きょうのたわごとNEO
〜2009年12月分〜
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[2009年12月29日(火)]
「ロリータ嗜好を考える」
世間的に、ロリータ嗜好は忌むべきもので、逆に巨乳は歓迎するという風潮がある。
これは「ロリータ=未熟=性的対象にすべきではない」という三段論法によるものであり、対して巨乳は成熟の証拠であるので容認されている。そのため未熟と成熟が合致した「ロリ巨乳」というある種矛盾した嗜好を持つ二次元の民も多い。
一時期「ゴシック・ロリータ」というものが流行したが、これは主に女子の間で好まれた。常に新たなる「萌え」要素を探求するオタク男性もそれを察知し、反応した。しかしほどなくしてゴスロリはソフトな「メイド」に接近、シフトしていった。
それでもロリータ嗜好が消滅したわけではない。メイド・ブームにもうまく乗っかり、「ロリメイド」というまた矛盾した嗜好が生まれたように、ロリータ嗜好は常に入り込む余地を求める。中には「ロリ妊婦」などという嗜好さえあるのだから。そうなるともはや年齢的な意味でのロリータではない。
では、ここで言う「ロリータ」とは何か?
それは言いくるめれば「少女性」と言えるだろう。喩えばそこそこの年齢であっても、身長が低い、顔があどけない、などの少女的な要素を持っていると、実際年齢より極端に若く見え、寧ろ幼さを感じる。
汚れていない。これから成長していく。
これがロリータの本質である。
だが世間で言われている「ロリータ」とは絶対年齢的な側面ばかりが先走り、相対的なロリータを含んでいない傾向が強い。確かに少女性に起因するものなのだから、年齢的な判断は否めない。もう29歳なのに中学生に見える、といったように、年齢をものさしとして判断要素に用いている。
しかしロリータとは飽くまで相対年齢的なもので、実年齢には関係がないケースが多い。子供のような容姿の大人はロリータになり得るが、大人びた子供は若くてもロリータにはなれないように。さすがに婆さんが若作りしてもロリータではないが、逆に赤ん坊まで若くても(一般的に)対象にはならない。性的対象になるか否か、がロリータの判断要素の境界のひとつであるのではないだろうか。
少女性を好ましく思い、時として性的対象にとらえ、結果として「萌え」る。
それがロリータ嗜好の本質である。
そのため体型に起因する場合も多い。世間ではバストが豊かでないと「貧乳」の烙印を押され、まるで正常に成長していないかのように罵倒される。そうした風潮を気にかける女性はコンプレックスとして抱え込むが、逆転的に「貧乳萌え」を主張する男性も現れる。これは少女性を崇拝するロリータ嗜好のひとつだ。前述した「ロリ巨乳」などは性的な意味ばかりを拡大した都合のいい産物だが、現実的に少女の胸が大きいケースは少ない。一般に胸が大きいと「少女」ではなく「女性」として認識される。
しかし所詮、胸の大きさなど「記号」に過ぎない。ロリータを考察するには必要だが、それに極端にプライオリティを置くのは、単純かつ愚直なことだ。巨乳を崇める男性と同じで、それを性的にしか見ておらず、「胸が大きい=成熟している=セックスに有用」といった「記号化」による認識を行っていることになる。
そもそもロリータ・コンプレックスとは、ナボコフの原作をもとにしたスタンリー・キューブリックの映画『ロリータ』から一般にひろまった概念であり、主人公の少女「ロリータ」の名に由来する。彼女が可憐な少女であり、相手を翻弄する小悪魔性と犯しがたい聖性を有していたために、それがいわゆるロリータの雛形になり、そうした要素に惹かれる男性をロリータ・コンプレックスと呼ぶようになった。だからもし、少女の名が異なっていれば呼称が、年齢や容姿、性質が異なっていれば対象がそれぞれ変わっていたことだろう。それを知らずにロリータという言葉を「記号化」して用いている人間が多いのが実状である。
現在はさらに嗜好を拡散し、定義が曖昧になった「萌え」という記号を用いる風潮が強まっている。その言葉を使えば曖昧ゆえ簡易に自分の個人的嗜好を正当化できるからだ。
そんなに弱体化した男性でなくとも、幼女でも女子高生でも妻でも、あどけなく振る舞う仕草に「きゅんとクる」のは同質なことだ。しかしその純粋な少女性すら絶対年齢的な判断をされる。そのくせ「少年のような側面を持った男性」は肯定される。まるでミスコンに反対しながらイケメンは大好きな態度で。
これは一種の男女差別か、都合のいいフェミニズムではないだろうか?
女である自分を認めさせたいために、男性的な意見を手当たり次第に「否定」する。
その具体的な現象が、児童ポルノ規制法改正だ。それは犯罪抑止を目的にしながら実際には「少女性」を否定し、さらには少年まで巻き込んでいる。性的な面ばかりに焦点を当て、性的な意図などないものにまで「意味」を捏造している。昔は家族のVTRに裸の子供が登場しても構わなかったのが、まだ生殖器でない純粋な「おちんちん」にまでモザイクを施すようになったように。
これは規制する側こそがそういう目で見ているという証拠だ。当事者に無関係の団体が騒ぐ差別の規制と同じ構図だ。『ちびくろ・サンボ』はインド人をコミカルに描いた絵本なのに、日本人の団体が「アフリカ人差別」だと訴え、一時は絶版に追い込まれた。それと同じことだ。
そのため、偉大な文学や美術など「芸術」の範囲まで規制すべきと叫んでいる彼ら、もとい彼女らは、そうしたものを性的な視点でしか見ていないということだ。それらすべてを犯罪に繋がると主張し、本質である芸術的な部分をまるで理解していない。今の時代にリアル源氏物語をできる人間がいるだろうか? 小便小僧を見て興奮するだろうか? ましてや性犯罪に直結するだろうか?
彼女らは「童心」を忘れている。もはや「少女性」など理解できないか、したくもないのだろう。だからロリータ嗜好など不可解なものであり、理解できないので否定したがる。
そんな人間に、子供の気持が理解できるだろうか?
犯罪抑止という大義名分を納得させられるだろうか?
具体的に言えば『よつばと!』の本質を楽しめるだろうか?
有名な話だが、性的なゲームや画像を好むからため犯罪に走る者は、そうでなく罪を犯す者に較べて極端に少ない。だが一部の犯罪がクローズ・アップされ、常人には理解できない(寧ろ真剣に考えたこともない)という偏見も手伝って「異常犯罪」として認識され、そうした趣味のある全員が犯罪予備軍扱いされる。
そもそも、性的なゲームや画像を好む男性は、自慰目的でそれを使用している。となるとあらかじめ射精という到達点が設定されているので、自慰により射精した男性の慣例として、欲望はその時点でゼロにリセットされる。その過程として実際にできない設定やシチュエイションをヴァーチャル体験するように楽しんでいることを、想像力のないフェミニストは理解できない。単純脳で犯罪に直結させてしまう。
じゃあもう、男性が都合のいい女子を描く漫画も無駄でしかないのだろうな。腐女子がショタを描くのは許されるのに。犯罪小説の読者が殺人を行うケースも多いのに。
ロリータ嗜好とは、男性に許された「幻想」である。それを女子主体で公に行ったのがゴスロリであり、それが一時期であれひろまったのには彼らの嗜好が小さな世界ではあれど、自分だけの手狭なものではなかったこと、また認識してほしかったことを証明している。そしてロリータとはもはや「記号」のひとつでしか過ぎない。だが何にでも関われる記号であるがゆえに、誇大解釈する者が後を絶たない。
思い出せばいい、
本質はそれだけなのに。
理解できないから拒否する、
そういう姿勢では、何事も一生理解できない。
せめてどのような理由で支持され、どのような影響があり、どのような効果をもたらすかを考えなければならない。
その一例として、ロリータ嗜好をこのように考えてみた。
この文章をもって、私をロリコンと呼ぶのは簡単だ。しかしそれは同時に、あなたがそう呼ばれるものに偏見を持ち、理解するつもりもないという姿勢を露わにしている。ひいては、それがあらゆるものごとに対してのあなたの態度に繋がりかねないと、私などは思い込んでしまうだろう。
そういう人には「萌え」や「草食系」、「ツンデレ」といった流行り言葉も理解できない。そしてそのまま無理矢理考察した新書を出し、あたかも理解しているかのように取り繕って歩み寄ろうとする。テレビでコメンテーターとして訳知り顔でのうのうと講釈を垂れ、馬鹿にされる。
性癖とは、概してそのようなものだ。
[2009年12月27日(日)]
「青い文学〜芥川龍之介」
を見た。
これがシリーズ最後だ。他の作品はどうにせよ、芥川だけは言及しておきたかった。
まず、見た人みんな思うだろうけど、設定が突飛過ぎ。まあ平安の世の中を描いてもつまらない(というか若い層にはヒットしない)だろうから、ああいう近未来でありながら古風なメトロポリスを描いたのは無難ではある。そのうえで原作の描写を一応していることは認めるが、文学的懊悩がまるでない。
カンダタはもっと地獄に堕ちても平然としている器だと思っていた。地獄なんて怖くねえと嘯いていたのに、急にキャラ変わり過ぎだ。ましてや原作では地獄で苦しんでいた描写もない。蜘蛛を救った描写も薄い。お釈迦様など出てこない。カンダタが極悪人だったことを克明にしているのは解りやすいが。
良秀は余りに人間的に描き過ぎている。これでは芸術至上主義者以前に単なる風刺画家ではないか。娘がクローズ・アップされているのも仕方がないとはいえどうかと思った。お父様私を描いて、なんて言わないカヨワイ可愛い娘だったからこそ衝撃が強いのではないか。また最後が力尽きたようになっていたが、個人的には芸術を極めつつも親子の情には抗えず、まるで自害したことさえ匂わせる原作の描写こそが肝であったと思うのだが。
総じて、原作を知っていないと理解も難しい仕上がりだったのではなかろうか。あるいは誤解されてしまいかねない。他の作家はそうでもなかっただけに、芥川作品だけはいささか飛躍し過ぎた感がある。
ま、そうでもしないと芥川の設定は古くて地味なのはわかっている。だから若い層を狙うとこうなるのはまあ仕方ないことだ。けれども芥川が生きていたらこれを何と思ったのだろう。解説も、私小説がまるで文壇の主流になったような言い草だったが、んなことねえのに。ましてや芥川がそれに乗っかろうとして私小説を書いたようなことを言っていた。「大導寺信輔の半生」とかはそんなんじゃなく、芥川流の遺書であるのになあ。
つまらないわけではなかったが、いかんせん心酔している芥川作品だっただけに、どうかなあと思ってしまったのも実際のところだ。かといって原作重視して否定などせんが、いかにも受けを狙った感が強くてねえ。
この「青い文学」シリーズは、DVD化が決定している。
しかしべらぼうに高いので、それならANIMAXで正月に一挙放送されるのを録画してDVD-R化しようと考えている。そりゃプレス盤が手に入るに越したことはないが、先立つものがない。
そうしたプランを考えておられる方のため、プログラムを転載しておく。
■アニマックス
1/1(金) 21:00〜23:00 「人間失格1話-4話」
1/2(土) 21:00〜23:00 「桜の森の満開の下
前後編」 「こころ 夏冬編」
1/3(日) 21:00〜23:00 「走れメロス 前後編」「蜘蛛の糸」「地獄変」
作家別を基準として、5枚に焼こうと思っている。
で、何度も見て、それなりの感想を抱こうと思う。
ただ芥川だけは、直後に感じたままを書き残しておきたかったので、眠る寸前にPCを起動させた。
何はともあれ、これを機に、偉大なる文学作品に触れてもらえれば幸いである。
さあ、「青空文庫」へ行ってみよう!
[2009年12月23日(水)]
「それなら、やめてやりましょう」
煙草税の大増税につき、煙草は1本5円、つまり20本入りのひと箱で100円の値上げが決定した。
例の「ひと箱1,000円にすれば税収がウハウハ」という小学生暗算をもとに、そこまでやっちゃあからさまで問題になるからもうちょっと麻痺させるぐらいでいきましょう、と目論んだ結果だ。
それが「苦しいから取りやすい煙草から取ります!」と素直に言えばいいものを、「健康増進を目的に喫煙者を減らすため」という名目を設けている。
は?
喫煙者を減らすのが目的なら、どうしてそれで税収が賄えるというの? 絶対数が減ったら相対数を上げても結果的に増えないじゃん。矛盾じゃないか。
健康増進を目的に掲げるなら「メタボ税」なども考えてみてはどうか。じわじわ侵食するニコチンより直接的に健康に直結しているし、問題になってるんだから。
しかしそれは提案されることすらない。官僚自身がメタボなので、自分の首を締める真似はしたくないから。
飽くまで「国民主体」なのだ。
税金の徴収先も。
これに嫌煙家は、必要以上なまで歓喜の声をあげている。
「ざまあみろ」
「迷惑なんだよ」
「当然だな」
その殆どすべては、感情論だ。
一部の、いや寧ろ殆どのマナーを守っていない馬鹿喫煙者のせいで、そういった感情が自然発生するようになっている。
そのため本当にマナーを守っている愛煙家が発言すると、その発言の隙を突いてイメージだけであることないこと吐いて「否定」してくる。ともすると、誰にも迷惑がかからない部屋でひとりで喫っていても迷惑だと主張するのだ。最近出た無害の電子煙草も、無害でも迷惑だとイメージによる感情だけで否定する。煙草は煙と香りを楽しむものだと主張する人がいれば、お香を歩きながら焚いている奴はいない、香水のビンはポイ棄てされない、と極端な例を出す。
わからない。
どうしてそこまで、感情的になってまで「否定」するのか。
これが自分に関わる「テレビ税」「パソコン税」「漫画税」などであれば、猛反発するのだろう。そう、結局庶民は、自分に関与しないところからなら幾ら税を引かれても関係ない、寧ろそういったところから搾取してくれということだ。
だから(なりたくないけど)感情的になれば、「パチンコ税」や「ブランド税」もどうか、と言いたくなる。それは僕には関係ないから、そう思える(その実まとまった税収が見込めそうだとも思うのだが)。現に「コーヒー税」とか「ガム税」などを提案しているブログなどがある。それはその人がたしなまない品だから。
自分に関係のないことだと、感情剥き出しになってでも「否定」していいようだ。現実的に税率が上がるとやめる人が増えてどうのこうの、と考えるよりも「ざまあw」と言いたくなるのが現代日本人らしい。
次は酒税を狙っているのだろうけど、煙草以上に反発があるだろうからどうなるかな。ひいては「ペット税」なんてものさえできるかも知れない。ペットは娯楽やファッションだと思っている連中が多いからね。
それに、
どうやら政府もJTも煙草税増税賛成者も、
「喫煙者は依存者だから幾ら上げても結局喫う」
という思考が根底にあるようだが、それは余りにも喫煙者を馬鹿にしていないか?
中には知ったように「マリファナの方が依存度が低い」と抜かす者もいるが、彼は煙草もマリファナも喫ったことがない。自分の煙草に対するイメージと、聞きかじった情報だけでそう断言している。
醜い。
経験論は嫌いだけど、経験していないことをイメージだけで、さも当然のように語るのは愚かしいね。まるでオナニー中学生がセックスを語るようだ。
煙草をやめるには依存云々よりも、意志の問題ですよ。
本当の依存者は、容易にイメージされる依存者の数段信じられないほどの喫煙者だ。それを1日ひと箱だけでも、やれ依存、おまえはやめられない、と決め付ける。それを真に受けた意志薄弱な自称愛煙家もそうかなあ、と思い込み、惰性でやめることができない。
本当の「依存」とは「それなくして生きられない」状態だ。
僕は過去にアルコール依存症になったことがあるけど、まさに「それなくして生きられない」状態だった。朝から晩までひっきりなしに呑み続けて、幾ら呑んでも底がなく、医師から正式にアル中だと診断された。
それぐらいいかないと「依存」とは言えない。
なのに煙草も酒も、のんでいる人をすぐに「依存」と決め付けてひとくくりにする。まるで喫煙者全員がマナー違反者のように。実際には「携帯依存」「ネット依存」の方が明らかに多くて迷惑でも、自分が必要だからそれは言い出さない。
都合がいいね。
庶民なんてそんなもんだ。
はっきり言いましょう。
僕は、いつでも煙草をやめられます。
現に(詳しくは書かないけど)煙草を喫わないように命じられた間は、まったく苦なくやめることができた。最近は本数も減っていて、食後の煙草も喫わなくても構わないぐらいになった。誰か(主に喫煙者の友人)といると本数が増えるが、ひとりでは積極的に喫う気がしない。
だから、
来年10月、愛飲する「わかば」が値上がったら、僕は煙草をやめます。
「増税=収入増」という小学生理論に呆れたので、それまでにやめてしまう可能性が高いけどね。
ニコチンは中毒性が何だかんだ、という統計のみで判断してほしくない。
本当に日に数本だけたしなんでいる人だって多いのに、全員を依存者扱いしてしまうのに嫌気がさした。
分煙が一般化して寧ろ納得し、
タスポを強行されて反感を抱き、
マナーを守っているのに外では喫ってはいけなくなり、
携帯灰皿を使っていてもポイ棄てするだろと決め付けられ、
あげくにまとめて搾取ですか。
じゃあ、やめてやりますよ。
馬鹿にするなら、あんたらの思い通りにはならない。
しかも「健康のため」というおためごかしで目的をすり変えるなら、嘘を吐くなと叫ぶ。
ヘヴィ・スモーカーなのに健康な老人は、認知症になりにくいとか。
女性は非喫煙者の方が肺癌発生率が高い。
肺癌になる人は煙草を喫わなくても遺伝子レヴェルでそう組み込まれているのだからなる。
煙草が「百害あって一理なし」ではないことを検証した論文も多く存在する。
なのに「煙草=肺癌」というイメージ強化。
都市部の排ガスの方が健康被害が大きいのに。
それなら交通事故はどうなるのか。
おためごかし抜かすんだったら、未成年の喫煙や違法喫煙、ポイ棄てを罰金化した方がモラル的にいいのでは?
喫煙者すべてを悪としてくくってしまうのはどうなんだ?
歩きケータイも電車内の通話も自転車ケータイも罰金を科せばいいのに。
それこそ明らかな悪なのに。
みんなみんな、無自覚な確信犯なのに。
今は、正直者が馬鹿を見る世の中になっている。
こうした風潮は、煙草だけの問題じゃないぞ。
[2009年12月12日(土)]
「覚書」
森見登美彦『四畳半神話大系』がTVアニメ化、湯浅政明、中村佑介、上田誠ら豪華制作陣
今やっている「空中ブランコ」の枠ではないか!
これは大いに期待だ。録画しよう。DVD化しよう。
それにしても、樋口はいささか歌舞き過ぎではないだろうか。
[2009年12月11日(金)]その2
「タブーを破る快感」
世間体、
そう呼ばれる、一種の境界がある。
これを逸脱することは「タブー」とされ、一般的に好まれない。しかし確実に、そこに快感を見出す者がいる。いや寧ろ、その枠内で生活している人間にとっては、無意識下(の意識下)で魅力的に感じているものですらある。それは性的な事柄が多いのだが、それ以外の日常生活でも基本的に存在する。
喩えば、遅刻上等で二度寝することの何と気持いいことか。昼間っから呑む酒の何とうまいことか。高校生が恰好付けで煙草を喫うのもタブーを破ることで社会に反抗している態度を示せて、自分が偉くなった錯覚を受けるからではないだろうか。となれば不良やゾッキーが暴走するのも……というように、社会的規範を逸脱したところに快感を見出すケースは少なくなく、寧ろ普遍的に存在している。しかし日常に生きるためにはそれを簡単に破ってしまうのは相応しくないので、皆好んで行っていないだけだ。
それをムーヴメントとして行ったのが、いわゆる「パンク」である。コード進行があたりまえの音楽概念を崩し、ファッションからライヴ中の行為まで、あらゆるタブーを破ることを目標とした。そのため既成概念の破壊に快感を見出すミュージシャンやリスナーが増え、爆発的に流行した。
しかし、そのムーヴメントも数年で落ち着き、日常的な範囲でのファッションや言動が残るばかりになった。というのも、パンク自体が下に記したような「非日常」を表した行為であったので、日常で暮らすにはそれをやめなければいけない。そこで日常におさまる範囲で「パンクっぽい」ことをするようになった。会社に怒られない程度の髪の脱色や、ファッション・パンク。音楽で言えば「パンク」といういちジャンルにおさまった定型化。そうして非日常が許される範囲で日常化した。
しかし彼らは、当初はタブーを破ることにこそパンク精神を見出していたので、ステージで小便やマスターベイションしたり、ファンもそれを見て喜んだり、放送禁止用語を乱発した歌を歌った。そしてそれこそが快感だった。
だが、世間はタブーに満ちている。「祭り」としてのそれらはまだしも、日常生活ではタブーは飽くまでタブーであり、警察官に対してキチガイ野郎と暴言を吐いたり小便をかけると逮捕されるのが現実だ。そうやってタブーは隠匿され、守られている。
ビートたけしが毒舌だと思うのは、視聴者がタブーを破ることをよしとしていないからだ。不謹慎ネタやブラック・ジョークは、度が過ぎなければかっこうの笑いになる。しかし同時に良識派が顔をしかめる。これはタブーを破ることに快感的な笑いを見出すか、タブーは破るべきではないと思って快感を否定するかの違いが如実に現れている。
と、前書きはここまで。日常のタブーはまあ解るでしょう。
本題は、性的興奮という意味でのタブー打破である。
こと性的なものは、基本的にタブー視されている。だからこそセックスやオナニーは人に見られないように行うことが暗黙のルールとなっている。そうでなければ歩行者天国は露出狂の大群が発生してしまう。
しかし、性的なことはタブーであるからこそ、快感を生み出す。
セックスやオナニーを憶え立ての頃は「こんないけないことしてる私」を行為に見出して、自己倒錯し、快感に繋がる。それが日常的な行為になっても、タブーに包まれた日常に生きていればその感覚は消えない。ましてや相手が相手だと「こんなイイ女を犯している俺」「こんなイケメンに抱かれている私」「有名人としてる俺」などと振幅は大きくなる。不倫や浮気もそうした傾向があるだろう。
風俗では、それがタブー視されていないのであっけらかんと行為を行える。寧ろそれが彼女らの仕事であり、日常であるので、そこにタブーはない。だからこそ気楽に風俗通いする男性が後を絶たない。一時期流行った援助交際も、金をもってして女子高生と交際するという、社会的な視線でのタブーを打破するという側面があった。ブルセラもそうだ。
解りやすい例で、淫語を連発するのもさせるのも、それが禁止用語というタブーであるから快感を得るのだ。もし「チンコ」「マンコ」がある種の禁止用語でなく、ニュース・キャスターでも使うような言葉であれば、誰も興奮を覚えない。日頃親しくしている人間がそれを連発したところで、既にタブーではないので何の感慨も覚えない。だからおしとやかな女子がそれを口にすると、男性は否が応でも興奮するようにできている。「チンコ」は完全に禁止用語ではないので、男性はよく用いており、それほどタブー視されていないが、一方の「マンコ」は完全にタブーであるので、その言葉に快感を見出す者は少なくない。しかし社会というものの中に生きているという認識あってこそ、本能ではなく理性でそれを快感にシフトするのだ。そういう意味では「おっぱい」は思春期の青年にはタブーであるが、母乳を与える女性にとっては何でもない言葉という例が挙げられる。
倒錯した行為も殆どが、タブーを破る快感のもとに成り立っている。露出行為などが解りやすい。日常の世界では外では裸になってはいけないという決まりがあり、それを破ることで彼らは快感を得る。裸を人に見られてはいけないというタブーを破り、注目を集めることに快感を覚える。だからこそプレイの一環としてオナニーを見せ合うものもあり、それは相手に見られて自慰倒錯する自分に興奮するのだ。そこまでいかなくとも、見られてしまうのが怖い、でも見られたい、という複雑な心理は日常に生きる人間の露出性として誰にも存在するのではないだろうか。
スカトロジーもこれに値する。もとより排泄物であり、棄てるべき便を敢えて食することに、タブーを破る快感を見出す。そこまでいかなくとも、異性が小便をするのを見るだけで興奮してしまうライトなスカトロ感覚は多くの人にあるだろう。普段は隠匿されている行為だからこそ、それが見られるとタブーを打破し、日常から逸脱した快感を覚えるのだ。
少しだけ話をライトに戻すと、制服プレイもそうだろう。可憐な女子高生を犯す、貞淑な和服美女を乱す、ツンと澄ました上司のOLを滅茶苦茶にする、女性警察官やナースを犯す……といったように、ある種の「記号」と化した制服により、そこに設けられたタブーを破る快感を前提としている。その極北が「喪服」だ。夫を亡くしたばかりなのに関係を持ってしまう、というのは典型的なタブー視点ではないだろうか。
こうしたタブー打破による快感があるからこそ、こと男性は性的嗜好が分散し、またそれを明らかにすること自体もタブーであるので、深化していく。そのためアダルトDVDはコーナーが無限に増えているようだ。友人に連れられていった店で、「お姉さん」や「セーラー服」は当然として、「姪っ子」や「自衛隊」、「ニー・ソックス」に「眼鏡」、「電気アンマ」に「鼻水」……死ぬほどジャンルが細分化されていた。ほんと男ってバカ。
こうしたタブー打破を認識するだけで、自分の性的な傾向や、何が快感であるのかを分析できると思う。それを認識するだけで、セックスなりオナニーなりがより気持のいいものになるだろう。
なんて提案している僕自身、頭でっかちなだけでまだまだなんですが(何がだ)。
あ、変態だと引いている人もいますね。考察しているだけなのに。まあそういう人は常識的な感覚をものさしにしているから、そうでないことは否定したいでしょう。でも常識では考えられないことも多いのだよ。
それに、すべてを本能だと片付けてしまうより、理性でも感じられる方がいいと思うんだ。性的な意味だけでなく、様々な日常的な快楽にまでそれは及んでいるから。
最後に、ごく手狭な例を。
吉田戦車の漫画『伝染るんです。』に「とりかえしのつかないこと」を敢えて行う老人が登場する。蓋を開けたビデオ・デッキに納豆を垂らすなどして、「ああ、とりかえしのつかないことをしてしまった」と嘆くのだ。
それはある種の「タブー打破」に快感を見出した行為だと思われる。それをやってはいけない、やったらどうしようもなくなる、と解っているのに、敢えてやってしまう。そして解っていたのに改めて後悔する。しかし、それを行わずにはいられない。
この4コマ漫画に、僕はそうした縮図を見た。それこそがタブーにがんじがらめにされて生きる日常的人間の持つ感覚ではないだろうか。世間的には何てことのない不条理ギャグなのだろうけど、その実、こうした解釈もアリなように思える。
[2009年12月11日(金)]その1
「性的なる非日常感覚」
なぜ、男子は女子のパンチラで興奮するのか。
何を馬鹿なことを、と思われるかも知れないが、まあちょっと聞いてみなさい。普段、無意識に興奮して「本能的なことだから」と片付けているそれも、きちんとした理由があるんじゃないかと思うのだよ。僕は。
まず始めに、「女性の下着」というものは、男性にとって「非日常」的存在である。
シャツやスカートという「日常」に隠されて、普段は表に出されない、「日常」の中にしまわれた「非日常」。しかしそれらは共存することで互いの存在を確立しているので、下着だけで街を歩くと「非日常」が「日常」を越えてしまうため逮捕される。逆に下着をつけずに衣服だけ着るのは、「非日常」を下着ではなく胸や性器に置き換え、目に見える「日常」でカヴァーしている。こうしてそれらの均衡は保たれている。
それが不意に、崩れる時。
風でスカートがめくれ、下着がチラリと見えた時。
そこに、「日常の中に存在する非日常」が現れる。そのため、「日常」に依存している人間は大きな違和感を受け、男性は「下着」という非日常の記号に反応する。見られてしまった女性も、非日常を露わにしてしまったことに対して日常的な感覚で恥を覚える。だからこそパンツ・ルックの女性には性的反応を示さない男性が多いのだ。そこでは丸きり「非日常」が隠匿されているから。
してみれば、性的なものごとは多くが「非日常」に属している。
上に挙げた下着の例で言うと、付き合い始めの男性は、女性の下着姿に大いに興奮する。しかし見慣れると興奮度合いが下がってくる。これは、「非日常」であった筈の下着が、「日常」のものとして認識されてきたからだ。そのため、時に女性はセクシーな下着を買い求め、男性に新たな「非日常」を認識させる。だから長年連れ添った妻や、関心のないオバハンのパンチラは「非日常」性に欠けるため、欲情しない。またアイドルや芸能人は「非日常」を隠匿しながらメディアに出ているので、不意にパンチラなどすると騒ぎになり、それを性的対象として好む者も少なからず存在する。だからトーク番組での下ネタは「非日常」を味わえるので盛り上がり、逆に「日常」の感覚をキープしたくて嫌う人もいるのだ。あるいは幼児の下着に興奮する変質的な男性は、逆に目にしないそれらこそが「非日常」になるのだろう。
ということは、偏愛主義者の好む「スク水」「ブルマ」「制服」などは、ある種「非日常」的存在であると言える。それらは本来日常に属するものである筈が、同世代の若者と違い、ノスタルジィや憧れが先走ったオッサンには、女子高生の制服姿が「非日常」として映る。若い男子でも自分の学校がブレザーだとセーラー服に憧れるようになる。普段病院に通わない者にとってはナース姿が「非日常」となり、OLの整った制服を乱すということは「非日常」である。制服プレイというものは、そうして「日常を越えて非日常を体験する」ことに興奮するきらいがあるのではないだろうか。
その境界に存在しているのが、「水着」である。
水着は、夏の水場では日常のものとして着られるが、部屋の中や街なかでは「非日常」的なものとして認識される。考えてもみなさい、水着姿で八百屋に買い物に行ったり、電車に乗ったら怪しまれるでしょう? さらには季節的なこともあり、冬になっても水着が売られていると「何で今頃」となるように、夏以外の場にそれが存在すると違和感を覚えるようになっている。そのうえで、「『下着という非日常』に限りなく近い日常」として存在している。だからきわどい水着は下着性を醸し出すので非日常的な違和感を抱かしめ、恥じらいや興奮を生む。うら若き女子が露出の少ない水着を強制されるのは、それがまだ彼女らの「日常レヴェル」であるからだ。やがて発育し、露出度が高くなるのは「日常レヴェル」が変わったからだ。さらに齢を重ねてシンプルになっていくのは、また「日常レヴェル」が変わったからだ。
これは普段の衣服にも言えることだろう。オバハンが若い娘の恰好を真似ると「いい齢して」と言われ、男性がスカートや女性の服を着ると「男のくせに」と言われる。それは、そう言う人々にとってそれらが「日常」でなく「非日常」的な存在であるからだ。だからこそ逆に、若い恰好をして喜ぶオバハンや、女装して興奮する男性がいるのだろう。
そうした「非日常」は、性的興奮を招くことが多い。それ以前にセックスという行為自体が、一般の人間にとっては「非日常的行為」であると認識されているのだから。それがもし「日常的行為」であれば、パパとママは坊やが寝静まってから抱き合ったりしない。芸能人が誰とくっついたとか言われても関心が湧かない。それどころか露出プレイが当然になってしまう。
そのためウブな若者にとっては、セックスは体験が少ないため、「非日常」としての認識が強く、なかなか踏み出せない。あるいは感覚を飛び越えて失敗してしまったりする。次第に慣れてきて「日常化」してくると、新しい刺激を求めて「非日常」を導入することもままある。服装や器具やシチュエイションなど、「非日常の記号」を取り入れることで、日常化したセックスを再び非日常化する。そうすることで再び欲情のスウィッチが入る。このバランスを整えながら、多くの人間はセックスという行為にいそしむ。
これがエスカレートすると、便や露出といった逮捕寸前な行為にまで及んでしまう。普段は見せてくれない排出を見たり味わうことで「非日常」を感じるようになってしまったり、外で裸になるという行為に「非日常」を見出して興奮したり。しかしそれらは常人ならば当然の感覚であるので、多くの人々はそこまで「日常感覚」を崩したくない。それを守らなければ、「日常と非日常の境界」が曖昧になり、喩えば外出時はヴァイブレーターを挿入して出かけるということが「日常化」してしまうというパラドックスに陥るからだ。日常に生きる人間として存在するには、そのバランス感覚を失うとその世界で生きられなくなる。逆に、逆説が前提であるセックス・コミューンで生きるには、その日常感覚を棄てて「非日常こそが日常」であると認識し直さなければ暮らせなくなる。
男子中学生がオナニーに没頭するのも、そこに「非日常感覚」があるからだ。自慰行為というものを憶え立ての頃は、それがまだ「非日常」のものとして認識されている。そのため、日常を逸脱した言いようのない罪悪感を伴う。しかし繰り返して日常化してしまうと、タブー感覚もなくなり、さらなる「非日常要素」を加味するケースも多くなる。器具の使用やアナル開発や女装や露出、といったものを導入するケースが増える。
アナルに関して言えば、最近ではアナル・オナニーのハウトゥ本まで出ているぐらいだから、それは日常化してきているのかも知れない。現にアナル・セックスは珍しいことではなくなってきた。ここに「非日常が日常になった」例が見られるだろう。
それがネット社会になると、ますますエスカレートする。非日常を求めて、セックス・フレンドを募集したり、偏執的な性癖を持つようになったり、グロテスクな描写に憧憬を抱くようになる者もいる。彼らは、日常に属しているという感覚が薄れ、単純に性的興奮のためにだけ非日常を利用しているため、ヴァーチャル感覚で楽しめるネットでは際限なくエスカレートしていくのだ。過激なメールを交換していた男女が初めて会ってみるといきなり内気になってしまったりするのも、そこに改めて日常を認識するためだ。
この「日常感覚」に欠けた者は、時として犯罪を犯す。余りに非日常を求めてしまったため日常にそれを呼んでしまい、実行してしまう。幼女や女子高生を好む性犯罪者など、その典型だろう。犯罪とまでいかずとも、浮気や不倫もそれと同じ心理状態にあると考えられる。また匿名掲示板で好き放題書き込めるのも、つまらない日常の中にリスクなく非日常を体験できる悦びを感じられるからだ。
「オナニーだけしてりゃ幾らでも妄想できたのに、セックスという現実を知ったらうまくいかなくなる」
とは永遠の童貞・みうらじゅんの至言である。ここには日常と非日常のせめぎ合いが秘められている。
かくも日常とはわずらわしく、しかし守らねばらならない常人感覚であり、非日常とは興奮を催すものであるのだ。
と考えてみれば、多くのものはそれを当て嵌めることができると思うのだが、どうだろうか。
これは次の話題にもリンクします。
[2009年12月06日(日)]
「文学トリビュート」
気が付けば、名作日本文学が再評価されている。
というより、正直な感で言わば、青白く崇拝され直している。
発端は、角川文庫の「新装版」だった。
日本文学名作群から、芥川、太宰、安吾、漱石のジャケ、もといカヴァーを『週刊少年ジャンプ』の人気漫画家によるオリジナル・イラストにして再発売された。
奇しくも太宰治生誕100周年の年、否が応でも注目され、ジャンプしか読まない漫画少年まで名作を読むようになった。というかイラスト欲しさに買うようになった。お陰で太宰の『人間失格』は結構売れたようだ。他はまあそこそこだったのだが、僕の知っている若い人でも、漱石の『こころ』を買っている人がいた。ちなみに『こころ』はBUCK-TICKの櫻井敦司の愛読書でもある。その実僕はあんまり好きではない(わやや、ごめんなさい)。
そもさん、僕が漱石を読んだのは芥川に惚れたあとだったので、その師匠たるやどんなものぞ、と読んでみれば、何だかいろんな意味で古臭えなあと現代の価値観で思ってしまい、作品をいろいろ読んでからはいかにも漱石らしいなあと思い、しばらく読まなかった。それから再読していないので、すっかり忘れている。いやね、中島らものようにトンガってた時期に酒に酔ってダラダラ眺めたって感じで、そのうえわたし生悟りですから。まだ『坊ちゃん』の方がええな思てましてん。せやからなして関西弁なるねんて。いやその、影響ですか。何の。みえちゃんかな。
ともかく、そのラインナップは「ははあ、いかにもというかわかりやすい選別であるなあ」と思ったのだが、その実、安吾が入っていたのは意外だった。安吾なんてヤク中の中二病の萌え野郎じゃないですか。ま、そこが好きなのだけど。けれど『堕落論』だったところがまあ無難かなと。初めて読む人にはあの時代なのにヤンデレ全開でびっくりするかも知れませんが。といっても前述のような理由でまるで憶えてないのですが。かといってWikipediaを読んで知ったかするほど僕は子供じゃなくなった。知らないことを知らないと言えることは割と人付き合い的にデカいことですよ。「無知の知」ですか。まあそれも前述のように(以下略)といってもさらっと読みはして、ああせやったそんなんやった、思うたのですが。
ともかく(2度目)、
いかにも「近代の文豪で近寄りやすく入りやすい(できれば著作権が切れている=印税が入らないので売れなくてさあどないしょ)」ラインナップだったので、まあそんなものかなと。そりゃ露伴の『五重塔』岩波版をそのまま出してもなあ。内田百閧ヘ渋過ぎるし。オーガイ先生(変換メンドー)だって地位的には高いけどなあ。近寄りがたいんですよ、そういう人って。ついでに言えば新潮と違って角川は近代文学を余り扱ってないからね。
それに較べると芥川はエゴイズムでうーんマンダムなポーズの元祖だし、太宰は人間失格ですいませんというイメージができてるし、漱石はまあ芥川の流れでいくとひとつぐらいは押さえておかなあかんかなと。だからこそ安吾が意外だったのですね。まー『蟹工船』的なリヴァイヴァル狙った感もあるけど。時代的にフィットするし。
それはまあいい。
それからが問題だ。
現在的な話で言うと、日本テレビの深夜で定期的に「青い文学」という番組を放映していることを諸兄はご存知だろうか。って今回はやたら文体が変わるなあ。まあ久方振りに文章を書いているのだからしゃあない。
で、それは何かとお嬢さん。そいつぁ素敵さ、文豪の名作を新装版カヴァーを描いた漫画家の作画でアニメ化しちまおうってハラよ! そうすりゃ原作を知らないアニメ少年も文学に向かうという魂胆さ! それもジャンプ作家だからマニアも見逃さないさ!
というわけで、「青い文学」は夜行性のかたつむり層に割と見られているようだ。僕もそれを知ってから見るようになった。こうして騙ってるくせに実は最初の頃は知らなくて見てなかったんですけどね(「人間失格」なんてめちゃめちゃ見たかった)。ついでに言えば『空中ブランコ』がテクノ調に徹していて軽くてええなあ思たんですけどね。ここはわかる人だけわかってつかぁさい。オマエはどこの人だ。
何だか脱線するなあ。久しく文章を書いていないとダメだなあ。
でね(ここから急にオカマな書き口になります)、実際にそれを見て原作を読みたくなる若い子も多いのよ。って言うと上から目線だけど、それは文学に接していなかった人が急ごしらえで知ったかするのが嫌だから。かといってあたしも芥川師匠以外は殆ど憶えてないんだけどね。アニメ見て改めて「青空文庫」で読んだりして。
それはまあいいの。入り口は様々だから。
でもね、結局、太宰で言えば小畑健の絵の『人間失格』しか読まなくて、彼をそのイメージでとらえちゃうじゃない? 実際、太宰イコール生まれてすいませんっていう人が殆どだから。あたしもそうだったしー。そういう人には森見登美彦氏の選集を読んでもらいたいんだけどー。あたしトミヒコさんのファンだからー。
という人もいるのだろうな(急に)。
ま、ええんです。作家にどんなイメージ抱こうと。それは即ちパブリック・イメージに繋がって、芥川はエゴエゴしてて太宰は自虐の虫で安吾は変態で漱石はカタブツだと思われても。そういうイメージって大切だしね。いろんな意味で。わたしも場所によって怖い人や粘着質や阿呆やヘコヘコする小心者と思われてるようなんで、イメージを抱いたその人次第だしね。いちばん解っていちばん解っていないのは自分自身ぐらいです。そんなもんじゃない?
で、そこへ、ちらっと前述した森見登美彦の文学トリビュート『走れメロス 他四篇』が文庫になったのも、奇しくも同じ年のことである。これを偶然と呼ばず何と呼ぶか。必然と言い切ってしまうか。好きだけどそこまでファンじゃない。最近何だかいろんなことに醒めてるなあ。
その『走れメロス 他四篇』は、トリビュートであるので原作を知っている人にもモリミー(本人はこの名称が好きでないらしい)のファンにも受け入れられる、面白可笑しいものだった。相変わらず短編を連作にしてしまう手法はあるし、あの通底した世界の繋がりはあるし、単独でも楽しめるし……っていうかパロディだから漫画で言ったらおまえの嫌いなアンソロジーじゃね? それでもいいん? ああいいよ。文学ならいいん? いやそういう意味じゃなく、自己満足じゃなくて作品としてよくできてるから。じゃあ漫画はそう思わないん? そうね。あずまの過去作も? 読んでないから偏見でそう思う。などと自問自答する苦悩の日々を過ごした挙句アルコールに酔って不貞寝して起きて酔い醒ましにビール呑みながら炒飯作る、な毎日なんですけど。そんなわけでもないけど。どっちなんだ。
でね、
僕が言いたいのは、さっきは「まあええんちゃう」と書いた「イメージで作家を判断する」思考が動いちゃうことなの。それって文学だけでなく、音楽でも言えることでしょう? やれこのアーティスト(ヤなコトバだ)はこんな曲を作ってる場合じゃない、とか。それを大衆の意見としてまとめたらその代表のように糾弾されるし。ってどっかのページの話みたいですが、最近、似た思いしたある方と親交を深めているものですから、切にそう思ってしまうのです。奢りじゃなく、実際的に代表者になってしまっているという立場から。ってのは余談として流してください。余談が多い。
そういう「イメージ」を抱えてしまうと、その人をそういう視点でしか見られなくなってしまう。それも自分の知っている情報だけでの判断で。イコール、パブリック・イメージにも繋がるのですからね。ネット中心になった現代はそんなもんさ。
でもね、
芥川が実は西洋と東洋の中途半端で太宰が実はお調子者で安吾が実は思想的で漱石が実は悲観的だったとか、そういうことはいろいろ読まないと感じられないと思うの。もしくは読んでもイメージで読むとわからないと思うの。
だからね、
ゼロがいい、ゼロになろ〜♪(すいません、大っ嫌いです)
固定観念を取り払って、没入してみれば抱いていたイメージも変わると思うんだ。それはミュージシャンで言えば最新シングル曲だけで判断せずに、オムニバスにだけ収録された実験作を聴いて「え、こんな側面あったんかいな」思うように。それからそういう視点も持てるようになるように。
せやから、誰かをひとつの側面だけで自己判断してまうのは危険や思うんです。これは自分が味わった苦悩も加味しての意見なのですけれども。
喩えばさ、
コンビニ店員が、めちゃ忙しい時にしょうがなく事務的な態度になってまうと、その人をそういう人や思てまうでしょ? しかもよく行く店やなく、たまさか寄ったお店やったら。せやけどその店員さんは忙しゅうて事務的になってまうだけであって、余裕ある時の常連さんにはえらいフレンドリィやったりするやん。または常連さんでもウザい奴やったら事務的になるやん。
そういうことですよ。
なので、僕も足繁く通っている店にも傲慢にならんよう気を付けています。いやね、コンビニ店員時代のトラウマがデカくて……初めて会った暴虐な客に「あいつ辞めさせろ」言われましたからね。はっきり言って店員寄りな意見ですよ。せやけどそれ一度でもやってみいひんとわからへんやん。ってこたぁ大嫌いな経験論なのか? とイキナリ迷い出すので、ここで一服してしまった。眺めると、あー、軽い文章だ。でもええこと言ってるんやからええんとちゃう? と自己満足。ちなみに僕は大阪人ではありません。
ま、
そんなわけで、要は「自分が一方的に抱いたイメージに頼るな!」ということです。すごく曲折しましたね。少しでも面白く書こうと思った時はいつものことですが。
と言いつつ、
これから(現在、日が変わって間もなく)見る「青い文学」は、来たぜ伝家の宝刀『走れメロス』! あの名作と言われる迷作をどう描くか楽しみだぜ! 恐らく無難に仕上げてるだろうけど、ここのところの少ない楽しみのひとつなんだ。けれどどうしても過去の名作を現代的な価値観で無理矢理アニメ化して若年層に歩み寄ってみました的な感は抜けないが。それは俺が文学至上主義を逸脱できない時代遅れであるからだと思う。
と、丁度始まる頃だ。
では、オヤスミナサイ。
*追伸*
予言。
多分このシリーズのDVDボックス出る。
*さらなる追記*
ボックスじゃないけど、案の定DVD化は決定しました。「失格」なんて劇場公開もされるらしい。
しかし不必要なほどたけえ。
ジャンプ読者も狙っての値段なんだろうけど、これなら文庫買ってイメージ広げた方がいいわ。
中古で激安になるのを待とう。
どうせなる。