04.「箱庭」

神様なんか、いやしない。
もしいるとしたら、あまりに不平等だ。
その日のあたしはヤケになって、親しい男友達とセックスした。相手がイキそうになると無理矢理上に乗っかって、胎内(なか)で出させた。安全日だったわけじゃない。何もかもがヤケになってた。男友達はそれをきっかけに交際を申し込むどころか、うろたえ始めたのであたしはよけいゲンナリした。だから友達の縁を切ることにした。もちろん、妊娠したらそいつの責任にするつもりだ。
あたしがムリなセックスをしたのには、ワケがなかったわけじゃない。契約社員だったあたしは瑣末なミスを指摘されて仕事をクビになり、帰ってきたらパソコンが壊れて動かなくなっていて、そんななかであたしはいっぱいいっぱいになり、携帯電話で男友達を呼んだ。そしたらそしたで、電池が外れて住所とかメルアドとかがいっぱい入った携帯のデータもパァになった。
それで、ぜんぶイヤになってヤケでセックスした。
それぐらいの理由だけど、あたしには、大問題ばかりだった。クビになったから次の仕事をすぐにでも探さないと部屋代も払えなくなるし、イラストや編集のスキルは少しはあるけどパソコンが壊れている。携帯のデータがなくなったらシステム手帳なんか持ってないあたしは親にぐらいしか連絡ができない。セックスした男は最低だったし、ひょっとしたら妊娠するかもしれない。
神様は不公平だ。あたしがこんなに困っているのに、目の前でウダウダ言っている男にはじゅうぶんなお金も仕事も環境もある。腹が立ったあたしは、自分で呼びつけたにもかかわらず、そいつを部屋から追い出した。気分転換に音楽を聴こうとしたら、CDラジカセまで壊れてキュイキュイキュイキュイッ、と嫌な回転音を立てた。代わりにテレビをつけようとしたけど、それはやめた。テレビまで壊れていたらあたしはますますイヤになって、どうにかなっちゃうかもしれない。
あたしはとりあえず、寝ることにした。それしかない。それしかできない。午後十一時二十分のあたしには、それぐらいしかできることがない。
世の中は、つまんない。期待すればするほど、バカを見る。
眠れないあたしは睡眠薬をお酒と一緒にのんで、ムリして寝た。
目がさめると、イヤになるぐらいの快晴だった。
カーテン越しの春の陽気が、いまはすごく憎たらしい。晴れてる空も閉じこもってるあたしもあたしがいるこの部屋も、ぜんぶがイヤだ。ぜんぶが憎たらしくって、ぜんぶ捨てたくなる。あたしはもう一度毛布をかぶって寝ようとしたけど、睡眠薬はきちんと時間どおりに働いてくれて、寝ることもできなくなっていた。
「なんなのよっ」
そう叫びながら起き上がったところで、クビになったあたしにはすることもない。仕事をしていた今までと同じ時間に起きているのも、あたしをいっそうイヤな気分にさせた。あたしのからだは、まだ仕事を引きずっている。なのにあたしには、仕事がない。これってどういうことなのよ? と自問したところで、答えなんてあるわけない。あるのは、クビになったという現実だけだ。
極度のストレスがよみがえったせいか、腹部に鋭い痛みを覚えた。足もとはふらついて、頭もうまく回らない感じがする。とりあえずあたしは、腹痛に従ってトイレに駆け込んだ。不思議なもので、便座に座るとなぜか少し落ち着く。個室にひとりっきりになるのが、箱庭を眺めているような感じになれるからだろうか? などと考えていると、腹部の痛みは腸からきているものじゃないことがわかった。もう少し下、恥骨のあたりからつっぱるような痛みを感じる。
ポチャン、
その音は、昨日のヤケみたいなセックスが失敗に終わったことを告げていた。見ると、水彩よりもずっと色濃く、油絵の具を溶かしたようなどす黒い血があたしの股間から便器に伝わっている。なんでいきなり始まっちゃうのよ、あたしは急いで股間を拭いて中腰になり、ナプキンを取り出した。パンティにそれをくっつけて、しばらくの間は痛みに耐えながら血が流れていくのを感じる。
ポチャン、
ポチャン、
ポチャ、
チャプ、
血の勢いは少しずつ弱まってきた。今だ、あたしは股間をよく拭いて、ナプキンをつけたパンティを股に通した。見てみると、便器の中はまるで血を吐いたような鮮血に満ちている。あたしがこんな状態だなんてあいつは知らないんだろう、そう思うと、妊娠させたかもしれないとビクビクするあいつを思って少しだけ愉快になった。
でも、
トイレから出ると、一気に不愉快になった。そこにあるのは、画面の映らないパソコンと音の出ないCDラジカセと、仕事のないあたし。しかもあたしは未だに腹痛が続いていて、出かける気にもなれない。どうして生理は女にしかないのか、それも不公平に思った。男は出せばスッキリするんでしょ? なのに女は、スッキリどころかこんな苦しい思いばっかりじゃないの。あたしは女をやめたくなった。そう思ったのは、何度目かもわからない。生理がくるたびかもしれない。それぐらい、あたしの生理痛は重かった。前に堕胎したあと――その時は別の男だったけど――の検診でも、生理痛がヒトより強いようだと言われたことがある。
その頃からだ、
あたしが、あたしを「恵まれていない」と思い始めたのは。同じ人間でも、同じ女でも、あたしの肩には重すぎる荷物が乗っかってる。父親の失踪のせいであたしたち家族はそれぞれに借金を背負ってしまい、あたしにも三百万の借金が課せられている。きのう職を失ったあたしが、そんなお金など払えるわけもない。母は心労から倒れることもしょっちゅうで、あたしは部屋から実家まで何度帰ったことか。そのたびごとに兄姉や親戚は「ひとりがいなくなったらこのうちの誰かが金を払うんだぞ」という視線を浴びせあっていた。
もうイヤだ、
そう思って通うようになった精神科も、薬をくれるぐらいで役に立たなかった。ハイじゃあ君にはコレね、という具合に事務的に応対する先生で、あたしは初診でそこに通うのをやめた。次に通ったところではごくごく私的なことまで根掘り葉掘りきこうとする先生で、ここもやっぱりやめた。その次にやっと当たりが出たというか、中間ぐらいの、平均的な精神科医にあたることができた。
あたしは、意識していなかっただけで「ボーダー」なんだそうだ。
その「ボーダー」の詳しい意味は、あたしは知らない。というより、知ってはいけない気がして先生の話は聞く耳はんぶん、流すのはんぶんにしている。ただあたしが、普通の人じゃないということはよくわかった。それはすごく勇ましいことのようにも思えたし、すごく情けないことのようにも思えた。
ボーダーなんて関係ない。あたしは、あたしだ。
そんぐらい強くなれれば、どれだけ楽だっただろう。
でも実際のあたしは、常にビクビクしながら生きてきた。その反動で、きのうみたいな突発的な行動に及んでしまうこともある。あたしは昨日のおこないを少しだけ後悔しながらも、外は相変わらず晴れやかだ。憎らしいほど晴れやかだ。いっそ、死んでしまいたいぐらいに晴れやかだ。
そうか、
あたしはふと、考えついたようにしてお気に入りの服に身を包み、鍵をかけて厳重にしまっていた棚からナイフを取り出し、かばんに入れた。
こんな天気のいい日は、出かけよう。そうだ、そうに決まってる。
あたしはさっきまでウダウダと悩んでいたのが嘘のように、軽い足どりで部屋を出た。部屋の鍵をかけるのを忘れていたけど、別に関係ないような気がして、気にしないことにした。
だってあたしは、もうすぐ、いなくなるから。
気がつけば、あたしは病院にいた。
目を閉じたまま、耳をすますと人の声が聞こえる。娘は大丈夫ですか、大丈夫ですもうすぐ目ざめるでしょう、ったくこいつもやってくれたよな、という声は、それぞれ母と医師、兄のものらしい。姉はいないのかと思えば、近くでシクシクと泣いている音がする。どうして、どうして、泣き声にまじってそんな声も聞こえた。
そこであたしは目を開け、自分の考えたとおりの人間がそこにいるのを確認した。
「目が、さめたようです」
医師の言葉で、いっせいにあたしに視線が集まる。母と兄と姉と医師の八つの目、それがあたしは怖かった。一度に視線を集めるというのは、すごく怖い。そこには、それぞれの意志があるからだ。心配や怒りや嫉妬や羨望、そんなものを視線というものは持っている。そしてそこにある意志は、心配と怒りが主だった。
「なんで、こんなこと、したのよっ」
最初に口を開いたのは、涙に崩れる母だった。
あたしはその言葉で、自分のしたことを思い出していた。ぼんやりとした記憶で、それこそ夢中というやつだろうか。
人気のない公園で睡眠薬を大量にのみ、ベンチで横たわって左手首をナイフで切った。それも、白い脂肪分がこぼれ出て、赤白い肉が見えるぐらい深く。不思議と、痛みはない。むしろ快感にむせぶ時のような「あふぅ」という声がもれた。お気に入りの服に血がかからないよう、ゆっくりと少しずつ切り開いていった。血が流れやすいようにベンチから左手を地面に下ろし、そのうちに、あたしは睡眠薬で眠ってしまった。
それで、気がつけば、この状態だったことになる。
泣き崩れる母を見るたび、あたしはもう二度と、二度とすまいと思う。でも、またやってしまった。あたしのボーダーとかいうものに理解のない兄は仕方なさそうに壁を背にしているし、姉はただシクシク泣いている。
あたしが自殺未遂をしたのは、これが初めてじゃない。でも、ここまではっきりと死のうとしたのは、今回が初めてだったかもしれない。
なんで死のうと思ったかというと、天気が良かったからだ。
憎んでも憎みきれないほどの、快晴だったからだ。
そこにあたしの不遇とかがいろいろ重なってくるんだけど、それはどっちかというとサブの部分で、メインはやっぱり、天気が良かったから。あの太陽はあたしがいなくなっても変わりなく輝いているだろうし、それが憎くてたまらなかった。それに対して、あたしはくすんで公園のベンチに座っていた。
憎かった。太陽が。
そして、うらやましかった。
あたしは数日間の入院を命じられた。左手の傷がある程度いえるまで少しかかるそうだし、何より、今の状態で自宅に帰すのは精神衛生上よくないという。拘束衣を着せるかどうかという話もきこえたけど、それはまぬがれたようだ。
病院での生活は、味気ないものだった。個室病棟に入れられたあたしにはテレビもなく、本も持ってきていないし、ただ眠るぐらいしかできない。きっちり時間通りに運ばれてくる食事を右手だけで済ませては、薬を正しく服用させられる。あたしが薬をのむまで、看護婦がきっちり待機している。薬――抗鬱剤と安定剤――をのんだあとは、左手の処置だ。これがあたしはイヤだった。まだ血に染まる左手首から大きなバンソウコウをはがし、これがあなたのやったことですよ、といわんばかりに血だらけのバンソウコウと傷口とを看護婦に見せつけられてから、新しいバンソウコウを貼られる。痛いわけじゃないけど、自分のしてしまったことをまざまざと認識させられるのが、あたしはすごくイヤだった。
「正中神経を少しだけ切ってしまったので、すぐにもとどおりというわけにはいかないね」
小さな丸眼鏡をかけた医師が、説明する。
「しばらくはリハビリもしなけりゃならない。今日で退院にはなるけど、通院は続けてもらうよ」
そうしてあたしは、入院生活から解放された。
左手の痛みに気をとられていた入院中、いつのまにか生理は終わっていた。
残ったのは、左手の感覚がひどく遠くなったことだった。
部屋に戻っても、あたしは、することがなかった。
仕事もない、パソコンも壊れている、携帯電話のメモリも消えた。テレビを見る気にもなれないし、読書するには左手に負担がかかってしまう。左手を使わない生活のため料理もできず、コンビニや電子レンジ中心の食生活になって、無職だというのにお金がかかって仕方なかった。
幸い、母がいくらかのお金を渡してくれたので、左手の傷が完全にいえるまでの間は生活の心配をしないで済む。でも、そのお金も母が無理して出したものだということがわかっているので、無駄に使う気になれなかった。
通院は、順調に進んだ。神経もやがて回復し、すぐにあたしの左手は、感覚はマヒしたままでも動かせるようになった。
感覚がマヒしているというのは、奇妙なものだ。右手で左手の指に触れるとやわらかいゴムのようなものをつかんでいる気分になり、いくらつねっても、爪でつっついても痛くない。でも左手には、つねった赤いあとや爪のあとがついている。ヘンな気分だった。
そこまで治ってからのリハビリは、できるだけ左手を使うことだった。そこであたしは、申し訳ないとは思いながらも母に修理費用を出してもらったパソコンで、文章を書くようになった。そうすれば自然と左手を使え、ある程度の感覚もよみがえってくる。最初はくだらない日記を書きつづっていたけど、次第に小説や何かを書き写したり、随筆的なものを書いてみるなどしていた。そうしているうちに左手は感覚を取り戻し、通院の必要もなくなった。
あとに残ったのは、縦長の傷あと。
あたしがしてしまったことは、もう消えない。
鬱病のための通院は、まだ続いた。それはあたしが前の仕事でかかってしまってから、だいぶ良くはなってきていたらしい。少なくとも仕事はしないで済む、という開放感が原因だろう、と精神科医は説明した。でもあたしは、まだ気分がふさがったままのような気がしてならなかった。
なぜ?
あたしには、あたしがあたしである、確かな居場所がなかったからだ。
職を追われ、強制入院し、しかし、それらもあたしの居場所ではなかった。部屋に帰っても、家に帰っても、あたしの居場所はない。どこかぽつねんと座っているような無気力な感覚があたしを覆っていた。
あたしはいつも、ひとりぼっちだった。
母は兄につきっきりで、父は妹をかわいがった。かわいげもないあたしは、いつもひとりで部屋の片隅で人形と遊んでいた。幼稚園に通ってからも、ひとりだった。理由もなくいじめられっ子にされてしまったあたしは、それからずっとひとりにされた。だからあたしは、ひとりでいるすべを知らないうちにおぼえていた。小学校でも、中学校でも、高校までも、理由のない陰湿ないじめは続いた。それはあたしをいじめ続けてきた男子がずっと同じクラスだったことと関係していて、彼はあたしがいじめられっ子であることをずっとみんなに教え続けた。だからまるで伝統的に、あたしはいじめられ続けた。しかも高校のある日、その男子があたしを呼びつけて「本当は好きなんだ」と告白した。
「好き」?
「好き」の意味って、何?
それからあたしは、誰も信じなくなった。何も信じられなくなった。いじめから解放された短大ではかわるがわる男を抱いて、抱かれて、男というものの程度の浅さを知った。タバコもおぼえたし、お酒で病院にも運ばれた。でも、あたしが何をおぼえても、あたしが何をしでかしても、あたしに徹底的にかまってくれる人はいなかった。誰もが、そこそこのつきあいを求めてあたしに近づいてきた。
だから、
あたしは、太陽を憎んだ。あのさんさんと輝く太陽は、ひとりでいながら地球上の全員から見つめられている。まったく孤独じゃないものの象徴として、太陽はあたしにとって君臨している。
孤独感だったのだろうか?
文を書くようになってからしばらくして、ふと、わたしはリストカットの理由を考えるようになった。あたしは孤独感から、かまってほしくてリストカットしたのだろうか? いや、違う。あの日のあたしは、本当に死のうとしていた。だからお気に入りの服を選んで、ありったけの睡眠薬をのんで、手首から脂肪分が出てくるぐらいまで傷めつけていたはずだ。じゃあ死のうとした理由は? 太陽が憎かったから。それで、太陽は孤独の裏返し? ばかばかしい! あたしは前の仕事のつながりから確保したデザイン作業をやめて、ソファに飛び込んだ。
ソファにうつぶせになっても、もやもやした考えはまだまだ浮き出てくる。あたしが死を選んだのはすべてがイヤになったからだあたしはだからあんなセックスしたわけだし生理がきたから結果的にはまあよかったんだけどすべてがイヤになってたのよこうやって息をするのもイヤだしブツブツ考えてるのもイヤだし家族の借金もイヤだし仕事がなくなったのもイヤだし街を歩くのも電車に乗るのも買い物するのもぜんぶイヤ外に出ること自体がすごくイヤなのよこうなると食事なんてする気にもならないしお酒をのむ気にもならないでもお薬だけはきちんとのまなきゃいけないのがすごくうっとうしいあたしはただフツーの引きこもりちゃんであってボーダーとかいうものじゃないのよあたしを特別扱いしないでよいままであたしを放っておいたくせにいまさらあたしを特殊にしないでよ神様ってば聞いてるの? あたしはあたしであってほかの誰かじゃないんだからほかの人と勝手に区別しないでよ神様いるんなら返事してよあたしはもうイヤなのよぜんぶがぜんぶイヤなのよもう消えてなくなりたいぐらいイヤでイヤでしょうがないのよ、
「それは鬱病です」
不意に、医師の言葉が思い出された。
あーあ、あたしってば鬱病だったのか。それでいてボーダーとかいうやつなんでしょ? あたしはそう思うだけでイヤになる。
でも、あたしがいくらイヤになっても世界は何も変わりはしない。だから、あたしも生きていなければならない。そんな不条理にあたしは逆らいたかったけど、左手に残った縦長の傷あとが、それを自制させた。こんなウジウジ考えてるのって、ばかみたい。自分好みの箱庭を作って、そこで遊んでるみたい。もっと広い場所があるのに、そこには見向きもしないで、ただ遊んでるだけみたい。
それがあたしの、現状だった。
あたしを変化させたのは、ヤスヒコだった。
小っちゃい仕事の原稿を取りにきたヤスヒコは、初対面からあたしと意気投合した。それからあたしはそこの仕事を定期的に行うようになって、収入もいくらか増えてきた。そのたびにヤスヒコに会えるのが楽しみだった。そのうちに他の仕事も入るようになって、あたしはデザインとイラストで食べられるようになった。
ヤスヒコとあたしは、つきあうでもなく親睦を深めあった。気軽にヤスヒコ、と呼べるようにもなった頃、あたしたちは、自然な流れでセックスした。いままでつきあった男たちとは違い、ヤスヒコの愛撫はていねいだった。ていねいに、たんねんに、あたしのからだをなめ回してくる。もみほぐしてくれる。あたしはすっかり、ヤスヒコのとりこだった。ヤスヒコの一部があたしに侵入してくるのも、ごく自然だった。つないでほしかった。あたしとヤスヒコを、ヤスヒコとあたしでつないでほしかった。つながれたその瞬間、あたしはゆりかごにゆられるような気分だった。やっと安息を得たような、安堵感。開放感。安心しきってあたしは、ヤスヒコを感じまくった。
「あたしね、ボーダーらしいのよ」
セックスのあと抱き合ったまま、あたしは言った。
「鬱病の難しいやつみたいなの。だからね、いまはヤスヒコさんと一緒だから安心していられるけど、ひとりになるとすごくイヤになるの。淋しいとか孤独じゃなくて、イヤになっちゃうの」
何がイヤになるの? ヤスヒコは、タバコの煙を吐きながら聞いてきた。
「あたしも、何もかも、ぜんぶが」
でもこうしてヤスヒコに抱かれているとそれも忘れられるの、そう言いながらあたしはぎゅっとヤスヒコを抱きしめた。あったかい。人の体温というものを、なまで感じる。あたしはヤスヒコに、もう一度つないでほしくなった。それを告げようと顔を離した瞬間、あたしの頬に、体温よりもあたたかいものが触れた。
「つらいんだね」
ヤスヒコは、あたしのために涙してくれていた。そしてぎゅうううっと、あたしを力いっぱいやさしく抱きしめ返してくれた。
あたしはヤスヒコを心配させてしまった。そして、鈍感なあたしは敏感な彼の感性に気づかず、涙させてしまった。でも、イヤにはならなかった。求められている、そう感じた。やっとあたしの求めていたものが、本当は常に求めていた何かが、両手のなかにあるような気がした。そして両手の中の体温はあたしの中核に再び滑り込み、あたしとヤスヒコを、あたしとヤスヒコでつなぎ直してくれた。
やっとあたしは、とあたしは思う。やっとあたしは、帰る場所ができたんだ。
その瞬間、
あたしは、衝動に駆られた。
何の?
この人を、ヤスヒコを、殺してしまいたい衝動に。
この人が誰かの手に渡るより早く、あたしのものにしてしまえるように。
ヤスヒコにつながれているあたしは、彼の背中に回していた手を離した。そして、うまく彼を寝かせてあたしは彼の上に座った。微妙なバイブレーションは続いている。そのままあたしは、ベッドに置いていた両手を空中に泳がせた。このままこの手で、彼の首を絞めてしまえばいい。そうすればあたしとヤスヒコは永遠につながったままだ。彼を、ヤスヒコを絞め殺してしまえばいい。そうしてあたしも、死んでしまえばいい。あたしは自分の手を、ヤスヒコの肩に置いた。そのまま彼の首へ、この手を運んでいけばいい。そして絞め殺してしまえばいい。きっとヤスヒコはあたしの手を受け入れてくれるだろう。そして絞め殺されたにわとりのように、ぐったりと天に昇るのだろう。その瞬間はきっと夢うつつで、とっても気持ちいいに違いない。だからあたしは、ヤスヒコの首を絞めてあげるんだ。絞めてしまうんじゃない、絞めてあげるんだ。きっとヤスヒコは、あたしに絞め殺されるのを許してくれるに違いない。それかあたしを、逆に絞め殺してくれるかもしれない。
やるしかない、
あたしがヤスヒコの首に手を回すと彼はそれを愛撫だと思ったらしく素直に受け入れ両手でその首をつかませてくれたけど何かおかしいと思ったらしく急に腰の動きを止めて笑って悪ふざけはよせよなんて言いながらあたしの手をどけようとしたのであたしは逆に力いっぱい首を絞めてあげたらヤスヒコは本気であたしの手を振り払い何をするんだと叫んだのであたしはその口をふさいだらその手もヤスヒコはどけてあたしとのつながりをほどいてしまいあたしはどんとベッドから突き落とされて少し床を転がったそこにはあたしがあの日あたしを殺すために使ったナイフが転がっていたのでそれをさやから抜き取って彼に飛びかかったその首にナイフを突き刺してあげればヤスヒコはきっと快楽にまみれて死んでくれると思ったからだけどヤスヒコは慌てて身をひるがえしあたしの持ったナイフはベッドにブスリと突き刺さってなかなか抜けなかったその間ヤスヒコはまるで我を忘れたようにベッドの隅で呆然としていたのでああ違うんだとあたしは思ったこの人もヤスヒコも違うんだあたしのもとめていたものじゃないんだあたしの求めている何かはもうどこにもないんだと思いながらナイフをベッドから抜くとヤスヒコはまるで子供のように怯えて歯をガチガチ言わせていたなんてしょうもない男にあたしは本当のことを求めたのだろうと思うと涙が出てきたあたしは情けなくなってきたヤスヒコがあたしがヤスヒコに恋したあたし自身が情けなくなって涙が止まらなかったそのままあたしはベッドから降りてぼうっとしたまま玄関へ向かったヤスヒコは何も言わなかったし何もしてくれなかった、
あたしは、そこでようやく、あたしの探していた何かに気付いた。
それは、自分のなかにあるものだった。
自分にしかできない、一度しそこねたことだった。
「外、出るの?」
ヤスヒコの言葉は震えている。服を着なよ、というその口調も涙ぐんだものになっていた。
あたしは振り返り、にっこりと微笑んだ。
「いいの。
あたしはもう、
どこにもいなくなるから」
ナイフを持ったまま、
あたしは扉を開け、
手に入れたすべてを置いて出ていった。
(了)