを使っている人こそやればいいのに。

V.A. 『THE MADCAP LAUGHS AGAIN!』 (44:42)

01. Field Music / Terrapin (2:36)
 後期ビートルズ的なサウンド・アレンジにいきなりびっくり。出だしの声もジョージに似ていて、シドの狂気性がまるで感じられない。これじゃポップスじゃありませんか。シドがポップスなんて。ヴォーカルも複数名絡んでまるで本当にビートルズのビート・ポップ。キレよく終わってさながら次曲に繋がるように処理されている。

02. J Mascis / No Good Trying (3:00)
 含みがちな呟きにも似たヴォーカルに、強いビート、狂的ではなくサイケなギター・ソロ。このなかでは比較的平均なアレンジなのに、それでも個性が強い。なによりギターが踊りまくっている。終盤のソロなど実にサイケ丸出し。

03. Besnard Lakes / Love You (4:18)
 ああ、これではまるで甘いラヴ・バラードではないか。シドがスウィートな曲になるなんて。女性ヴォーカルが舌足らずに歌い、淡々としたビートとギター。午後のけだるさ。平凡だけど秀逸なアレンジ。なるほどシドはラヴ・ソングも書いていたのだなあ、と再認識。

04. Race Horses / No Man's Land (2:00)
 原曲の狂気性には近付けないと判断したか、イントロからいきなりスキャットのコーラス。それでも中間部にはあやしげなギターも。全体的にビートが強調され、きちんとした曲になっている。エンディングはハウリングで次曲にまるでメドレー展開。

05. R.E.M. / Dark Globe (1:49)
 さすが大御所。爪弾かれるギターに真摯なヴォーカル。それだけ。シンプルだからこそ味わい深い。

06. Hush Arbors / Here I Go (3:37)
 原曲を拡大解釈して、そのままお散歩にでも出かけるような楽しい雰囲気を強調。これも午後の日差し。しかし木漏れ日ではなく平原の中にある少し荒れた道路。

07. Captain Sensible / Octopus (2:37)
 またもメドレー的に始まるものの、割と平凡なアレンジ。それでも語りが入る中間は雰囲気ありあり。ブライトに終わる、かと思えばリプリーズ。という最後に憎いアレンジ。

08. Hope Sandoval & Warm Intentions/ Golden Hair (6:24)
 白眉は何と言ってもこのトラック。YouTubeにもアップされたほど秀逸なアレンジとヴォーカル。原曲の幻惑性というか幻想性というか、あのはかなげでむなしい雰囲気を最大限に引き出し、そこへマジー・スターの歌姫、ホープ・サンドヴァルの雰囲気を増幅するヴォーカル。インスト部分ともにアンニュイな午後のたわむれ。ふと目を閉じて眠りと現実の境目にいるような曖昧な世界観。この曲のためだけにでも聴いてみる価値がある。実際。

09. Hawkwind / Long Gone (3:08)
 さすがサイケの王者。冒頭からスペーシィなピュンピュン音が響き渡り、ぎゃうぎゃう言うギターが全編を覆い尽くす。ホークウィンドとシドを合体させると期待してみたら、まさにその通り。最もハードなアレンジで、原曲を知っている人なら間違いなくそのイメージを壊される。まさかあの曲がきちんとしたビートを持つロックになるなんてねえ。

10. Skygreen Leopards / She Took A Long Cold Look (2:23)
 イントロに敢えて失敗テイクを用いていたこの曲が、まっとうなトラッド・フォーク調のアレンジに。サイケであり浮遊感があり、淡々としているようで確実に影がある。

11. Cate Le Bon / Feel (3:00)
 そのままメドレー的に、より淡々とした、これ以上ないだろうという短調なアレンジへ。朴訥なヴォーカルに、演奏も端的なドラムとベースぐらいしかない。と思えば後半にはギター・ソロ、という緩急の強いもの。

12. Jennifer Gentle / If It's In You (1:57)
 やはりメドレー的。というよりこのCD全体がメドレー構成になっているに等しい。あの歌を外してしまうような調子が、このアレンジではまっとうなフォーク・ソングになり、ドラムも加わっているのでロック的でもあり、終盤などオルガンが炸裂する。

13. Marc Almond / Late Night (4:02)
 そうしてアルバムの最終曲へ。冒頭からけだるさ全開なところへ、歌心がもっともあるヴォーカル。でもリズムはしっかり。マークらしいというか、かといってソフト・セル的ではない。原曲のイメージを大切にしている感が強く感じられる。最後は演奏が止まってヴォーカルだけになり、しっとりと閉じる。

14. Robyn Hitchcock / Dark Globe - Live Bonus Track (3:46)
 こちらはライヴ・テイクのボーナス・トラック。さすがシドの理解者らしく、一時期のソロのようなドラムレス体制で、ハーモニカから始まってアコギだけで弾き語る。合間にはギターのボディを叩く音がベースのようにボン、ボンとリズムを作る。中間部にはブルージィというより感傷的なハーモニカ。初期のボブ・ディランが好きな人にはなかなか合うだろう。そこへひそかなストリングスが被さっていたりする。そうして

 全体として共通していることは、原曲ではフェイド・アウトしていた部分もきちんと完奏している。そのうえで、実質的にボーナス・トラックを除いた全曲がほぼメドレー処理されていること。単一でも楽しめるものの、全体として楽しむことが前提であり、それこそがオリジナル・アルバム通りの曲順にした意義であって、しかし単曲も楽しめる、まるで『サージェント・ペパー』な構成。と言ったら過言だが、狙いはそこだと思う。
 アレンジは原曲がシンプルなのに対して、それを拡大するか反対に転じるか、という傾向が強い。またはその中間というか、バランスを保っているものも。ミュージシャンを知らなくとも楽しめるアレンジだし、平凡なものは少ない。こと倦怠感を強調したトラックは秀逸なアレンジが多い。
 それに何より、ありきたり商業トリビュートと違って、全員からシドへの敬愛を感じる。
 それこそが、トリビュートの基本精神だ。

 と突然、レヴュー口調になりましたけどね。
 こういう、シド・トリビュートを手に入る限りすべて取り上げ、比較・紹介・レヴューの混じったスタンスでページを作りたい、思ってるんです。シドを扱ったページは多いものの、考えてみればそういうページって見たことないし。シドのトリビュートは死後に出たものばかりだから、おおむね手に入りそうだし。
 どうでしょ?
 でもね、今となってはなかなか手に入らないものもあるんです。生前から中古でひょいひょい見かけていた“BEYOND THE WILDWOOD”というものでして、元祖シド・トリビュート。CD化したのですが、高額なオリジナルLPがメインで出回っているのが現状。ああ見かけたときに躊躇せず買っておけばよかった、と思いつつ、次に見かけたら必ず買おう、と決心するものの、シドの死後で高くなってませんか、という懸念。
 また、「ヴェジタブル・マン」だけを無限にカヴァーしていくという“the vegetable man project”なるものもありまして、これなんてイタリアのバイヤーだけが売っているという有様。vol.2だけなぜか持っているのだけど、これは本当にマニアなシド曲の楽しみ方。だって全曲「ヴェジタブル・マン」なわけだし、アレンジ勝負だし。なのにそれが面白くて、ああこの曲ってばこんなに自由になれる曲だったのね、と再認識。別のシド曲のフレーズを挿入するなんて当然で、基本のサイケ拡大からテクノ寸前までアレンジ自由。できれば全部揃えて聴き較べたいのだけれど、英語でメールでもしないと買えないでしょうし、輸入せなですし、元手もないし、それじゃどうしましょう、と思っています。
 ともあれ、シド・トリビュートのページは作る予定ではありますので、余り期待せずご期待ください。

*『MOJO』のサイトはこちら


[2010年02月08日(月)]

「ツイッターってどうなのよ」

 ふと見たニュースで、「ツイッター」を特集していた。
「オバマさんも鳩山さんもやってるんですよぅ!」「流行の最先端ですよぅ!」という感じのものだったが、白々しく思った。
 中身のない素人ブログ以上に、無駄きわまりない。
 有名でもない素人がどこへ行ったの何したのしか書かないブログを、より手軽にして有用性を薄めた感じが否めない。中身のない感情吐露でしかないシロートのつぶやきなんぞ、誰が知りたいのか? それが正直な気持だ。
 実際のところ、ツイッターをやっている人はブログやミクシィでコメントし合うのを頻繁に行えるような感覚でやっているらしい。「フォロー」と呼ばれるフレンド登録のようなものをし合って、「フォロワー」になる。自分と意見や趣味が合うだとか、この人はいいことつぶやく、と思った人のフォロワーになればいい。
 だから「今起きましたー」「授業つまんね」「あー腹減った」という糞みたいな「ツイート(つぶやき)」は、それを行う人とフォローしてしまう人が愚かしいわけであって、ツイッターというサーヴィス自体が悪いわけじゃない。けど、サイトの相互リンクよりも繋がりが薄くなったブログのフレンド登録、それをさらに薄めたようなきわめてライトな感覚で、簡単にフォローしてしまう人が多い。ブログや掲示板にツイッターのアカウントを晒して「フォローしてね!」という書き込みがあったりする。
 で、そういう人のツイートを見てみると、前述のような「チラシの裏」ばっかり。中身のない人ほど中身があるように見せるため、やたらと喧伝するのは世の常だけど。携帯電話でもその場で思ったことが即座につぶやけるので、ブログの更新より楽で気軽。そのせいで逆に、中身のないホントの「単なるつぶやき」が氾濫することになった。
 それどころか「何をつぶやいていいのかわからない」という人までいる。何なんだろうこういう人は。それならやらなければいいのに、ブログ・ブームと同じで「やっているとカッコイイ気がする」ので、登録だけはしている。
 キャバクラで「ツイッターって知ってる? 俺フォロワーすげえいっぱいいてさ」なんて言うと「最先端でカッコイイ好青年」と思われる、と勘違いしているように。けれどそのツイートを見てみると「社長ムカツク!会社辞めてー」「今日はビール飲みながらヘキサゴン見よう」「ユッキーナってかわいいよな。フジモンうらやましす」なんてものだったりするわけで。
 ちょっと前で言えば「俺ブログやってんだけどさ、アクセス数がすげーの」と自慢するような行為と同じ。その実本当は毎日カップラーメンの夕飯画像を貼って「今日もこれか……たまにはうまいもん食いたい」とか書き続けていたりして。
 それ以前にどちらも「やっている」こと自体がステイタスになると思っているわけで。ラノベしか読んでいなくても本が好きなら読書家と自負できるように。
 けれどブログは、素人糞ブログは次第と少なくなってきていて、料理とか観葉植物とか淡水魚の飼育方法とかおいしいコーヒーのいれかた(←村山由佳かよ)とか、専門的だったり自己流ながらきちんと資料的に書いているものが多くなってきた。それならリンクとか自在にできて読みやすいサイトを作ればいいのに、とも思うのだが、ブログは無料で容量を気にすることもなく、デザインもテンプレートから作れて楽だしページごとにコメントが受けられるし、などの理由があったりする。ので、否定はしない。けどブログやページごとに書ける容量の限界があったりするので、もったいないとも思う。
 これはひょっとすると、糞ブロガーはツイッターに移行したのかも知れない。現に、ちょっと前までは何かを調べるために検索すると、糞の役にも立たないオメーの日常なんかどうだっていいんだよブログばっかりヒットしたものだけど、今は、個人的で感情的なオメーのつぶやきなんか何の得にもならねーんだよツイートが引っかかるようになった。
 でもアメリカのツイッター肯定派の記事によると、アカデミックな分野や詩・音楽などの表現行為、政治的な言説に利用している人もいるとのこと。喩えば詩人が思い付いたフレーズを書き残すと同時に世間に公表して、いち早く評価してもらえるわけだ。もっと庶民的に考えると、料理の味付けに困った主婦がつぶやくと即座に反応があってヒントになったり、スーパーやCD売り場で新商品を見かけたとつぶやくとそれについてその場で知ることができたり、いろんな実況中継なんかができる。それも検索でヒットするような有名ブログばかりではなく、いち庶民の生の声で。
 そのうえで「好きなようにフォローする相手を選べばいい。浅はかな人のことをクローズ・アップしてみせるのは、そういった人を自分は選んでいないと思わせたいからだろう」と書いているのだけど、それは理想に生きる国、アメリカだからそんなこと言えるのですよ。
 日本は島国根性が強く、世間体ばかり気にする民族なので、そういった正直な態度を取ると「アイツいかすけねえ」と言われて貶められることが多い。どんなに有意義なツイートをしても、感情的に気に食わないと総スカンされる。いじめを止めた人が逆にシカトされるようになる国民性ですから。これはネット・オークションのように、本音ではなくても良い評価をしないと相手から感情的に悪い評価をもらってしまうという誤った礼儀が浸透しているせいもある。
 そのため自分のフォロワーを増やす目的で、やたらといろんな人をフォローしまくったりする。友人だったり知り合いだったりすると、むざむざそれを断れない。そうして人気が出ているように見せかけ、自分への注目を集める。そのくせ、価値あるつぶやきなんぞできもしない。でもまがりなりにも「主張」できるので、世間に自分の意見を残しているような気分になれる。そんな人が多い。逆にそれを見て「わはは、こいつ馬鹿だねー」とニヤニヤしている人もいる。
 でも、ツイッターはアカウントが即ちユーザー名というかハンドル・ネームというかになり、それはブログのコメントのようにコロコロ変えられるものではなく退会するまで固定なので(最近は変えることもできるらしいが)、「なりすまし」に遭う可能性は低い。それは評価する。
 ひどく個人的なことになるけど、最近、僕がある人物のファン達に「極悪人」として認知されているのを知った。それは僕がしてもいない思ってもいない、俗悪で口汚いコメントを、僕のハンドル・ネームを使ったり文体をインスタント模倣したりして乱発していた人あるいは人々がいて、それを目の当たりにした純粋なファンの皆さんが僕のことをそういう人間だと認識してしまったらしい。詳しくは書かないけど、そうやってイメージが定着してしまうと、弁解さえも聞き入れてくれないし、その場もなくなる。亀田兄弟だってどんなにクリーンなファイトで勝っても涙しても難癖付けられるんだからね。だから僕はもう、いろいろな場面でのコメントはできるだけ控えるようになってきた。
 だけどツイッターでは、それができない。個人のつぶやきとして集積され、悪い印象だけをクローズ・アップするのじゃなく、総合的なイメージで判断される。それはいいことだと思う。
 それでも知り合いと遭遇すると、その人が他のフォロワーに本名などの個人情報を教えてしまうケースも多いという。下手に他の人と交流できてしまうため、ブログ以上に、その世界が「現実世界のアバター」である認識が薄い。所詮つぶやき、と軽く思っている。
 発言に伴う責任を負う覚悟がない。
 なのに有名人の発言に対しては「あいつは自分の発言に責任を持っていない」とつぶやくことは許される。鳩山の小沢を信じる発言に対してとか。なんつーパラドックス。政治家より一般人の方が怖いとはよく言ったものだ。
 下手をすると、匿名掲示板と似た性質に陥る。どうせ声高に主張したいことがあるわけでもなく、本音を吐ければ気が済むわけで、そもそも文字制限があるので深い考察はつぶやけない。下手にそういうことをつぶやくと、文字制限ゆえにデフォルメするしかなく、書けなかった細部について突っ込まれて揚げ足を取られる。だから感情的に書いたり、共感されそうに書いたり、どうでもいいことしか書けなかったりする。結果、やはり「糞ツイート」だらけになり、肯定派が言うような「フォローの相手を選びさえすればいい」という夢物語は灰燼に帰す。
 ネットが浸透してすぐ「ネカマ」が流行ったけど、ブログでもそれはやっぱりあって、ツイッターでも起きてるらしい。それっぽく書けばそんなことは簡単だから、つぶやきだけでその人を判断することなんてできない。猫を蹴っ飛ばしておきながら、「ニャンちゃん可愛い〜。大好き!」とかつぶやけるわけだから。それを繰り返していれば、そういう「イメージ」が作れるから。
 それにブログと同じで、人に見られることを前提にしている時点で「本当の本音」は書けないからね。本当の日記は人に見せることができないし見せないことが前提であるように、本音はその人が自分自身に言い聞かせるものだ。だからブログが登場して「公開する日記」と聞いた時には、「は? 馬鹿じゃないの?」と思ったのだ。
 うーん。
 どうしても、有用な面より「どうかなぁ」な面が強いのが否めない。

 ちょっと話が逸れるけど。
 ブログもミクシィもそうだったけど、ツイッターも多くの人が呼称として英字表記を使う。「blog」「mixi」のように「Twitter」と。それが日本に入ってきたばかりなら、まだわかる。しかし、ここまで定着し、完全に「ツイッター」というカタカナ表記ができあがっているのに、英字表記を用いる人が多い。
 これはなぜだろうと思えば、「海外発のものだから英字で表記すべき」と思っている人がいたりするが、その実「何となく、みんながそう書くから」のようだ。言わば、「昨日JAZZのBandのLiveに行ってきました」と書くような感じで、単なる欧米コンプレックスなわけだ。
 ジャズを引き合いに出したけど、クラシックであると「昨日CLASSICのOrchestraのConcertに行ってきました」と書く人はまずいない。なぜなら、クラシック愛好家はジャズをたしなむ人と違って、余り劣等感を感じていないからだ。
 だって日本ではジャズとかロックだと外人さんと一緒に演奏するとすげーすげー言われるけど、クラシックでは日本人指揮者が海外のオケを動かしたり、日本人ヴァイオリニストが海外でソリストになったりするのはあたりまえの感覚になってるものね。日本のクラシック音楽のレヴェルが世間が思うより高く、それなりに歴史もあり、一定の評価をされ、ファンもそれを認識している証拠だ。
 それに対して「ジャズ」を「JAZZ」と書く人は、歌謡曲やロックを中心に聴いていて、それより歴史が長いジャズを特別視しているきらいがある。クラシックなんかは聴きもしないから、判断要素に入らない。ジャズばかり聴いているジャズ・マニアが「JAZZ」と書くのはそんなに見かけないように思う。「ズージャ」と言って引かれる人の方がまだ多いような。「JAZZ喫茶」という中途半端な表記も余り見たことないし。
 だから「JAZZバー」とか「JAZZコンサート」なんていう表記を見ると、ものすごくどっちつかずな印象を受ける。
 ルー大柴はそういう欧米コンプレックスを逆手に取ったからこそ受けたのではないか、と思う。視聴者は潜在的にひそむそれがうずいて、可笑しくなったんじゃないかと。
 そのため僕は、カタカナ表記が定着しているのに、無意味に英字表記するのが苦手なんだな。自分にひそむ欧米コンプレックスを意識しながらも打ち勝てない。日本人なのに輸入ものばかり絶賛するような。そのくせ食品は日本産にこだわったりして矛盾。
 はい、閑話休題。

 ツイッターって、ブログの黎明期と同じく、有名人の素性を見られることが流行の一因でもあると思うのね。
 有名人ブログには何をしなくてもどんな内容でも人が集まるように、有名人のつぶやきなら聞いてみたい。プライヴェイトを覗く感覚で。そのうえでツイッターは、その有名人と同じ空間に存在できているという錯覚を強くもたらす。有象無象が集まるブログと違い、一対一の関係が結べるから。それもミクシィみたいに限られた人だけでなく。だから有名人のツイートばかりが注目されて、一般人のものはどんなに価値ある発言でも「単なるつぶやき」として処理されがちだし、実際面白いものは少ない。
 でも、世間では大流行している「ことになっている」。
 番組の特集で、最後にコメントを求められた番組のご意見番は、「どうせこれも流行りとして消化され、そのうち廃れるでしょう。それでまた新しい別のものが出てくるでしょう」と言っていた。うむ、僕もそう思う。
 それはネットでは日常茶飯事のことで、掲示板ブームにチャット・ブーム、ブログ・ブームにミクシィ・ブームと続いてきて、現在のツイッター・ブーム(事実はどうあれ、世間では流行ってることになっている)に流れているからだ。そうして新しいものがブームになると、もれなくそれ以前のものは廃れている。そして次第に、コミュニケイションが薄く狭く馴れ合いになってきている。
 だから僕は、古臭い「サイト」にこだわり、また「メール」での交流を好むのです。
 その方が考察や表現ができて、薄く広い交流より狭くても濃い交流ができるから。

 ですから、
 僕はツイッターは興味がありませんし、自分じゃまず、しません。
 このページも所詮つぶやきみたいなもんだと言われそうだけど、それはどうかな?

*05月11日追記*

 ツイッターで「口蹄疫」が検索できなくなったそうです。
 これが「言論統制」や「ネット検閲」と叫ばれています。
 そんなもんでやりとりするのも阿呆らしいですね、マジで。


[2010年02月05日(金)]

「R.I.P.:三条通」

 elementsのドラマー、三条通(本名:五十川清)氏が2010年1月19日、喉頭癌のため亡くなっていたことを知った。
 ファン・ページを作成しておきながら、それを知るのが遅過ぎたことを、お詫びしたい。
 久方振りにryotaroさんのサイトに寄ったら、その報せを知ったのだ。

 非常に、残念に思う。
 生前一度だけ、なまの氏と会ったことがある。elementsのライヴ終了後のことだ。
 それまでelementsのライヴは何度か見ていたが、その日は本当に鬼気迫るプレイで、ナスノさんのベースと死ぬほど噛み合って、争うようにリズムが炸裂していた。
 ステージ終了後、メンバー達と話す機会があったのだが、僕は三条さんと言葉を交わすチャンスがなかった。無駄に奥手な僕は、自分から話しかけるのが苦手だったので、ただサングラスの奥でにこにこと微笑んでいる三条さんを、あたたかい雰囲気の方だなあ、と思っていた。リンゴ・スターにも似た雰囲気のような。
 けれども、その時に何でもいいから話しておけばよかったと、今さらながら悔やんだ。
 まさか永遠に話すことができなくなるとは、夢にも思っていなかったから。

 遅まきにメンバーにお悔やみのメールを送らせて頂いたけど、彼らのやりきれない気持はこんなものじゃないだろう。
 哀しいとかを飛び越して、もはや何と言っていいかわからないのではないだろうか。
 ryotaroさんの「独り言」を読んで、僕も涙がにじんだ。
 そんな安っぽい感情移入など邪魔だろうけど、純粋に、涙が出た。

 ましてや、三条さんの出発点、EP-4も再結成に向けて進んでいたさなかだったという。
 そのうえ他のメンバーも亡くなってしまったとか……。
 三条さんが悔しかったかどうかなど推し量ることもできないけど、
 彼は、「楽しかった」のではないだろうか。
 自分の好きな音楽を、自分の好きな仲間達と演れる。
 それを何よりの「よろこび」としていたのではないだろうか。

 自分本位で勝手な慰めの言葉なんて、言わない。
 だからお悔やみを申し上げて、追悼の意を表することぐらいしかできないけど、

 三条さんに、やすらかなひかりあれ。
 そして惜しみない拍手を。

 これからしばらく、elementsを聴いてせめてものお祈りを申し上げます。


[2010年02月03日(水)]

「魅惑のウィーン・フィル」

 もう創刊からしばし経って第2号が出たところではありますが。
 小学館のCD付きマガジン「ウィーン・フィル 魅惑の名曲」がマストです。

 しかし創刊号はCD付きマガジンの例によって廉価で出して、そのうえ小澤の「新世界」なので、いかにも売ろう売り出そう的な感があったので紹介せえへんかったのですよ。でもでも、これは間違いないのでご紹介しようかな、思いまして。
 それでも第2号がカラヤンでチャイコフスキーの3大バレエなので、ああこれはまた安い創刊号で食い付いたクラシック初心者をさらに食い繋がせようという感があるなあ、思ったんですけど、次はベームだそうで。そうなるとネーム・ヴァリューだけで売るのもここいらかな、と。だから次号から一気に書店の入荷が減ると思うのです。まあモーツァルト/ベートーヴェンが2巡しますので、それで食い繋ぐ感もありますが。Vol.8の「惑星」あたりで購読者が分かれる感じですかね。皮肉にもそこがクラシックをたしなむかハマるかの中間点だと思うんだ。また皮肉にも僕は「惑星」が大好きなんだ。んー中途半端な生悟りアラワラワですね。
 で、この「ウィーン・フィル」ですが、冗談抜きに付録付き週刊マガジンとしては良い。オペラDVD付きマガジンに惹かれたことはあったけど、あれは全尺じゃないうえに訳も全部はないようだし。オペラは訳ないとわかんないもーん。おいら阿呆だから違いもわかんないもーん。けれどクラシックなら率直に言えば訳とか文は要らないわけで、そのうえで演奏や指揮者がしっかりしていれば文句ないわけで。
 なので、このシリーズは僕も定期購読を申し込んでしまいました。
 クラシック初心者な頃はデアゴスティーニの『クラシック・コレクション』を定期購読したこともありましたが、あれって今にして思えば版権ウヤムヤなうえに無記名原稿でいかにもクラシック初心者にありがたく書いた感じがあって、ああこれってアブナイ橋渡ってたんだなあ、思ったんです。いやね、検索すると「実は私が原稿書いてました」「あれってまだ著作権死んでないんですよ」「実質的な利益がねえ……」なんて文をひょこひょこ見かけるわけで。うひー、危ないなあ。そのうえで好きな作曲家の好きな曲の、好きなオケと好きな指揮者の正規CDを買えばいいじゃん、って思えるようになりました。
 確かにそうね。クラシックについて何も知らないうちは演奏も指揮も誰だろうと同じようにきこえるから有名曲にとりあえず飛び付けになるけど、慣れると「うーん、これはあっちの方がダイナミックな感じがするなあ」「あ、こないだ100均で買ったやつの方が叙情的かも」「ていうかレンタルで借りて焼けばいいじゃーん」などと庶民的にでも思うわけさ。それは演者も録音も同じ邦楽ではわからんかもだけど、クラシックだと顕著なのさ。演歌で言えば村田英雄の「王将」を氷川きよしがそのままに歌ったら違和感あるような。違うか? でもそんな感じじゃないかな。
 なわけで、クラシックってばオケも指揮も大きく関係するわけで、少なからず決定盤が存在するわけで、だから名盤の類は有象無象のポピュラー・ミュージックに較べて廃盤は少ないわけだ。飽くまで較べてだから「あのLP名盤はどうのこうの」言われたら勝手にそれ聴いててください、と言いますが。
 そんな中で、ウィーン・フィルって特殊な立ち位置にあると思うのね。ベルリンのようにポップ寄りでもなく、N響のようにクソマジメでもなく、フィラデルフィアのように形式張ってもなく、シカゴのようにフランクでもなく。そのうえで伝統を守りつつ官能的というか、独自の再現力を持っていて。ってこれも勝手な生悟り視聴観ですが。
 何でもマガジンを読むと、ウィーン・フィルって指揮者の細かい指示を嫌うほど独自の演奏観があるそう。てめーに言われるほどこちとらシロートじゃねーんだよ、的な。それって意欲的な指揮者からしたら「俺は伝統を変えようとしてるのに、おまえらは伝統にすがり付いてるのか!」って感じかもだけど、クラシックって所詮、伝統芸ですからね。ウィーン・フィルはそれをよく知ってるのだと思うよ。喩えば演歌のバック・バンドが延々とギター・ソロやドラム・ソロを繰り広げたら視聴者は「あれ?」って思うもの。そういう感じ。大工さんだって理系大学出身者に理詰めであーだこーだ指図されるより、自分の長年の勘や技術でやっちまった方が確実だと思うでしょ? それにウィーン・フィルは現代音楽はやらないわけで、伝統の固持が前提にあるのだし。
 なわけで、演奏者も何もかもウヤムヤなままとにかく有名曲を売ろうとしていたデアゴスティーニとは基本的にスタンスが違うのですよ。ちゃんとデッカやグラモフォンの原盤を借りて作っている、きちんとしたものなのですよ。そのうえでウィーン・フィルに有名指揮者。なら初心者にも安心、マニアでも納得でしょ? だからそれを隔週で出せるのは「すげえなあ」と思ったのですよ。
 で、肝心の内容ですが。
 まず、CDは間違いない。名盤・名演奏の類に数えられているれっきとした正規盤からの音源なわけですから。そのうえどれを買っていいかわからない的な人にはガイドになるんじゃないでしょうか。とりあえずウィーン・フィルなら間違いないでしょ。いい意味でも悪い意味でも、日本人の趣味に合うと思うんだ。
 そりゃね、好みに合わないってのもあるかも知れない。僕のように「ストラヴィンスキーを演ってくれればなあ」っていう。でもウィーン・フィルはそういうのより伝統を重んじた選曲するわけだし、その分クラシックとは何ぞや、ってのがわかると思う。だっていきなりサティとかメシアン出てきても「クラシックとして」は売れるわけないでしょ? ましてやウィーン・フィルがそんなアヴァンなものを演るわけない。あ、いま、ウィーン・フィルがジョン・ケージの「4分33秒」を「演奏」しているところを思い浮かべて笑ってしまった。演奏て。わはは。
 だから、このシリーズは初心者向けでもあり、通にもいいんじゃないのと納得させられるものなのである。ましてや僕のように生悟り好み偏りクラシッカーには再学習にもってこい。いやね、曲名知っててもフレーズと合致しないとか、そんなレヴェルでありますからに。好きな曲はめちゃめちゃ知ってるんだけどね。基本的に偏ってるんです。だからベートーヴェンとか余り知らんのよ。有名であっても好きじゃないから。
 そういう人の「基礎」を固めつつ、「応用」を見せてくれるのが、このシリーズである。
 いつぞやの「クラシック・コレクション」ではそうはいかない。いろんな意味で基本もならないままひょいひょい話を進められているようで。メジャー曲からいきなりマイナー曲に飛んだりしたし、要点絞りきれず長々と出してる感じがして。90号ぐらいになってやっとラヴェルやムソルグスキーってところに「してやったり」を感じた。それまでに超有名作曲家のマイナー曲路線に飽きて定期購読をやめていたのだけれど。何だか買ってあたりまえなCD付き英会話教材に近い感覚がした。実はむかし、「ドリッピー」やってたことがあるんです。わはは。あの頃はシドニィ・シェルダン好きでしたからねぇ。しみじみ。
 その点、この「ウィーン・フィル」はマガジンもしっかりしているし、ベートーヴェンやモーツァルトばかりをさらい過ぎていない。何せヤナーチェクまでいってるんですから。まあこれは村上春樹現象からきているのかもですけれども。こういうのを買っている人はとにかく有名曲をさらいたいのだし、そこへきて有名指揮者、そのうえオケがウィーン・フィルと安定しているのだから安心感が違う。まあ「ラヴェルなら定番で『ボレロ』だろ」「『はげ山の一夜』も入れてほしかったなあ」「あれ、『巨人』はないの?」「やっぱりリストはないか」「ウィーン・フィルはストラヴィンスキーの曲は演ってなかったっけ?」なんて意見もあるでしょうけど(ってかぜんぶ俺の意見だ)、そういう人はフツーのウィーン・フィルの正規CDをワーナーあたりから選んで買えばよろしい。このマガジンは、それまでの「ガイド」だ。通を名乗るなら普通に好きなCDだけを買えばいい。
 で、話が逸れましたが、マガジンです。これがデアゴス以下略のような無記名でやっつけなものではなく、きちんと読めるようになっている。ウィーン・フィルについての解説からマエストロについて、作曲家の小説風物語と。それらがちゃんとした記名原稿の連載ものだから期待が膨らむ。もちろん作曲家ごとに楽しめるようになっているし、作りもしっかりしている。おまけに棄てるだけのハコにもポスト・カードになるウィーン風景写真が載っていて棄てられなかったり棄てる前にせめて切り抜いてしまうという芸の細かさ。ついでに言えばマガジンとハコを留めているシールまで独自のデザインで、もったいないので棄てずにCDケースに貼り付けている。
 そのうえ、個人的に決定的なことをひとつ。
 CDジャケが「やっつけ」じゃない。
 きちんと承諾を得た指揮者の写真を使って、バックレイには共通だけどオケの集合写真を使って、「それっぽく」なっている。
 これは重要なことですよ。デア以下略では肖像画をパクって安っぽい共通デザインに載せただけの、いかにもブートな作りでしたからね。やはりちゃんとした許可を取っているということは、品質的にも安心できるというものです。品番もあるし。
 そのうえですね、
 このマガジンを定期購読すると、なあんと「聴きくらべ非売品CD」が贈られてくるのです! つまりは、収録曲の違う指揮者の演奏をまとめた特製CDなわけで、曲さえ聴ければいいじゃんそれがどうしたの、と言われればそれまでですけど、違う指揮者の正規CDをいちいち買うのもなあ、と思っている僕のような中途半端な人に丁度いいのです。ましてやクラシックってば指揮者によって曲の表情が変わるわけで、それを「おためし」できるのは嬉しいじゃないか。ついでに言えば定期購読をやめてもあげますよっていうところが太っ腹。さすが小学館、大手は違う。
 なので、すっかり僕はこのシリーズに好感を抱いてアンケート葉書も出してしまった。本を買っても葉書をもったいながって送ることは滅多にないので、余程である。
 あとね、今回のカラヤンは全曲60年代録音なのですが、ちゃんとリマスタした音源を使っているようで古臭さはまったくありませんでした。そういう意味でもクオリティは間違いなし。やるねえ、小学館。

 なので、このシリーズに興味はあれど迷っている方。
 間違いはありません。創刊号の「小澤新世界」をとりあえず買ってみてください。
 まー、デ以下略のように創刊号のCDが中古に溢れることはまぬがれないでしょうけれども。庶民のクラシック観なんてそんなもんだ。とほほ。

*追記*

 全巻購読プレゼントCDが届きましたよー!
 これがまたあーた、有名曲の有名部分を抜き出しているので、単純な「クラシック・ベスト」としても聴けてしまうすばらしさ。指揮者の違いとか以前にいいと思います。や、ふつーに楽しいよ。
 こういうところで小出しの音源を使ってマニア欲を助長し、生悟りクラシッカーを正規盤買うようなカモにしようってハラだな。くそー、乗っかってやろうじゃないか。
 あと今後のラインナップを計算してみたら、ちゃんと12月中旬に「クリスマス曲集」が、年末には「第9」が、新年には「ニューイヤー・コンサート」が出るようになってます。うまいね。つーか最初から狙ってるね。仕組まれたね。引っかかっちゃうけどね。